大矢口宿禰については、記紀に登場しませんが、天孫本紀が出石心大臣の子で、孝霊天皇に仕えたと記します。・
(東)楽楽福神社 ささふく
主祭神:大日本根子彦太瓊尊、細媛命、若日子建吉備津日子命、福媛命、彦狭嶋命
日南町宮内の西楽々福神社の近くに鬼林山があり、ここの鬼も退治したことになっています。最終的には、西楽々福神社が安全であり、重要な拠点であったので、皇后の細媛姫命も一緒に居ましたが、ここで死亡。裏山に葬られたと言い伝えられています。
溝口町宮原の楽々福神社では、細媛姫命ではなく、細比女命になっています
西楽々福神社では、彦狭島命が祭神としてあります。この神は、古事記では日子寤間命とありますから、西楽々福神社では天皇の勢力の人と一緒に住んでいたと思われます。
日南町印賀の楽々福神社は、祭神が媛姫命(福姫命)となっています。この姫は、細比女命の子供で、15歳で死亡したことが、伝説に残っています。
旧(西)樂樂福神社
ご祭神: 大日本根子彦太瓊尊 細媛命 大吉備津彦命(若建吉備津彦命の兄皇子) 彦狭嶋命
絙某弟命(はえいどろのみこと) 大山祇命(おおやまづみのみこと)
摂社 若宮神社ご祭神
磯城縣主大目命(しきあがたぬしおおめのみこと・細媛命の御父神)
欝色雄命(うつしこおのみこと)
大矢口宿禰命(おおやくちすくねのみこと)
大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)
孝霊天皇に随従され当地方の開拓に功績を残された大神達を祀る。
末社 木野山神社ご祭神
大山祇命(おおやまづみのみこと) 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
末社の相殿に鬱色雄命大水口命大矢口命三座 (祀るは当社神主入澤氏の氏神とせる由)
東楽楽福神社
鳥取県日野郡日南町宮内1065
祭神は「若建吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、福姫命」などを祀る(『鳥取県神社誌』544)。「奥日野大社」という。大吉備津彦命と若建吉備津彦命がこの地を平定し、その若建吉備津彦命の功績により、若建吉備津彦命を祀ったという。あるいは孝霊天皇が皇后細媛命、皇子歯黒命(彦狭島命)とともに伯耆に行幸し邪鬼を退治したあと、天皇の行宮が東の楽楽福神社で、皇后(あるいは皇子)の行宮としたのが西の楽楽福神社であるという(ただし、この孝霊天皇行幸伝説を『鳥取県神社誌』は古典に見えずとして強く否定している。)。境内社の
若宮神社は「欝色雄命、大水口命、大矢口命」を、
今宮神社は「磯城県主大目命」を祀る。(『鳥取県神社誌』544、546)
西楽楽福神社
鳥取県日野郡日南町宮内236
祭神は「大吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、彦狭島命」などを祀る(『鳥取県神社誌』546)。大吉備津彦命と若建吉備津彦命がこの地を平定したことにより大吉備津彦命を祀ったものという。あるいは孝霊天皇行幸伝説があるが、東楽楽福神社の項目を参照。近隣に崩御山があり、大吉備津彦命の陵墓という(孝霊天皇行幸伝説では皇后の陵墓とされる)。境内の
若宮神社は「稚武彦命、磯城県主大目命、蝿伊呂杼命」を祭り、
今宮神社には「大矢口命、大水口命」を祀る。
神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の川枯彦・川枯姫、次の世代の坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代の?国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、物部氏の「?大祢−出石心−内色許男」の三代に各々世代対応し、いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。
大新河命と大売布命と後裔氏族が共通しており、両者は同人か親子かとみられます。大売布命は『高橋氏文』に見えて景行朝の人と分かり、大新河命のほうは大矢口宿祢に引っ張り上げられて崇神朝の人になると、両者の関係が親子になります。大売布命の母親は、その後裔に志紀県主が出ることから、倭志紀彦の娘の真鳥姫とするのが妥当とみられます
穂積氏はニギハヤヒを祖とする物部氏の同族であり、いずれにせよ物部氏系の娘だとなるが、母の高屋阿波良姫が気にかかる。安倍氏の氏神は「高屋安倍神社」で、安倍氏族の高橋氏が奉ったのも「高家神社」。高橋氏との関係が考えられる。
大矢口宿祢は吉備津彦らとともに出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。
「天孫本紀」に兄弟と記される武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、名前に「モロスミ」を共有しており、『書紀』崇神六〇年条の記事でも割注で同人と記すので、これらの事情から同人としてよい。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
伊香色雄・十市根の後裔のみが本来の物部であった。十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌した
『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
- 左京神別 天神 穂積臣 – 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
- 右京神別 天神 采女朝臣 – 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」でも、同様に穂積臣・采女臣の祖である旨が記載されている。
末羅国造
– 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に穂積臣同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉を国造に定める。のちの肥前国松浦郡周辺にあたる。
(楽楽福神社の由緒:パンフレットより)
かつては日野川を隔てた対岸に(西)樂樂福神社が鎮座され本社と共に二社一対の祭祀が続けられて居りましたが
平成十六年十一月三日に当社に合祀され一社となりました。当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。
天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命」と称し、また「笹福」と号された。
古くは砂鉄生産の守護神として篤く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称された。
ご祭神の原初的な祭祀は古代まで遡ると考えられるが神社としてのご創建は仁和二年(西暦八八六年)との口伝がある。孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山に蟠居する「牛鬼」の名で恐れられる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。
現今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。一方、細媛命はご巡幸中の天皇の御跡を慕ってお尋ねになる途中、お産の悩みがあり日野川のとある石の上にお憩いになる。
時節は五月のなかばにして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉った。また増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧」と仰せになると水の音が忽ち止んだと伝わっている。
よって日野川のこの流域(日野川上菅)を「音無川」と呼ぶようになった。そして其の地をお立ちになる時「むら雨の露のなさけの名残をば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御歌を詠まれた。
皇后は更に川上に上られてついに天皇とお逢いになり、宮内の里は良い宮処となり御所と定めて多くの年月を
過ごされたと伝わっている。即ち当社はご祭神の偉大なる御治績を尊崇追慕して鎮斎された古社で、その宮処こそ「内裏」と尊称された現在の社地である。
爾来、人々の崇敬は変わる事無く開運招福・願望成就の福神として遠近よりの参拝者が今日も絶えることはない。明治元年「樂樂福社」と改め同五年縣社に列格され、同七年「樂樂福神社」と改称
同四十年神饌幣帛料供進神社に指定された。また大正八年には近隣鎮座の村社六社・無格社一社を合祀した。昭和十五年には皇紀二千六百年記念として本殿を新たに造営し同年十一月に正遷宮祭を斎行した。戦後は神社本庁の包括神社となり例祭(春季大祭・五月一日)には本庁より献幣使が参向して幣帛料を奉る。
鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場の筋
現住所 鳥取県日野郡日南町宮内
祭神 大吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命、細姫命、彦狭島命、倉稲魂命、大山祇命
由緒 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命、西道鎮撫の詔に因って弟若建吉備津彦命と共に
此の国に巡行あり、此の地に悪鬼(兇賊なり)占拠して(今に此の地を鬼林山と称ふ) 人民を鹵
掠奪せしを、大吉備津彦命之を平らけ給ひ終に此の地に薨し給ふを以て斎祀る(土俗の説に宮内の郷なる鬼林山に潜住せし悪鬼を孝霊天皇御巡狩の時討滅し給ひしと云ひ伝ふるは誤なり)該社より北に距ること二町許崩御山と称する山あり、頂上に巖石を重積すること四丈許、磊砢嵬巍鬼工の如し上に老木鬱茂し蘚苔之を蔽ふ、近郷此の種の石を産する所なし、口碑に備中国哲多郡吉川村の石を輸して築きたるものなりと、其の巨大なるものに至りては百人猶能く之を扛ぐること能はず、是れ蓋し大吉備津彦命の陵墓にして、当社は即ち大吉備津彦命の御廟社なり、大日本根子彦太瓊命、細姫命、彦狭島命は父王及び正后弟等に坐す、本社は古来屡火災に罹り記録古文書等を失ひたるを以て、沿革詳かならざれども、古来当郡の大社にして日野郡中大社楽々福大明神と称し奉り、旧藩主亦寄するに社領十三石九斗七升八合を以てせり、明治元年神社改正の際楽楽福社と改められ同五年県社に列す、同七年楽楽福神社と改む、倉稲魂命以下の神は往古より摂社として村内に鎮座ありしを明治元年合祭す、明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
伯耆民談記に「西東両社にして神宮寺あり社の大きなる待つ一本あり木風千年の昔を顕はし何様瑞ある古木なりしに正徳二辰年故なくして中折れし程なく枯果けり惜むべき事也」又当社の神領の古記あり和銅二酉年の証文あり今に至て千百年に近き事誠に稀代の遺書と謂ふべし」と、又伯耆志に曰く「当社()西東共」郡中の大社にして又一国の旧社なり今社説に伝ふる處を見るに彦太瓊命(孝霊天皇)皇后細媛命皇子歯黒命(彦狭嶋命の亦の名とす)共に当国へ行幸有て皇化を恢弘し邪鬼を征討し玉はん為にまつ当郡笹苞山(宮原村に在り)に坐まし山中邪鬼の巣窟を覆し給はんとして河源を遡り南方に進みて上菅生山湯原等の地を歴玉ひ終に鬼林山(今大林山と云ふ東村に在り)より大倉山(下岩見村)の麓に於て邪鬼を斬殺し玉ふ是より河を渡りて西方に進み細屋村に至り玉ひ爰にて皇后に会いし玉ひて是より東北に返り笠置村大宮村を歴て再南方に進み此地に行宮を建玉ふ即ち河水を隔て東村に天皇御坐し西村に皇后(一説に歯黒皇子)御座ます其の頃備中に蟹魁帥と云ふ者有て皇居を襲はむとす歯黒皇子霞郷に関を置て是を待玉ふに魁帥戦はすして降参す、後皇后此地に甍去し玉ひければ是を眞禮峰に葬奉る今社の艮位三丁許に靴り是即其御墓なりと云う(以上社殿神宮寺縁起民諺記民談記等の諸説を参取す原書杜撰甚し故に今其の要領を挙ぐ)抑太古事蹟邈として其確実証し難しと云へども神武天皇以還天皇の御事蹟於ては必ず是を国史及古書に伝ふる處なるに此天皇当国遷幸の御挙曾て史書に所見なきにより其疑を容さる事能はす今古事記を按るに孝霊天皇の條下に大吉備津日子命(亦名比古伊左勢理毘古命日本紀に彦五十狭芹命を作る天皇第三ノ皇子なり)若建吉備津日子命(日本紀稚武彦命一名弟稚武彦命に作る天皇第五ノ皇子也)此二柱相副而於針間氷河之前居忌甕而針間為道口以言向和吉備国云々と見えたり、(針間は播磨国にて氷川は同国の地名なれど今
詳ならず居忌甕とは神供の器
置て神祇を齋祀る事なり針間為道口とは播磨を征討の首とするよしにて即其国氷川の地にして軍の首途の祭し玉ひしなりかゝは吉備国とは云へとも山陰山陽の諸国に係れる事下に云へるか如し、又此時吉備国とあるは今の備前、備中、備後、美作四国の称なり) 此事日本紀にては崇神天皇十年の條に九月丙戌朔甲午以大彦命遣北陸武帑
渟川別遣東海吉備津彦西道丹波道主命遣丹波因以詔之曰若不受教者乃挙兵伐之既而共授為将軍云々冬十月云々其四道将軍以平戎夷之状奏焉とも見ゆ、此事古事記にては上に見えたる如く孝霊天皇諸皇子の苗裔を記す因みに同天皇の條に係て記さると云へとも其実は崇神天皇の御代の事なるを知るべし、斯て日本紀に吉備津彦遣西道とあるは山陰山陽に係りて汎くは大和の国より西方の国々に当れり、(古事記に吉備国とのみあるは吉備津彦命の子孫吉備国に存するよしを記さるゝ縁によればなり)さて又日本紀には吉備津彦命一柱なれとも弟稚武彦命と共なりし事は古事記に見えたるが如し此二柱備中国に祭る所神名式に同国賀夜郡吉備彦神社(名神大祭神 大吉備津彦命一宮記に当社吉備津彦命を祭ると云えるは非なりとして吉備武彦なりと云へる説あるは却て非なり) 又同郡皷神社(祭神稚武彦命)等あり是等の趣と今当社の末社に稚武彦命を祀るといへるを以て考るに此命吉備津彦命と共に吉備国を治平し玉ふ因に当国をも経歴し玉ひしものなり、是を誤りて孝霊天皇親ら邪鬼を征し玉ひしよしいへるは当社もと稚武彦命を祀れるに後世其御父天皇並に皇后をも併せ祭れるより遂に其事蹟を混せしものなるべし、然らば本社太瓊尊といへるは実は稚武彦命にて末社天皇皇后に坐すを、さては本末御父子の俄かに違へるか如くなるを以て後人今の如く誤伝へたるものにや斯て吉備津彦命御兄弟の中当国にては専ら稚武彦命の功勳を仰ぎ奉れるよしありて当社に如此齋祀れるものなるべし如此なれば当国にて孝霊天皇を祀れる諸社は都て当社の混説を伝へたるものなるべし、皇后細媛命此地に甍去坐ましゝよし云へる伝も上に云へる如く孝霊天皇に就いての訛伝なるべし、実は稚武彦命の妃を誘ひ玉へるが終に此地に甍去し玉へるものならん歟、相殿彦狭嶋命は稚武彦命の御兄に坐せとも爰に合祀すべきよしなきが如し社殿に彦狭嶋命亦歯黒皇子といへる此一名古書に所見無し若くは稚武彦命を仔細ありて当国にて歯黒皇子と称したるものにや(然らば此皇子今猶本社に祭られ玉ふ事稚武彦命当社主と坐すべき上説の一子證ともいふべし)
但し豫章記(伊豫国河野家譜) に孝霊天皇孝元天皇此孝元天皇御弟伊豫皇子ト申(母皇后細媛命磯城縣主大目女孝霊第二皇子御諱彦狭島命) 此頃南蠻戎動令蜂起之間此御子当国下給仍西南藩屏将軍云即以宣下故伊豫皇子号云々此皇子御座所伊豫国伊豫郡神埼庄ト号今霊宮申親王宮奉崇即当家曩祖宗廟神也件宮南方十八町山腰皇子御陵有臣下多死随寶王ヲ陵トナス云々、此説後人の杜撰に似たりと云へども全く古伝の存する處有しに拠れるなるべし、此頃南蠻西戎動蜂起之間と云へるは崇神天皇の御代吉備津彦命西道に遣し給ひし時の事なり、彦狭島命を伊豫皇子といへる事当社の伝に似たる事也、末社の相殿に鬱色雄命大水口命大矢口命三座を祀るは当社神主入澤氏の氏神とせる由なり、楽々福は笹葺の義ならんか上世笹を以て、御社を葺けるよしあり古雅の社号と謂ふへしササに楽々と書るは冠辞考に説あり葺に福字を書けるは伊福部などの例なり社殿に神戸住神戸脇之宮内鎮座といへる住脇二字心得す、たゝ神戸郷宮内村と云へる義なり神戸は当社の封戸ありしが地名となれるなり、当社一国の社柄にて朝廷より封戸を寄せ玉ひしものなり抑如此き名社なるに官帳官社ならざる社にも名社旧社にあらすといへども尋常の社ならざる事は論なし当社の宝庫天正年間火災に懸りて古棟札を存せず但し天正より以前なるは永禄二年再建の一枚あり(中略) 又当社和銅論旨といへる書を蔵して尤も至重とす何の代の贋作ならん杜撰甚し(中略)此等一字一文笑ふに堪されは爰に載せず。当社預りの下札寛永九年萬治二年寛文二年天和二年元禄四年以上五通あり此中寛永九年の度日野郡宮内村免高千三百三十二石二斗六升の内両社神領二十石と定められる其後萬治以下は今の如く十三石九斗七升八合の定なり二十石を減せられたる事何なる所以ならん」と
境内神社
若宮神社 祭神 稚武彦命 磯城縣主大目命、縄伊呂杼命
今宮神社 祭神 大水口命 大矢口命
大国主神社 祭神 大己貴命
倉稲神社 祭神 倉稲魂命、須佐之男命