椿井大塚山古墳
相楽(そうらく)郡山城町の椿井大塚山古墳から、方格規矩鏡1面、内行花文鏡2面、画文帯神獣鏡1面のほかに、32面にのぼる三角縁神獣鏡が出土している。この古墳は、副葬品の多かったことで著名である。
36面余の銅鏡のほか、素環頭大刀、鉄刀、鉄剣、鉄槍、銅鏃、鉄甲、刀子、鉄斧その他が出土した。
『古事記』『日本書紀』は、つぎのようなことを記している。
第十代崇神天皇のとき、山背(やましろ)の国(現京都府南部)にいた武埴安彦(たけはにやすひこ)[第八代孝元天皇の子]が、反乱をおこした。崇神天皇は、討伐のために和珥(わに)の臣(おみ)の遠祖、彦国葺(ひこくにふく)を遣わした。武埴安彦は、木津川で、彦国葺をまち、さえぎった。京都府相楽(そうらく)郡木津町のこととみられる。
両軍は川をはさんで対陣した。彦国葺は武埴安彦を射殺し、さらに、武埴安彦の軍兵を京都府相楽郡精華町の祝園(はふりその)で、斬り葬った。
逃げることのできなかった軍兵は、京都府綴喜(つづき)郡田辺町河原[迦和羅(かわら)]付近で降伏した。大阪府枚方市楠葉(くすば)で、屎(くそ)を褌(はかま)におとして、怖(お)じ、にげた話ものっている。
椿井大塚山古墳は、全長約190メートルで、山城の国最大の古墳である。当時の天皇の后妃陵(平均約200メートル)なみの大きさである。
京都大学の考古学者、小林行雄氏は、大塚山古墳と武埴安彦との関係について、つぎのようにのべている。
「山城大塚山古墳の被葬者は、あるいは武埴安彦のように、大和の最高統治者の地位を争う資格のあったほどの人であったかも知れない。あるいはまた山背(やましろ)の大国不遅(おおくにふち)[「垂仁紀」34年)のような重々しい名を負うた外戚の一人であったかも知れない。それはなお明らかにすべくもないことであるが、この一族が全国的な(三角縁神獣鏡の)同笵鏡の分配にはたした重要な役割は、かならずや大和政権の統治力の伸長に役立つものであったろう。初期の大和政権の構成に、南山城のこのような一勢力が、かくも大きな比率を占めて加わっていたことは、従来の政治史的考察の上にはあまり考えられていなかったことではあるまいか。初期の大和政権の構成の問題もまた、これらの面からさらに考えて見る必要があろう。」(「古墳発生の歴史的意義」『論集日本文化の起源1 考古学』所収 平凡社)
邪馬台国大和説の立場にたつ徳島文理大学教授の、石野博信氏は、つぎのようにのべる。
「前方後円墳の中で有名な京都の椿井大塚山古墳では、三角縁神獣鏡を三十数面持っている。これは、大和政権が服属の証(あか)しに政権側から各地域の王に渡したが、その渡す役割をやった人の古墳だといわれている。この古墳は非常に古いといわれているが、ここからは土器が出ていて、土器からすると、どう見ても四世紀の中ごろから四世紀後半ぐらいのものではないかと思われる。
三角縁神獣鏡は女王卑弥呼がもらった鏡で、それを隠しておいて、ある時期になってからお墓に入れるようになったという三角縁神獣鏡の伝世論というのがあるが、そういう難しいことを考えなくても、素直に、この鏡は新しくて、その中枢を握ったといわれている椿井大塚山古墳も、土器が示すように新しい時代であると考えることができる。
そのように考えると、椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡と同じ型でつくった鏡を、Aの古墳からB、C、Dなどの古墳まで、それぞれ分有していることは事実だと思うが、そういう事実ができあがった段階は四世紀中葉であると考えると、前方後円墳が、東北から九州まで全国的に広まった段階と一致してくるのではないか」(『邪馬台国研究』朝日新聞社、1996年刊)
・椿井大塚山古墳は武埴安彦の墓と考えるのが妥当か。考古学から椿井大塚山古墳が四世紀の古墳となり、記紀の武埴安彦と崇神天皇の記述から崇神天皇は四世紀の時代と考えられる。
東大寺山古墳
武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を平定した彦国葺(ひこくにふく)の墓について考えてみよう。彦国葺は、和珥の臣(わにのおみ)の遠祖である。
和珥氏(丸邇氏とも書く)は、第五代孝昭天皇の皇子、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命[天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと)の命]を祖先とする氏族である。奈良県天理市檪本(いちのもと)町和爾(わに)の地を本拠としていた。
和爾の地には、式内社和爾下(わにした)神社(和爾下古墳がある)があり、その東側に、東大寺山古墳がある。
東大寺山古墳は、1961年~1966年に発掘調査が行なわれた。主軸全長140メートル、後円部径84メートル、前方部幅50メートル前後。
四道将軍の墓の大きさ(平均約100メートル、最大120メートル)をこえる。
『日本古墳大辞典』は、つぎのように記す。
「1961年春に大規模な盗掘によって碧玉製鍬形石19・同車輪石15・同石釧(くしろ)2・同鏃形石製品10・滑石製台付坩(るつぼ)形石製品1・同坩形石製品5とそれらの破片が掘り出され、この盗掘を契機に発掘調査が実施された。調査時には棺床の朱の上から硬玉製勾玉5・同棗玉(なつめだま)3・碧玉製管玉(くだたま)30からなる一連の装身具と鍬形石・車輪石・坩形石製品各1が、攪乱された粘土中から多数の硬玉製勾玉・碧玉製管玉・同鍬形石・同車輪石・同筒形石製品・同鍬形石製品・滑石製坩形石製品が出土している。これらの石製品類はすべて棺内遺物と考えられ、鍬形石は27、車輪石は26、坩形石製品は12、鏃形石製品は40余を数える。
また、棺外遺物として銅鏃260余・鉄鏃多数・鉄刀20・鉄剣9・鉄槍10・巴形銅器7・碧玉製鍬形石製品3・竪矧(たてはぎ)式漆塗革製短甲2・同草摺1が出土。鉄刀のなかには環体に鳥首形や家形をつけた銅製三葉環頭5と素環頭6があり、三葉環頭を装着した一振の刀背には、後漢末の中平(184~188年)の年号で始まる銘文が金像嵌されている。多数の石製品類や優秀な武器武具類をもち、奈良盆地東辺の古墳群中で数少ない内容の明らかな前期古墳の一つとして重要である。四世紀中葉から後半頃の築造と考えられる。」
黒塚古墳
大和古墳群に含まれる古墳の一つで,奈良県天理市柳本町字クロツカにある。全長約130m、後円部径約72m、同高さ約11m、前方部高さ約6mの西面する前方後円墳である。
竪穴式石室は下部を川原石、上部を大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩・春日山安山岩板石小口積みで構築し、内法長さ約8.3m、北端幅約1.3m、南端幅約0.9m、高さ1.7mを測る。
入念にベンガラを塗布した粘土棺床をしつらえ、クワ属の巨木を使用した長さ6.2m、最大径1m以上の割竹形木棺を安置する。棺内は中央部の長さ2.8m分のみを刳(えぐ)り抜き、前後の部分は刳りを残していたと考えられる。
副葬品は画文帯神獣鏡1・三角縁神獣鏡33、鉄刀・鉄剣・鉄槍25以上、鉄鏃170以上・刀子状鉄製品1・鉄小札600以上・棒状鉄製品9・U字形鉄製品1組・Y字形鉄製品2・鉄斧8・やりがんな・漆膜(盾?)・土師器など豊富である。棺内副葬品は画文帯神獣鏡・鉄刀・鉄剣・刀子状鉄製品各1のみで、その他はすべて棺外副葬品である。三角縁神獣鏡はいずれも木棺側に鏡面を向け、西棺側に17、東棺側に15、棺北小口に1を、棺の北半部をコの字形に取り囲んで配列していた。
京都府山城町椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同范(型)鏡を分有する。
奈良大学の考古学者、水野正好氏は、黒塚古墳のすぐ南西、JR柳本駅に接して、「大海(おおかい)」という地名のあることから、黒塚古墳の被葬者の候補として、崇神天皇の妃の、大海媛(おおしあまひめ)とその子の八坂入彦(やさかいりびこ)の命、大入杵(おほいりき)の命などの名をあげる(『サンデー毎日』臨時増刊1998年3月4日号)
崇神天皇の時代をやや下るという意味で、時代的には、大略合致しているといえるだろう。大海媛の子の渟名城入姫(ぬなきいりびめ)の命も、候補のなかにいれられるかもしれない。『日本書紀』によれば、渟名城入姫の命は、日本(やまと)の大国魂(おほくにたま)の神を、穴磯(あなし)[穴師兵主(あなしひょうず)神社のあるところ]や、大市(おほち)[箸墓のあるところ]にまつったという。
日葉酢媛(ひばすひめ)比婆須比売の陵
『古事記』に、こんな話がのっている。第十一代、垂仁天皇の時代の話である。
皇后の沙本姫(さほひめ)は、兄の沙本彦(さほひこ)にそそのかさて、反乱をくわだてる。垂仁天皇が、皇后の膝を枕にして寝ているときに、皇后の沙本姫は、天皇の首に小刀(ナイフ)をふりおろそうとする。しかし、心やさしい沙本姫にはそれができない。目ざめた垂仁天皇に問いただされて、沙本姫は、反乱の計画を白状する。天皇は、ため息をつくが、沙本彦討伐のための軍隊をさしむける。ところが、やさしい沙本姫は、兄の沙本彦を見捨てることもできない。沙本姫は、宮殿からぬけだし、兄の沙本彦のところへ逃げこんでしまう。
天皇は、沙本彦も、沙本姫も、ともに反乱者として、討ちはたさなければならない。しかし、天皇は沙本姫を深く愛していた。沙本姫をとりもどそうと必死の努力をするが、ついに失敗する。沙本彦と沙本姫のこもっている城に、火をかけるまえに、天皇は、沙本姫に最後のといかけをする。「お前が、かわいく結んでくれた下紐は、だれに解かしたらよいだろうか」もはや、お前を失わなければならないのなら、お前の推薦してくれた女性に、お前の役をしてもらおう、というのである。滅んでゆく沙本姫への思いやりである。
沙本姫は、自分の姪の二人の女性を推薦する。
日葉酢媛の墳墓は大正年間に大規模な盗掘にあう。
『大阪朝日新聞』1917年(大正6年)3月8日(木)の記事から、
・皇陵発掘の陰謀団
「垂仁天皇皇后陵および応神天皇皇子大山守(おおやまもり)の命の御墓を訐発(かんぱつ)す。[「訐」は、あばくこと]
大正5年(1916年)6月奈良県下において、おそれ多くも、皇陵を発掘して埋蔵品を獲得せんとしたる暴逆不軌の賊現われ、ただちに逮捕せられたるも、事態すこぶる重大なるより、これを詳道(しょうどう)するの自由を有せず。今日においてようやくその機を得たれば、当時の事情を縷述(るじゅ)して、読者とともに逆賊輩の所業を憎まん。
訐発されたるは、奈良県生駒郡平城(へいじょう)村字山陵(みささぎ)垂仁天皇皇后日葉酢媛の「狭木(さき)の寺間(てらま)の陵(みささぎ)」および応神天皇皇子大山守の命那羅山(ならやま)御墓なり。垂仁皇后陵は前方後円式にして、南面し、後円の絶山顛(ぜつさんてん)に石棺を奉埋(ほうまい)せり。・・・・・」
その結果、いろいろ発掘されるが、また埋め戻された。
その中で、直弧文縁変形内行花文鏡と流雲文縁変形方格規矩四神鏡が出土した。
また、車輪石(腕飾りの一種)、管玉(短い棒状のもの。竹管状の玉。多数連ねて装身具とする)と石釧[いしくしろ](輪の形のもの。腕輪)、鍬形石(腕輪の一種)などもあった。
日葉酢媛の墓のとなりに称徳天皇陵古墳があるが、円筒埴輪Ⅱ式が出土している。称徳天皇は8世紀の天皇で、宮内庁では称徳天皇陵としているが時代があわない。
崇神天皇陵古墳について、東京大学の考古学者、斎藤忠氏は、つぎのようにのべている。 「今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい。」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える・・・」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)
また、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も、「四世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの。」とされている(『シンポジウム 古墳時代の考古学』学生社刊)。
崇神天皇陵について、『古事記』『日本書紀』は、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道の勾(まがり)の岡の上にあり。」(『古事記』)
「山辺(やまのへ)の道の上(へ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる。」(『日本書紀』)
現在、崇神天皇陵古墳は、たしかに、奈良県の山辺の道のほとりの、岡のうえにある。自然の丘陵地形をよく利用してつくられている。
現在の崇神天皇陵古墳の存在する場所は、『古事記』『日本書紀』の記述とよくあっている。
しかし、江戸時代には、現在の崇神天皇陵古墳[行燈(あんどん)山古墳、ニサンザイ古墳ともいう。ニサンザイは、ミサザキがなまったものとみられる]が「景行天皇陵」とされ、現在の景行天皇陵古墳[渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳]が「崇神天皇陵」とされたことがあった。
つまり、崇神天皇陵と景行天皇陵とが、いれかえて認識されていたことがあった。
景行天皇陵について、『古事記』『日本書紀』ぱ、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道の上にあり。」(『古事記』)
「大足彦天皇[おほたらしひこのすめらみこと](景行天皇)を倭国(やまとのくに)の山辺の道の上(やまのへのみち)の陵(みさざき)に葬(はぶ)りまつる。」(『日本書紀』)
つまり、文献上は崇神天皇陵についての記述も、景行天皇陵についての記述も、ほとんど同じであって、区別がつかない。
崇神天皇陵の候補としては、崇神天皇陵古墳(行燈山古墳、ニサンザイ古墳)と、景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)の二つ以外には考えられないことについては、斎藤忠氏のくわしい考察がある(「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。
すなわち、斎藤忠氏は、つぎのようにのべる。
「現存する大和の古墳の上から見ると、古の城下(しきのしも)郡になり、山辺道の上にあって壮大な墳丘をもち、しかも最も古い時期におかれるものは、ミサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)と向山古墳(景行天皇陵古墳)との二つしかないのであり、この二つの古墳の被葬者をもって、記紀や『延喜式』に見られる葬地と照合することによって、崇神天皇陵・景行天皇陵とすることは最も適当とするところなのである。」
崇神天皇陵古墳は、景行天皇陵古墳よりも、あきらかに、古い形式をしている。崇神天皇陵古墳を景行天皇陵にし、景行天皇陵古墳を崇神天皇陵にすれば、第十代の天皇で古い時代の崇神天皇の古墳が新しい形式をもち、第十二代の天皇で新しい時代の景行天皇の古墳が古い形式をもつことになってしまう。
『日本書紀』は、崇神天皇の時代に、吉備津彦を西の道(のちの山陽道)につかわし、丹波(たにわ)の道主(ちぬし)の命を、丹波(後の丹波・丹後。大部分は現京都府)につかわしたと記している。いわゆる「四道将軍」派遺の話の一部である。
そして、あとでややくわしくのべるが、岡山県の「吉備の中山」に、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳がある。この中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳と平面図がほとんど相似形である。墳丘全長、後円部径などの測定値が、中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳の、ほぼ正確に二分の一である。つまり、古墳の形式は、その古墳のつくられた時期によってかなり異なるが、古墳の形式からいって、崇神天皇陵古墳は、中山茶臼山古墳と、同時期のものであることが推定される。
また、京都府の竹野郡丹後町には、神明山(しんめいやま)古墳といわれる前方後円墳がある。日本海側で、一、二の規模を誇る古墳である。この古墳も、崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほとんど相似形である。神明山古墳は、丹波の道主の命の墓である可能性もあると思う。
現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。
このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳は共通性があり、現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。
このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳の三つは、古墳の形式でも、『日本書紀』の記述でも、たがいにつながることとなる。
『陵墓要覧』は、宮内省諸陵寮の職員の執務の便のために編纂されたものである。
大正4年(1915年)10月調べ。