奈良の飛鳥と宗像(津屋崎)の少彦名と阿部氏、

津屋崎の阿部氏。
筑前、宗像郡の津屋崎は九州北部沿岸で最も古墳が集中する地域。
平野の西、山塊の麓と東の海岸沿いに小さな集落が点在し、それぞれの集落の産神として少彦名命を祀る神社が集中している。
そして津屋崎の南は綿津見神を奉祭する海人族、阿曇氏の地。筑前では阿部氏と阿曇氏が重なる。「阿部」は阿曇氏の部曲、「阿曇部」とも言う。

1.「須多田天降神社」は少彦名命を祀り、集落の外れにある須多田天降神社古墳の後円部に鎮座する。須多田天降神社古墳は周壕と土提が巡らされた、全長83mの津屋崎最大級の前方後円墳である。
2.大石の「風降天神社」は少彦名命、埴安命、保食神を祀る。
「天守天神社」とも呼ばれる。由緒によると前述の須多田とこの大石の産神は元は共に天守天神社で、少彦名命を祀るという。そして、両集落の氏神はそれぞれ須多田麻呂、大石麻呂という兄弟神であるという。
3.生家の「大都加神社」も少彦名命、埴安命、保食神を祀る。境内社に天満宮があり、旧社地には菅公の大宰府左遷の際に、船を繋いだという船繋石が残る。
4.梅津の森山の中腹にある「森神社」は大己貴神、海津見神、少彦名命を祀る。そして、渡の「楯崎神社」、在自の「金刀比羅神社」。少し離れて、宗像の孔大寺山の中腹の「孔大寺神社」にもそれぞれ少彦名命が祀られている

「宮地嶽神社」
神官の阿部氏、在自村の庄屋役の安部氏一族や、前記の神社群の燈籠などに刻まれた氏子名に、阿部姓は多い。
津屋崎の少彦名命はこの阿部氏が祀るという。

この辺りは、古く、宗像三女神を奉祭する宗像氏の地。宗像郡一円は「宗像神郡」として宗像神社の支配下にあった。津屋崎町の神社の多くが宗像神社の境外末社に位置づけられ、「七十五末社」または「百八社」と呼ばれる。

ここには宗像氏以前に、隠された歴史があったようだ。

景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされ、また継体天皇の妃に阿倍波延比売がいたといわれている。

阿部氏の祖は第8代孝元天皇の長子、「大彦命」であるという。 大彦命は四道将軍として北陸を平定した後に伊賀に在し、その子孫は「阿拝氏」を称し「阿部氏」となる。よって大彦命は阿部氏の祖神とされる。

また孝元天皇の子に「少彦男心命」がいる。殊に「少彦名命」を彷彿させる名である。阿部氏の祖、大彦命の弟にあたる。少彦名命は「少彦男心命」を神格化したものではなかろうか。
 そして、同じく孝元天皇の子「武埴安彦命」が「埴安命」に対応している。大石や生家で氏神として少彦名命とともに「埴安命」が祀られている。殊に兄弟神。

津屋崎は宗像大社が鎮座する地より、名児山塊を隔てた宗像郡の西端に位置する。古く、この津屋崎の平野の中央には入江が広がっていたという。
 大宰府から延びるここを通る官道の半ばに、「久山の阿部氏」が在る。津屋崎の阿部氏との拘わりが気になる。

伊賀一宮、敢國神社は孝元天皇の長子、大彦命を主祭神とし、少彦名命を配祀する。

『筑志国造』 阿倍臣と同祖の大彦(オオヒコ)命の五世の孫の田道(タミチノ) 命
景行天皇の九州巡狩に随行した大屋田子命(大彦命の孫と称するが、実際には火国造の祖・建緒組命の子)の子の田道命

神功皇后と阿部氏

神功皇后に従った阿部氏族に、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂がいる。
 崗県主熊鰐は仲哀天皇が筑紫に行幸した際、周芳に迎えた。「崗」とは「遠賀」。遠賀郡に子孫が残り、八幡の豊山八幡神社を奉祭するという。
 吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、半島への中継地、阿閉島を本拠とする。熊鰐が仲哀天皇に献上した津屋崎沖の「相島」である。三韓遠征の際、吾瓮海人烏摩呂は志賀島の阿曇氏に先立って、西の海に偵察に派遣される。

応神天皇と阿部氏
阿曇氏は応神天皇の頃、海人の宗に任じられた。律令制の下では内膳司の長官を務める。この官は二人で、阿曇氏と高橋氏が任ぜられた。高橋氏は阿部氏の一族で、阿部は「饗(あへ)」から来ているともいわれる。

「宮地嶽神社」
この宮地嶽神社は正月の参拝者、年間参拝者数では太宰府天満宮に次ぐ、九州2位の神社。創建は約1600年前にさかのぼるといわれ、祭神は神功皇后、勝村大神(藤高麿)、勝頼大神(藤助麿)の三柱とされる。
 神功皇后が三韓征伐を前に、宮地嶽の頂きに祭壇を設け、戦勝を祈願して船出したという由来を持つ。山頂には古宮の祠と日の出の遥拝所がある。
社殿の奥に、全長23mという日本最大級の横穴式石室をもつ宮地嶽古墳がある。付近は津屋崎古墳群と呼ばれる古墳の密集地。胸形君の一族の古墳群といわれる。
 宮地嶽古墳は6世紀末から7世紀初期のものとされ、天武天皇の妃、尼子娘の父である「胸形君徳善」の墓ではないかといわれる。この古墳からは瑠璃玉やガラス、刀装具、馬具など三百点ほどが出土し、うち数十点が国宝。その繁栄を偲ばせる。

 古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
 筑前國續風土記拾遺によると「中殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げられたりと祀る。」とある。

 藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという

 津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。
 阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。

勝浦の南、奴山に織物媛神を祀る「縫殿神社」が在る。応神天皇の頃、呉の国から兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)の4人の媛が、織物の技術を伝える為にこの地に招かれた。兄媛はこの地に残り、呉の織物を伝えたという。「呉服」の由来である。縫殿神社は日本最初の織物神。

神功皇后が新羅より凱旋して大嘗会を行なった時、阿部氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。吉志舞の吉志は「吉師」で、阿部氏は吉師部を統率したという。
大彦命の子に「波多武日子命」があり、その子孫が「難波吉師三宅」を名乗る。「吉師」は外交を職務とした渡来人。
 応神期に東漢氏の祖、「阿智吉師(あちきし)」と西文氏の祖、「王仁(和邇)吉師(わにきし)」が半島から渡来している。
 日本書紀の応神天皇37年に天皇は「阿智吉師」を呉に遣わして、縫女(ぬいめ)を求めさせた。呉の王は兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の媛を与えたとある。
そして雄略天皇の頃、秦氏の秦酒公が「勝部」を率領して絹を貢進したとある。

阿倍氏と吉師の関係を結ぶのは「難波」の地だ。難波の住吉のすぐ側に、何故に阿倍野の地名があるのか? 古事記は五十狭茅宿禰を「難波の吉師部の祖」とハッキリ書いている。子孫には、三宅吉師の祖となった、三宅入石もいる。五十狭茅宿禰が吉師部の祖で、それを統率したのが阿倍氏なのだろうか? 阿倍氏の部民としてしまうには、出雲国造と同祖の五十狭茅宿禰は名族の出過ぎる。それに、この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。

また、「吉志舞」の吉志は吉師(大和朝廷で、外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称。後に姓の一つとなる)で、阿倍氏は吉師部を統率していた伴部と考えられる。吉師氏は、大阪府吹田市に本拠を持つ豪族で、JR京都線の吹田駅の一つ京都よりに「岸部(きしべ)」とう地名が残っている

吉志部神社の社家は「岸氏」。社伝には、崇神天皇56年、大和瑞籬(大和の布留の社=石上神社・社家物部氏)より奉遷し、「太神宮」として創建され、淳和天皇の天長元(824)年、「天照御神」と改称され、応仁の乱の兵火で消失したあと、文明元(1469)年再建、慶長15(1610)年に到って岸家次・一和兄弟によって再造営され、明治3年神仏分離後、「吉志部神社」と改称され現在に至っているという。

また、彼らは「安部難波吉師(あべなにわきし)」と呼ばれ、紫金山麓に一大瓦工房を造り、難波宮や平安京の瓦を作り続けた。

津屋崎の縫殿神社で勝村、勝頼の両神を通じて、阿部氏と秦氏、勝部氏、吉師が重なる。縫殿神社の傍には「酒多神社」。少彦名命と秦氏の秦酒公には「酒神」が欠かせない。
 宮地嶽神社の勝村、勝頼両神は秦氏の一族で、織物を司る勝部。

宮地嶽神社の主祭神、「阿部丞相」とは何者であろうか。

阿部丞相は神功皇后の三韓征伐従い、功があったという。丞相(じょうしょう)とは、古代中国の秦や漢王朝における最高位の官吏。今でいう総理大臣。となると「武内宿禰」のことであろうか。

近江の建部神社の摂社の八柱神社に、藤氏がある。
 八柱神社「藤時平 合祀 融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豐玉彦命、櫛名多姫命」
これは、藤原時平で時代が新しい。
融大臣は
初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。
六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。
陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。
現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。

神功皇后に従った阿部氏族に、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂がいる。
 崗県主熊鰐は仲哀天皇が筑紫に行幸した際、周芳に迎えた。「崗」とは「遠賀」。遠賀郡に子孫が残り、八幡の豊山八幡神社を奉祭するという。
 吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、半島への中継地、阿閉島を本拠とする。熊鰐が仲哀天皇に献上した津屋崎沖の「相島」である。三韓遠征の際、吾瓮海人烏摩呂は志賀島の阿曇氏に先立って、西の海に偵察に派遣される。
 が、この二人は「丞相」とはいえない。

「阿部丞相」とは武内宿禰であろうか。そういえば、前項の久山の阿部氏は「黒男神社」で武内宿禰を氏神として祀っていた。
少彦男心命は古事記では「少名日子建猪心命」。武内宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」。孝元天皇の二人の皇子の名がここで重なる。古事記では「屋主忍男武雄心命」は登場しない。
そして、少彦男心命と重なる神霊、「少彦名命」を津屋崎の阿部氏が氏神として祀る。

 宗像、鐘崎の名神大社「織幡神社」に、武内宿禰が秦氏や宗像神に拘わる興味深い伝承が残る。
 神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白2本の旗をつけ、この旗を振って敵を翻弄して最後には沖ノ島に旗を立てたという。武内宿禰が旗を織ったのがこの織幡神社。
 織幡神社は宗像郡では宗像大社に次ぐ名社。半島に至る「海北道」の基点、鐘崎の港の先にある鐘ノ岬の佐屋形山の頂きに鎮座する。武内宿禰を主祭神として、神官は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の子孫であるという。

十市の阿部氏
高屋安倍神社
奈良県桜井市谷(若桜神社境内)
祭神--大彦命・屋主彦太思心命・産屋主思命
                                                                 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 高屋安倍神社三座 並名神大 月次新嘗」とある式内社で、今は桜井市谷に鎮座する式内・若桜神社に合祀されている。
※由緒
創建由緒・時期等不明だが、近世以降の古資料には、
・大和志(1734・江戸中期)「父老云、昔桜井谷邑管内安倍松本山に在り。近く若桜神社の傍らに移る。今尚高屋明神と称す」(漢文意訳)
・神名帳考証(1813・江戸中期)「今高治明神。松本山の東に在り、今之在の谷村に移る」(漢文意訳)
  社伝に、本社は元来安倍村松本山に在りしも、霖雨の為め一山崩壊社殿破壊し、遂に若桜神社の境内に遷座せし
とあり、いずれも、当社は古くは安倍の松本山の東にあったが、近世の頃に谷村の若桜神社境内に遷ったという。
当社旧社地という松本山の所在地について、桜井市史(1979)には
「もとは南方400mの字松本山に鎮座した式内名神大社」
とあり(奈良県史-1989も同じ)、若桜神社の南400mとは桜井公園(東側に桜井小学校が隣接する)辺りかと思われるが、確証はない。

当社は古代豪族・安倍氏に係わる神社と推測されているが、旧鎮座地・松本山から西南の文珠山にかけての一帯には、艸墓古墳(クサハカ・7世紀前半と推定される終末期古墳で、安倍氏関連の墳墓ともいう、別称カラト古墳)・風呂坊1号~3号墳・文殊院東古墳・西古墳など古墳時代後期(6~7世記)築造と思われる古墳が多数あり、また通称・安倍文殊院(崇敬寺・若桜神社の西南約1.2km)が大化年中(645–49)安倍倉橋麻呂(?~649、安倍内麻呂ともいう、大化新政府で左大臣に任じられた)による創建と伝えることから、この一帯は古代安倍氏の聖地であったと考えられるという(日本の神々4)。

若桜神社--奈良県桜井市谷
祭神--伊波俄加利命・大彦命
稚桜神社(磐余稚桜神社)--奈良県桜井市池之内
祭神--出雲色男命・去来穂別命(履中天皇)・気息長足姫命(神功皇后)
式内・高屋安倍神社を合祀
                                                                  延喜式神名帳に、『大和国城上郡 若桜神社』とある式内社で、論社として上記2社がある。
 なお、延喜式には城上郡に属しているが、若桜神社の辺りは平安中期以降は城上郡だったが、11世記初め頃に十市郡に編入されたといわれ(桜井市史・1979)、諸資料では十市郡の条に記されている。

※由緒
書紀・履中天皇3年(430年頃か)冬11月6日条に、
「天皇は両股船(フタマタノフネ)を磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ、磐余池のことか)に浮かべられ、妃とそれぞれの船に分乗してともに遊ばれた。
膳臣(カシワデノオミ)余磯(アレシ)が酒を奉った。そのとき、桜の花びらが盃に散った。天皇は怪しまれて、物部長真胆連(モノノベノナガマイノムラジ)を召して、 『この花は咲くべきでないときに散ってきた。何処の花だろうか。お前が探してこい』といわれた。長真胆連はひとり花を尋ねて、掖上(ワキガミ)の室山で花を手に入れて奉った。
天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とされた。磐余若桜宮(イワレノワキサクラノミヤ)というのがそのもとである。
この日、長真胆連の本姓を改めて稚桜部造(ワカサクラベノミヤツコ)とし、膳臣余磯を名づけて稚桜部臣(ワカサクラベノオミ)とされた」
との説話が記されている。

 谷の若桜神社の祭神・伊波俄加利命(イハカカリ、伊和我加利命とも記す)の出自は不明だが、奈良県史(1989)には伊波俄牟都加利命(イハカムツカリ)の後裔とあり、
伊波俄牟都加利命は新撰姓氏録(815)に
「右京皇別  若桜部朝臣  安倍朝臣同祖  大彦命孫伊波我牟都加利命之後也」とあるように、若桜部朝臣(臣)は孝元天皇の皇子・大彦命の後裔という。

一方、池之内の稚桜神社の主祭神は出雲色男命(イズモシコオ)とあり、姓氏録には
「右京神別(天神)  若桜部造  饒速日神三世孫出雲色男命之後也  四世孫物部長真胆連云々(以下、上記説話を略記)」
とあり、若桜部造の祖・物部長真胆連(若桜部造)は物部氏系氏族という(先代旧事本紀・天孫本紀-9世記前半には出雲醜大臣命-イズモシコオオミとある)。
これによれば、若桜部氏には膳臣氏系(皇別氏族・膳臣余磯系)と物部氏系(神別氏族・物部長真胆連系)の2系列があったとなる。

この2系列の若桜部氏を、説話に基づいて、谷の若桜神社と池之内の稚桜神社の祭神に当てはめると、前者は物部長真胆連(若桜部造)、後者は膳臣余磯(若桜部臣)に関係する神社と思われ、
・掖上室山で桜を得た--長真胆連--若桜部造--出雲色男命の後裔(物部氏系)--谷の若桜神社のはず
・磐余池で酒を奉る--膳臣余磯--若桜部臣(朝臣)--大彦命の後裔(膳臣系)--池之内の稚桜神社のはず
となる。

平成23年暮れに桜井市との境界近くの橿原市東池尻町の一画から、粘土を固めた盛り土の跡が発見され、ここから西へ連なる高まりが池の水を堰き止める堰堤の跡と思われ、その南に広がる低地(現在は田畑)に磐余池があった蓋然性は高いと発表された(橿原市教育委員会)。
 とはいえ、この堰堤跡の発見を以て磐余池が池之内付近にあったと断定するのは早計で、当地周辺にあったとされる履中天皇の磐余若桜宮の跡や用明天皇の磐余池辺双槻宮の跡などが発見されるまでは保留すべきであろうともいう。

 この磐余池跡と推定される地は池之内の稚桜神社の西に近接しており、断定はできないが、稚桜神社は履中天皇が船遊びし、膳臣余磯が酒を奉った磐余池に係わって創建されたと考えられる。
【若桜神社】(桜井市谷)
JR桜井線桜井駅(北側は近鉄大阪線・桜井駅)の南約500m、JR駅前から南へ延びる県道154号線を南へ、寺川を渡り国道165号線との交差点を少し過ぎた右側(西側)に鳥居が、鳥居右脇に「式内 若桜神社」との社標柱が立つ。

※由緒
 鳥居脇に
  若宮神社記  
  一、鎮座地  桜井市谷344番地 
  一、祭 神   東殿 伊波俄加利命(イハカカリ)
            西殿 大彦命(オオヒコ)
  一、社 格   東殿 延喜式式内社  
            西殿 延喜式式内大社  (以下、祭礼日・御神徳等は略)
とあるのみで、境内に創建由緒・時期等の案内は見えない。
 なお、ここで西殿とあるのは、当社に合祀されている、式内・高屋安倍神社を指す
 資料によれば、
 ・東殿(向かって右)--若桜神社本殿--春日造銅板葺
 ・西殿--高屋安倍神社本殿--春日造銅板葺
という。

【稚桜神社】桜井市池之内
※祭神
 社頭の案内には
 ・出雲色男命(イズモシコオ)
新撰姓氏録によると、物部氏のご先祖の饒速日命の3世の子孫が出雲色男命で、また、桜の花を探し求めた物部長真胆連(稚桜部造)の4代前の祖先にもあたります。
 旧事本紀に「出雲色男命は第4代懿徳天皇の御世に太夫となり、次に大臣となる。大臣という号は、この時からできた」とあります。
・去来穂別命(イザホワケ・履中天皇)
第16代仁徳天皇の皇太子で、日本書紀の履中天皇紀に『元年(400年)春2月1日皇太子(去来穂別命)は磐余稚桜宮で即位された』と記され、池之内に都をつくられたことがわかります。
・気長足姫命(オキナガタラシヒメ・神功皇后)
第14代仲哀天皇の皇后で、天皇がお崩れになったので、天皇に代わって政務をとられる摂政となられた。日本書紀・神功皇后摂政紀に「3年春正月3日誉田別皇子(後の第15代応神天皇・・・八幡大神)を立てて皇太子とされた。
そして、磐余に都をつくられた」と記されています。
(元、末社・住吉神社に祀られていたが、社名を高麗神社に改称したとき本殿に入ったという--式内社調査報告)

勝部神社:滋賀県守山市

大化5年(649年),物部氏一族の物部宿彌広国が祖先を祀るため,物部郷(勝部,千代,蜂屋,野尻,出庭)に創建したことに始まります。(昭和16年まで,この地は栗太郡物部村に属し,物部神社と称していたようです。)
なお本殿は佐々木高頼氏が大願成就祈願のため再建,後に豊臣秀次が修理し,重要文化財となっています。
祭神は以下の3神で,物部氏の祖先神とされる神です。
(a)天火明命 <別名:饒速日命>:ニニギノミコトの兄
(b)宇摩志麻治命(うましまぢのみこと):天火明命の子
(c)布津主神(ふつぬしのかみ)

阿部氏

○ 大彦命の子・武渟川別 (たてぬかわわけ=建沼河別) 命の後
   竹田臣
○ 大彦命の子・波多武日子(はたたけひこ)命の後
 三宅人・吉志(難波忌寸系)・難波(難波忌寸系)
○ 大彦命の子・紐結(ひもゆひ=比毛由比)命の後
 日下連(阿閇朝臣系)・大戸首(阿閇朝臣系)
○ 大彦命の子・彦背立大稲腰(いなこしわけ=比古伊那許士別)命の後
 高橋朝臣・完人朝臣・阿閉臣
○ 大稲輿命の子・彦屋主田心(ひこやぬしたごころ)命の後 
道公・伊賀臣・音太部(高橋朝臣系)
○ 大彦命の孫・磐鹿六雁(いはかむつかり=伊波我牟都加利)命

春日臣、

一に云わく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を召して、太刀一千口を作らしむ。(中略)
  その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。しこうして後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく、
  『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。これ、今の、物部首らが始祖なり。

ところで「春日臣」の族「名は市河」とは明らかに米餅搗大使主命(たがねつきのおみ)の子を指していると思われますから、この註文の「一に云」は和爾氏の伝承(主張)を取り入れたものだと考えられます。書紀は続く「八十七年春二月」条に於いて初めて物部氏による神宮の祭祀を語ります(註:文中に出てくる物部十千根は伊香色雄命の子で、母親は天津彦根命の後裔、山代縣主の祖・長溝の娘、玉手姫です)。

  五十瓊敷命、妹、大中姫に謂りて曰く「我は老いたり。神宝を掌ること能わず。今より以後は、必ず汝主れ」と言う。
大中姫辞びて曰さく「吾は手弱女なり。何ぞ能く天神庫に登らん」と申す。
五十瓊敷命の曰く「神庫高しといえども、我能く神庫のために梯子を造てん。あに庫に登るに煩わんや」と言う。(中略)
然して遂に、大中姫、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまで、石上の神宝を治むるは、是この縁なり。

布留宿禰 
柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男、木事命、男、市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、布都努斯神社を石上御布瑠村高庭の地に賀ひたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首、ならびに神主首と号う。これによりて臣姓を失ひ、物部首と為る。男、正五位上日向、天武天皇の御世、社地の名に依りて、布瑠宿禰姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。