瀬戸内の備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。
特に伯耆の樂樂福神社には、「孝霊天皇は武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う」との由緒を持っている。また、備後(広島県府中市)の南宮神社は孝霊天皇の御陵とされている。
孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。
淡路の大倭玖邇阿礼比売、即ち大和国を出現せしめた姫、イザナミの神そのもの、原形のように思える。阿波国美馬郡にイザナミを名乗る唯一の式内社である伊射奈美神社が鎮座している。同じ郡に式内倭大國玉神大國敷神社二座も鎮座、淡路とよく似ている。なお名方郡に鎮座の式内天佐自能和気神社の祭神の一柱に大倭玖迩阿禮比賣命の名が見える。
古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命(しきつひこみこと)に二王が居て、その内の一人和知都美命(わちつみみこと)が淡道之御井宮にいた。とされています。そして、その和知都美命の子に蝿伊呂泥(はえいろね)=大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)(=第6世代に相当)と妹の蝿伊呂杼(はえいろど)が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっています。そして、大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)(=第7世代に相当)を儲けています。
讃岐の水主神社 伝承
社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる
孝霊天皇は倭迹迹日百襲姫の父親
伝承には伝えられてはいないが、孝霊天皇もこの地を訪問されともに住んでいた時期があったのではないだろうか。
孝霊天皇はAD179年西国平定のために大和から吉備中山に移動しているが、その経路は不明であった。孝霊天皇は大和から淡路島経由でこの讃岐国を訪れ、しばらく倭迹迹日百襲姫とともに暮らした。その後孝霊天皇は吉備中山に、倭迹迹日百襲姫は高松の船岡山に移動したと考える。
参考 孝霊天皇の伝承
『日野郡史』(日野郡自治協会編・名著出版発行)
「第四章 神社」の部分に,『伯州日野郡染々福大明神記録事』
「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也
一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也・・・・・・」
これによると,孝霊天皇は孝霊45年(171年)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また,孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したという伝承もある。
13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが,古事記・日本書紀は黙して語らない。
鳥取県溝口町鬼住山鬼退治伝承
鬼住山伝説
その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。
先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。
されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。
或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。
「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。
うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。
麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、
「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。
楽楽福神社古文書より
このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。
鬼住山伝承別伝
伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。
これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。
「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。
大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。
また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。
溝口町発行「鬼住山ものがたり」より
この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。
鬼を退治した人物
・ 四道将軍の大吉備津彦説
・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説
・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝う
・ 楽楽森彦命説
・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説
鬼住山に来た方向
・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。
・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。
・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。
孝霊山の伝承
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている
第7代孝霊天皇の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
溝口町発行 「鬼住山ものがたり」より
伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったとも考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。
鳥取県日南町宮内の崩御山
崩御山は孝霊天皇がこの地に滞在中、その皇后細姫が孝霊71年にこの地でなくなり、この崩御山に葬られたというものである
孝霊天皇がこの地で崩御したと伝えられているが,孝霊天皇はこの後も活躍しており,亡くなったのは鶯王であろう。また,孝霊天皇の幼名は楽楽福(ササフク)。
日野郡史
「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。
そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」
石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところがあり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。
これらの伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃ったが、吉備津彦が応援に駆けつけ、たちまちたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は日南町霞まで退却しそこを拠点に最後の抵抗を謀ったが大倉山の麓にて降参したと推定するのである。そうすると、孝霊天皇は石蟹魁師荒仁を打ち破った後、鬼林山の牛鬼を破り、そのまま日野川を下って鬼住山の出雲族と戦うことになったと考える。
佐々福神社
鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。
「ささふく」の名称由来
ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。
この伝承に基づいて名付けられた名称である。
神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。
「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県野義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であると解される。倭大乱を平定するためにここまで来られて拠点とされた。
佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。
倭健命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
鳥取県北栄町宮崎神社
由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊弉諾尊伊弉冉尊を奉齋し給ひき、是れ本社の濫觴なりと、斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ・・・又御難風の御時尊の御沓一隻海に失い給いしが後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり、土人この沓を奉して祀れり、是今の汐宮なりという」とある。
伊予の伝承
伊予神社
河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。
速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。
美濃国 土岐郡 天津日神社 是れ一書に孝霊天皇の御代の頃なる由を記せり。
尾張国 海東郡 津島神社 孝霊天皇45年に、建速須左男命(タケハヤスサノオノミコト)の御魂が韓郷の嶋より帰朝。
近江国 野洲郡 御上神社 孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨した。
近江国 犬上郡 春日神社 孝霊天皇五年亥の年虚空より 鹿来り千々の境内をかけ廻りて死す。
丹後国 熊野郡 三嶋田神社 孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・ 上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉る。
伯耆国 八橋郡 宮崎神社 孝霊天皇の御代、皇子大日本根子彦国牽尊、土人のために今の 本社地に伊弉諾、伊弉冊尊を奉す。
長門国 美禰郡 八幡磨能峰宮 孝霊天皇の御宇、初めて創立し天照大神、蛭子大神を奉斎。
讃岐国 大内郡 水主神社 創祀は遠く孝霊天皇の御宇。
肥後国 阿蘇郡 阿蘇神社 孝霊天皇の時、御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始め。
肥後国 蘆北郡 陣内阿蘇神社 孝霊天皇の9年(前281年)現在の阿蘇郡一の宮町に阿蘇神社と して祀られたと伝えられている。
伊予国 温泉郡 出雲崗神社 孝霊天皇の御代の創建。
美作国 東北条郡 寄松神社 孝霊天皇の御代に紀州熊野神社より勧請した。