彦坐王と日本武尊はともに皇族なのでこの流れは皇別氏族である。
日本武尊と妻(『記』不詳、『先代旧事本紀』では橘媛)
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息長田別王、妃 黒媛(大々杼 黒城)
(『記』、『先代旧事本紀』) 阿波君等の祖(『先代旧事本紀』)。
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杭俣長日子王
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息長真若中比売 ( 応神天皇の妻)
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若沼毛二俣王(養子、
若沼毛二俣王は百々石城に下り、弟女(オトヒメ)真若伊呂弁王を配せられ息長氏を嗣ぐ
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子は
太郎子一名大々杼王
忍坂大中女命
田井中女命
田宮中命
琴節郎女一名衣通女命
取売王及
沙禰王の三男四女を挙げる。
日本武尊の子供に「息長田別王」なる人物が古事記には記されており、その流れから15応神天皇妃「息長真若中比売」がいる。この二人の間の子供が、息長氏祖と言われている大郎子の父若沼毛二俣王が産まれているのである。
息長足姫こと神功皇后の生んだ応神天皇が、息長家の跡取りとして与えたのが末の息子の若沼毛二俣王で、息長族の娘との間に、太郎大々杼王をはじめ長女忍坂大中女命を含め三男四女をもうけます。ここまでは記・紀も北村家記も同じです。
倭建命を祖とする、この息長系譜が息長氏の本流系譜になる。太郎大々杼王の子孫から継体天皇が出てくるのである。
根拠、但し異論もあるようです。
『大阪府全志』(大正11年刊)の中に採録されている「北村某の家記」に基づくもので、当時の喜連村(現在の平野区喜連町)付近についての伝承です。
この現在の平野区を中心とする、旧河内湖の西南低湿地は5世紀、第26代継体天皇が生まれた頃は、「大々杼郷」と呼ばれていました。しかし、507年継体の諱(オホド)を憚って「杭全郷」と改名したとある。
伝承によると、喜連村一帯は、往時、大々杼(オオド)国大々杼郷と称した。その由来は、この土地に鎮座する式内社楯原神社の祭神である建御雷男命の御孫建大々杼命に因むもので、その子建彦命が父の御名を国・郷につけたという。その後、神武天皇の時に功あって、大々杼彦仁(ヒコヒトか?)に大々杼の姓を賜い、大々杼の国造に任じ、かつ剱臣(つるぎおみ)の号を賜ったという。
仲哀天皇のとき、(大々杼)黒城に嗣子がなかったので、天皇は日本武尊の子、息長田別王を下し給うて黒城の女、黒媛に配せしめられ、御子杭俣長日子王を挙げられたという。
日本武尊の妃と子
ヤマトタケルは『日本書紀』、『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。
妃:両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
稲依別王(いなよりわけのみこ) – 犬上君、建部君の祖。
足仲彦天皇(仲哀天皇)
布忍入姫命(ぬのしいりひめのひめみこ)
稚武王(わかたけのみこ) – 近江建部君の祖、宮道君等の祖(『先代旧事本紀』)。
妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)
武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王・讃留霊王) – 讃岐綾君・宮道君の祖。
十城別王(とおきわけのみこ) – 伊予別君の祖。
妃:弟橘媛(おとたちばなひめ。穂積氏忍山宿禰の娘) 9男を生む(『先代旧事本紀』)。
稚武彦王(わかたけひこのみこ)
妃:山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦噉竈見別王) – 鎌倉別の祖。
妃:布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
(稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。
一妻(『古事記』では名は不詳、『先代旧事本紀』では橘媛)
息長田別王(おきながたわけのみこ。『古事記』、『先代旧事本紀』) – 阿波君等の祖(『先代旧事本紀』)。
兄に大碓命。『日本書紀』、『先代旧事本紀』7巻天皇本紀[3]によると、ヤマトタケルとこの大碓皇子は双子とされる。
吉備津彦と桃太郎
中国地方には出雲の勢力があった。一応、大和朝廷に対して恭順の態度をとってはいるものの、出雲の力は強大であった。その出雲と温羅(ウラ)一族が手を結び大和朝廷に対して反旗を翻したとなると脅威である。そこで朝廷は吉備津彦に出陣を命じた。
吉備津彦は戦闘集団の「犬養(飼)部」と「鳥取部(ととりべ)」を率いて山陽道を進み、岡山に入る。
一方、弟の稚武彦命は淡路から讃岐へと進み、讃岐を支配していた讃留霊王(さるおう)に援軍を頼む。ここで、犬・猿・雉が揃うのだ。
楯原神社
大阪府大阪市平野区喜連6丁目
祭神は、武甕槌命と大国主命です。
『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に「楯原神社」がみえます。
社伝に、崇神天皇の治世六年、当地の国造・大々杼名黒が国造館に奉斎していた国平大神と武甕槌命を同床共殿に祀るのは恐れ多いので、別殿を造営するよう詔を受けたことにより、武甕槌命を楯之御前社、国平大神を鉾之御前社としたのが創建といいます。神功皇后の時代に、楯之御前社の社号を楯原神社に改めたとされます。
武甕槌命は神去る際に孫の大々杼命へ、自らの佩剣を霊代として祀るように命じ、子孫の大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣によりその十握剣を持って熊野へ赴き、これを奉ったため大和平定の功が成ったといいます。
彦仁は功績により大々杼国造に任じられ剣臣の名を賜ったとされますが、古代史上にはこのような国造の存在は確認できません。
武甕槌命の佩剣が熊野に天降り、高倉下を経て神武天皇に献上される話は『記』『紀』に見え、石上神宮の古社伝、もしくは物部氏伝承を原資料とすると見られますが、これを元に改変したか、異を唱える内容といえます。