小野神社は、滋賀県大津市小野にある神社である。祭神は米餅搗大使主命であり、日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けている。
「小野神社」小野神社・小野篁神社
小野篁神社、室町時代前期の物で切妻造平入りの本殿は遺構が少なく
重要文化財指定を受けています。
その左側の小さい社殿が「小野神社」です。
小野氏の祖先とされる天足彦国押人命、その七代目の孫・米餅搗大使主命を小野妹子が祀った事に拠ります。
米餅搗大使主命は餅造りの始祖と言われる人で現在はお菓子の神ともなっています。
11月2日に行われる粢(しとぎ)祭りには全国の箸業者が集まる。
小野氏系図
妹子、篁、道風、小町などが同族
小野妹子(おののいもこ)
春日小野臣大樹の孫。
飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清とともに帰国。同年隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高(そいんこう)と称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人(えみし)の父。生没年未詳。
上高野から修学院・一乗寺あたりは山城国愛宕郡(おたぎ)の小野郷と呼ばれ小野妹子で知られる小野一族の根拠地でした。
愛宕郡はかつて山城国(京都府)に存在した郡で、現在の京都市北区・左京区に相当します。
その小野一族を祀る小野神社が祟道神社の境内にあります。
小野毛野は奈良県天理市和爾町(わに)に小野氏の氏寺「願興寺(がんごうじ)」を建立したと目される人物です。
小野 毛野(おの の けぬ、生年不詳 – 和銅7年4月15日(714年6月1日))は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての公卿。大徳冠・小野妹子の孫。冠位は小錦中・小野毛人の子。官位は従三位・中納言。勲等は勲三等。
任ぜられ、新羅へ渡航(この時の冠位は直広肆)。帰国後も文武天皇4年(700年)に筑紫大弐に任ぜられるなど、外交関係の官職を歴任した。
大宝2年(702年)大宝律令の制定に伴い従四位下に叙せられるとともに、参議に任ぜられ朝政に参画する。和銅元年(708年)中納言に昇進し、翌和銅2年(709年)従三位に至る。和銅7年(714年)4月15日薨去。最終官位は中納言従三位兼中務卿。
小野毛人墓誌には次のように書かれている。
(表面)
飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏面)
小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
「朝臣」
小野毛人の姓である「朝臣」は、毛人が亡くなった丁丑年(天武6年、677年)にはまだ近畿天皇家では制度化されていなかった。
薮田嘉一郎氏は、
「この金石文は毛人が埋葬された時の物ではなく、
8世紀になってから毛人の息子(小野毛野)が作成し追葬したものだ。」
と主張し、現在ではこれが定説となっている。
続日本紀には毛人の位は「小錦中」となっており、
墓誌の「大錦上」とは食い違っている。
古田武彦氏は墓誌の「朝臣」は九州王朝の官職名で、
小野毛人は九州王朝の寵臣だったと主張している。
もしそれが事実だとすると、
当然父親の小野妹子も九州王朝から派遣された遣隋使ということになる。
日出処の天子=「多利思北孤」が九州王朝の天子であり、
遣隋使として小野妹子が派遣されたとなって辻褄が合うことになる。
小野毛人は天武6年に無くなったのだから天武帝は現在の天皇であり、
昔の天皇を指すような言い方、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」、は不自然であり
天武帝の本名である天渟中原瀛真人天皇と書くのが普通ではないかとの見方がある。
墓のあった崇道神社は桓武天皇の同母弟早良親王を祭神としているが、古田氏は九州王朝の天皇で小郡市に正倉院を創設した崇道天皇(久留米市史に記載があるという)を祭った神社であるとしている。
小野篁
異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁
弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。
しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した。
天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。
承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され、刑部少輔に任ぜられる。
承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。
権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善愷訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという。
同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去。享年51。最終官位は参議左大弁従三位
小野神社は、延長5年(927)完成の『延喜式』神明帳に「小野神社二座名神大」とあり、日吉神社と並ぶ官弊大社であった。現在の社殿は、江戸時代に再建されたと伝えられている。
祭神は、明治時代にできた『小野神社明細帳』によると、第五代天皇孝昭天皇の第一皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の孫、米餅搗大使主命(たがねつきのおみのみこと)である。
米餅搗大使主命は、応神天皇の頃に日本で最初に餅をついた餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
この神社は、小野妹子・小野篁・小野道風などを生んだ古代の名族小野氏の氏神社である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀(まつ)って創建したと伝える。
平安時代、小野篁(802~852)のときに、同族が小野神社に集まって氏神を祀ったことは、『続日本後記』にくわしく載っている
本殿
国重要文化財 暦応4年(1341)建立 社伝では、佐々木氏頼が、篁・道風の両社殿を創建したとされる。
江戸時代に入って、摂社である篁神社の本殿が本社より大きかったため、小野篁神社を一ノ宮、本社を二ノ宮とよぶようになったという。
境内社
小野篁神社 – 本殿は国の重要文化財。暦応3年鎮座と伝わる。
八幡神社
松尾神社
境外社
小野道風神社 – 本殿は国の重要文化財。興国2年鎮座と伝わる。
樹下神社
八坂神社
岡宮神社
小野小町ゆかりの寺
下御霊神社-補陀洛寺(小町寺)-随心院
下御霊神社には安部清行との逸話が伝わる。補陀洛寺は小野小町臨終の地といわれ、姿見の井戸、小町老衰像などがある。随心院は深草少将の百夜通いの舞台である。境内には晩年の落ちぶれた小町が卒塔婆に座っている姿の木像やラブレター千束を埋めたという文塚や化粧橋が、また近くの小川沿いにはゆかりの榧(かや)の木がある。
山科の随心院
真言宗小野流の大本山で、正暦2年(991)弘法大師第8世の法孫仁海(にんがい)僧正の開基であって、もと牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といった。当院は真言宗小野流発祥の地であって、第5世増俊が塔頭に随心院を建立し、第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称した。その後、応仁の兵火で炎上したが、慶長4年(1599)九条家から入った第24世増孝が再興
991年(正暦2年)の創建。本堂には、本尊如意輪観音坐像、定朝様式の阿弥陀如来像(重文)、快慶作金剛薩た像(同)を安置。ここは小野小町邸跡といわれ、小町作と伝える文張地蔵や化粧井戸、文塚などがある。唐棣(はねず)の梅があり、3月最終日曜に‘はねず踊り’と観梅の催し。梅の名所。真言宗。
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小野毛野は、近江毛野とは無関係?
継体21年(527年)、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じられる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海できなかった。このとき、磐井は毛野に対して「かつて同じ飯を食った仲間がなぜ命令するか」(昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき)と詰問したとされるが、近江の豪族・毛野と筑紫の豪族・磐井との間に、それ以前に交流があったかどうかは不明である