彦狭嶋命 ひこさしまのみこと 日子寤間命:ひこさめまのみこと
第七代天皇・孝霊天皇の皇子。 『日本書紀』では彦狭嶋命とあり、母は絚某弟。 『古事記』では日子寤間命とあり、母は阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼で針間(播磨)の牛鹿臣の祖。 『姓氏録』では宇自可臣の祖。
孝霊天皇の皇子で、母は、絙某弟。氏鹿氏、越智氏の祖とされる。父の命で、伊予を統治し、伊予皇子という別名をもつ。また、愛媛県伊予郡松前町にある伊予神社の主祭神でもある。なお、景行天皇55年(125年)に東山道15カ国の都督となるも、任地に行く途中で死んだ、彦狭島王との関係は不明(おそらく別人)
- 『日本書紀』に同名の彦狭嶋の名を持つ彦狭嶋王が登場。彦狭嶋王は豊城命の孫で、景行天皇五十五年春二月五日、東山道十五国の都督に任じられたが、春日の穴咋邑にて病で亡くなり、東国の人民が秘かに屍を盗み上野国に葬った。 翌年、彦狭嶋王の御子・御諸別王が父に替って東国を治めた。
彦狭嶋命 を祀る神社
伊豫神社愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193
彦佐須岐神社広島県福山市瀬戸町大字長和3098
吉備津神社岡山県岡山市北区吉備津931
(東)楽楽福神社 ささふく
主祭神:大日本根子彦太瓊尊、細媛命、若日子建吉備津日子命、福媛命、彦狭嶋命
日南町宮内の西楽々福神社の近くに鬼林山があり、ここの鬼も退治したことになっています。最終的には、西楽々福神社が安全であり、重要な拠点であったので、皇后の細媛姫命も一緒に居ましたが、ここで死亡。裏山に葬られたと言い伝えられています。
溝口町宮原の楽々福神社では、細媛姫命ではなく、細比女命になっています
西楽々福神社では、彦狭島命が祭神としてあります。この神は、古事記では日子寤間命とありますから、西楽々福神社では天皇の勢力の人と一緒に住んでいたと思われます。
日南町印賀の楽々福神社は、祭神が媛姫命(福姫命)となっています。この姫は、細比女命の子供で、15歳で死亡したことが、伝説に残っています。
伊予国造 越智氏
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
式内社 伊豫國温泉郡 阿治美神社 |
当社は、第七代孝霊帝の第三皇子で、伊予 国を治め極めて功績の高かった彦狭島命を主 祭神とし、愛媛の総神愛比売命・伊予・久米両 郡の開拓神伊予津彦命・同妃伊予津姫命、さ らに、主祭神の御父日本根子彦太瓊命(孝霊 天皇)、御母細姫命、また、第十三代成務天 皇の勅命により伊予の国造に任ぜられた速後 神命(速後上命)を配神として祀る延喜式内 名神大社である。
続日本紀、三代実録等の史書にも著述があ り、古来より親王宮大明神として歴代朝廷の 尊崇をうけ、また、統治神として、武将・領 主等からも崇敬されてきたが、特に、源義経 が社殿を造営し、伊予の豪族河野家も又、代 々がこれを修理したと伝えられる。
江戸時代においても藩主は、参勤の上下に 必ず奉幣して安全を祈願したとも伝えられて いる。なお、当地方の古歌には、「民草も豊かなりけり国の名の いよよと守る神の誓に」とあるように、 古代よりこの地方の氏神として敬られ、伊予 一国を代表する国魂神として崇拝された旧 愛媛県社である。