山部、伊予来目部

山部連の祖である伊予来目部小楯を播磨の明石に使わされ、雄略天皇によって殺害された市辺押磐皇子の子億計(おけ)弘計(をけ)兄弟を発見し、その両名が顕宗天皇(億計王)・仁賢天皇(弘計王)になりました。顕宗紀には、その功績により、伊予来目部小楯は山官の役を賜り、姓を山部連としたことが記されています。

神武天皇の第二皇子神八井耳尊の御子「健磐龍命」 の子孫が伊予にきて健磐龍命を祀り、阿蘇宮としたとされています。健磐龍命(たけいわたつのみこと)とは、阿蘇神社の主祭神。

神武天皇の後、天皇の位を受け継ぐのは、健磐龍命の父、神八井耳尊ではなく、弟の綏靖天皇(神沼河耳命)です。その後も、綏靖天皇(神沼河耳命)側の子孫が王となっていきました。神八井耳尊と神沼河耳命には、もう一人の弟と、彦八井耳命と腹違いの兄がいました。その兄の名が、手研耳命(たぎしみみのみこと)です。兄(手研耳命)は、腹違いの弟の母である、媛蹈鞴五十鈴媛命を妻にし、腹違いの弟3人を殺そうと計画を立てました。しかしその計画を知った、神八井耳尊と神沼河耳命は、母の歌よりそのことを察知し、現在の奈良県北葛城郡王寺町にいる、手研耳を襲いました。

この時、神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに神沼河耳命が矢を射て殺しました。矢を打つことができなかった神八井耳尊は、それを恥じ、天神地祇を掌り、神渟名川耳が天皇として即位することになったといいます。その後、神八井耳尊の子孫たちは、多くの土地へと分かれて国造りの祖となっていくことになります。

その中の一人、健磐龍命の第三子、健岩古命が伊予の国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったという。

久米の祖となった健岩古命

応神天皇の時代に、伊予主命が国つくりになったとされる場所、椿神社と愛称で親しまれている伊豫豆比古命神社の主祭神、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命が最初に祀られていた場所で、この二柱の神は、久米氏の祖として祀られていました。ここ高家八幡神社の話をそのまま受け取れば、久米氏の祖は、健磐龍命(阿蘇の神)であり、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命もまた、健磐龍命の祖ということになります

伊豫豆比古命神社
一説には、この時祀られていた場所は、久米部(現在の小野町)の山の上に、久米氏の祖として、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命は祀られていましたが、その後大雨で社殿が崩壊し、山の中腹くらいのところに新しい社殿を建て、そこでまた洪水にあいその時に、御神体は別々に流され、伊豫豆比古命は、伊豫豆比古命神社に祀られ、伊豫豆比売命は、日尾八幡神社に祀られ、今も別々の場所で祭られているといいます。この起源からいうと、神武天皇の時代とそう代わりなく、伊豫豆比古命は、阿蘇からやってきた健磐龍命が祀った神と同じということになります。物部氏が祀る、饒速日命、瀬織津姫とは別の神。

松山市近辺における、久米氏山部氏の伝承

旧川内町、吉井神社は、久米主命がここを訪れ、当地にいた野蛮な民族(古那)を倒し、平定したのち祖神をたてたといいます。ということは、川内町に祀る久米氏の祖も、元をたどれば、健磐龍命(阿蘇神)へと繋がります。

川内町の隣、久米(小野)と川内の間にある重信町は、饒速日命を祭る、浮島神社があり、ここは、饒速日命の御子が御降誕した場所といわれています。

もし、ここを訪れた健磐龍命が、久米氏の祖となったのなら、本来なら、この辺り一体の住古の神社は、久米氏の祖となっていなければいけないのに、間に挟まれた重信町の一角だけ、どうして饒速日命の御子が降誕したといわれるような神社があるのでしょうか。久米小野の山奥に祭られていたという、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命は、どうして久米の祖だとされなかったのでしょうか。

造化三神の中の神で、二番目に誕生した 高皇産霊尊、三番目に誕生した 神産巣日神。神産巣日神は独身神といわれますが、久米氏の片方は、この神産巣日神を祖とする。そして、二番目に誕生した 高皇産霊尊は、男女の区別はないといいながらも、結び神(男と女)両方を持つ神といわれ、娘がいる。そして、その娘が、アマテラスの子と結婚し、ニニギと繋がる。久米氏の二つの祖とは、ニニギ(大和)へと繋がる一族と、饒速日命(倭)へと繋がる二つの祖になるということになります。

「高家八幡神社」 の由緒に「伊予にいた賊を倒し平定し祖神を祀る」

川内町 「吉井神社」の由緒

「久米主命が、この地を訪れて、野蛮な民族(古那)を倒し、平定した時、ひもろぎをたて、天神地祇及び祖神を奉斎された」

これがしめすように、ここに訪れた 久米氏とは、大和側。久米小野の山奥に祭られていた2000年前に祀られていた神は、この時訪れた久米氏の神ではなくて、両社にでてくる 「賊」 と 「古那」 は同じものをあらわし、それが、姫を祀る一族、元々ここにいた一族のことです。

この地が、久米部とつけられたのは、701年。大山祇神社の大造営が始まったとされる年です。 まさに、封印が一揆に加速した時です。

神功皇后と神武天皇の二つの跡が残るこの辺り一体は、激しい争いが起こった場所だと想像されます。そして日尾八幡神社へと別々に祀られた姫もまた、その争いの中隠されたのかもしれません。

二つのうち久米氏のうちの一つ、神皇産霊神を祖とする久米氏は、「熊襲」九州で神功皇后と争ったとされる、熊襲ではないでしょうか。

高家八幡神社
松山市北斎院町295番地
祭神 健磐龍命(たけいわたつのみこと) 應神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう)
三女神(さんじょしん)

大久米命(おおくめのみこと)
天津久米命の孫。
神武天皇の東征の際、大伴氏の祖の道臣命(みちのおみのみこと・日臣命)と共に大活躍し、その時、士気を鼓舞する為に歌われたのが久米歌である。大和の高佐士野では、神武天皇と、後にその皇后となる比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)との仲を取り持った。
記では大物主の、紀では言代主の娘とされるこの姫は、大久米命の黥利目(目の入墨)を見てビックリし、「あめつつ ちどりましとと など黥ける利目(なんてまぁ、鳥みたいにデッカイ目だこと。なんでそんなにデッカイ目をしてるの?)」と歌いかけている。それに対して大久米命は、「媛女に 直に会はむと 我が黥ける利目(お嬢さんに直にお会いして、その良さを見極める為に、私の目はこんなにデッカクしてあるのですよ)」と返す。大久米命は、武に秀でていながら武一辺倒に偏らず、勇猛果敢でありながら、ウィットに富んで情もある、誠に日本武士の鏡とされるのも無理のない方であった。しかしながら、またもや「日本書紀」はこの神を完全に無視している。
大久米命は、古事記では、神武天皇の古い親友のように描かれている。日向からの知り合いだとすれば、鹿児島神宮の所在地、姶良郡隼人町あたりが出身であるとしても可笑しくはないと思う。

七拳脛命(ななつかはぎのみこと)
大久米命の9世孫。
倭建命(やまとたけるのみこと) の東征の際に、いつも膳手(かしわで)として仕えていたとある。
神武東征の大久米命を彷彿とさせる。同一人物なのか?

猪石心足尼(いいしこり?のすくね)
七拳脛命の孫。
この方の子孫が久米氏の嫡流らしいが、系図が伝わっていない。

那爾毛古比売(なにけこ?ひめ)
七拳脛命の8世孫。
七拳脛命の6世孫で、伊予来目部播磨国司の山部小楯の孫で、 中臣可多能古の妻となり、御食子(みけこ)と国子(くにこ)を産んでいる。つまり、中臣鎌子(藤原鎌足)の祖母である。

山部比治(やまべのひじ)
七拳脛命の9世孫。
「播磨国風土記~穴禾(しさは)の郡~」に、「孝徳天皇(第36代天皇。在位645~654年)の御世に、揖保の郡を分割して穴禾の郡を作った時、山部比治(やまべのひじ)が任命されて里長となったので、この人の名前により、比治の里という。」という記事がある。比治の真名井は、籠神社の奥の宮、真名井神社が比定地の一つとされる、「天の羽衣伝説」の伝承地である。

山部赤人(やまべのあかひと)
山部比治の孫。
奈良初期の万葉歌人。三十六歌仙の一。古来、柿本人麻呂とともに歌聖と称された。下級官吏として宮廷に仕えていたらしく、行幸供奉の作が多い。優美・清澄な自然を詠んだ代表的自然詩人。「田児の浦ゆ」の歌は有名。作歌年次736年(天平8)まで。