赤司八幡宮
赤司八幡宮縁起は一名”豊姫縁起”と呼ばれています。
御井郡惣廟赤司八幡宮は醍醐天皇延長二年の創建となって いますが、豊姫縁起によればもと豊比咩トヨヒメ神社といい延長二年八幡大神を合祀したことが述べられています。豊比咩神 社について延喜式神名帳に「筑後国四座(大二座・小二座)、御井郡大二座小一座、高良玉垂命神社(名神大)豊比咩神社(名神大)伊勢天照御祖神社(名神小)とあり、高良玉垂命神社とならび立つ名神大社であったことがのべら れています。
一、
豊姫神社の起源は天照大神の神勅によって宇佐・宇像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのは ここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻)とある道中は河北荘道中である。「今在海 北道中號白道主貴ミチスキ此筑紫水沼君ミヌマノキミ等祭神也」(神代巻)とあるが「海北」とあるのは「河北」の書誤りである。 のち景行天皇が筑紫を巡狩されるや、当社の祭神田心姫命タゴリヒメの荒魂アラミタマが八止女津媛ヤメツヒメとなって現れたが、 水沼県主ミヌマノアガタヌシ猿大海オオミ に神告がありましたので天皇は当社に行幸されて田心姫命を道主貴として崇められました。
神霊の至すところ、 九州が平定したので、御子国乳別クニチワキ皇子を長く、祭祀の御手代ミテシロとしてとどめられました。成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置イナギ・楯矛をもってそのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村と いい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
やがて三潴郡も国乳別皇子の領所として永く筑紫道之中の藩屏とされましたが、水沼君こそはこの国乳別の子孫であり、 赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
神功皇后が西征の途に於て中ツ海ナカツウミ(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、 水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや 水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名ヌナ井の霊水 を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を 道主貴としてととめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、 神名帳には止誉比咩神社とあります。
二、
豊比咩トヨヒメ神社に八幡宮が鎮座されたことについては、もともと応神天皇生誕の地であるという霊地でありますが、 欽明天皇のころ神霊が当社三股池ミツマタノイケに現われ膳夫池辺菱磨に神告がありました。同日同時に肥後の菱形池、宇佐の 三角ミスミ池にも神託があったので、元明天皇和銅五年にはじめて宇佐宮に八幡大神を合祀されました。延長二年水沼君 菅守に勅あり八月十五日八幡大神を豊比咩神社に合祀して御井郡の惣廟とし、恒例の放生会が執行されるようになりました。
三、
後鳥羽天皇のころまで朝廷の奉幣が続き崇敬されていたが、以後のことは記録がないが、筑後国守護草野氏は代々当社を崇敬、神事祭礼は厳粛に維持されました。ところが、菊池少貮軍の筑後川の戦に際して兵火にかかって焼 失してしまいました。草野守永・大友氏時・大宮司水沼稲守の協力によって八町四方の神域に神社の再建がなされ、 九州一圓より神宝の奉納があって旧に復しました。草野守永は二男赤司蔵人永直を当社の守護として赤司城につか わしました。これより赤司氏七代相続、永明に至って天正年間肥前国へ退出しました。
応永年間大友親世が九州探題となるや、当社に供田一千町及び随兵を寄進して崇敬をつくしました。のち六十 余年筑肥騒擾に際し大友親繁は筑後に兵をすすめ、当社に神助を祈り当社境内に城を築いて筑肥政略の據点としま した。六十余年後筑肥の軍勢にかこまれて大友軍勢は神助のもと必死に防禦これを追討しました。
大友茂鎮(宗麟)が切子丹に帰依するや、切子丹豪族が蜂起して永禄天正年間数回その襲撃に逢い、防禦の甲斐も なく、豊比咩神社は兵火にかヽり神宝社伝記録すべて焼失、神田も没収されてしまいました。
茂鎮の子茂統は父の 悪行をつぐない神慮を恐れて草野家淸と協力して当社の再建につとめて旧態に復させましたが、父茂鎮の耳目を憚 ってもとの社号豊比咩神社を八幡宮と改め新に神田七十五町歩を寄進しました。
これより豊比咩神社の号が世に忘却されることになりましたし大宮司水沼氏も姓を藤原と改めて宗麟の耳目を憚りました。
秀吉の九州征伐に際し社領悉く没収されわずかに十五町歩に縮小されました。 田中吉政が筑後の国主となるや社領十五町に新に供田一町歩を添え、田中左馬允は境内を城とし三股の神池を要害として 本社の広庭を本丸としました。 かくて社地に一町四方の塀を廻らし社殿を造営しましたが、田中氏継絶の後は社領すべて百姓地となり神域も現在 にみるごとく縮少しました。
塚太明神は塚島古墳豊比咩命の霊廟であります。
当社遺卯の御船の遺跡は加田宮の神域となっています。
当社の末社・別社・攝社は河北荘一圓にまたがり、六十三社に減少していますが、往古その他御井御原郡にまたが り百三十八社に及んでいました。
以上が豊姫縁起の概容で、この縁起は豊比咩神社再興問題で赤司八幡宮と高良一山と相対侍した延享三年に、ときの 大宮司宮崎駿河より藩へ書上したとき清書されたものです。