大分の田川の弓削の春日神社
由緒
御祭神武甕槌命
布都主命
豊櫛弓削遠祖高魂産霊命
天津児屋根命
姫大神
由緒
西海豊前国田川郡弓削田の庄、弓削田春日大明神(ゆげたかすがだいみょうじん)と奉り称える由緒は姓性氏録(しょうじろく)に弓削連左京天神(ゆげのむらじさきょうてんじん)は祖先高魂産霊命(だかみむすびのみこと)三世孫、天日鷲翔矢命(あめひわしかけやのみこと)の子孫と有る。
豊櫛弓削高魂産霊命(とよくしゆげたかみむすびのみこと)則ち高皇産霊命三世孫、天日鷲翔矢命と御子(みこ)の長白羽命(ながしらはのみこと)と共に天降(あまくだ)り座す。〔古き伝に天磐樟船(あめのいわくすふね)で神天降りと、御社より申酉方、凡そ数十丁に船尾山有り、是即ち神の乗られし磐樟船山と成る古跡也〕
長白羽命子孫達は祖先の豊櫛弓削高魂産霊命、布都主命、武甕槌命の三柱を祀り弓削太神、弓矢の神と齋奉る。〔宮処を眺め常に木、栄えたる此の地を常盤山と名付け氏神として祀る〕。故に此の地を弓削の郷と言う、後に郷の名と大御神の御名と同じを恐れ、田の一字を加え弓削田と言う。
然に四十八代称徳天皇、神護景雲(けいうん)二年〔西暦七六八年〕に藤原氏は武甕槌命、布都主命、天津児屋根命、姫太御神、を大和の国春日の里〔三蓋山〕に齋奉り、春日大社と天下の諸人達大に尊敬す。
光仁天皇(こうにんてんのう)宝亀(ほうき)六年〔西暦七七五年〕に天日鷲翔矢命より三十一世孫の弓削連豊麿(ゆげのむらじとよまろ)豊前守に成るや、神代より深き因縁有ると神官官職数多引連れ奈良都春日大社の御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)し弓削太神と合わせ奉る成り。
弓削田春日大明神と齋奉り豊前国の一国一社弓矢神と鎮座する。御神威(ごしんい)盛んに弓削田庄は残らず御神領(ごしんりょう)にて年中祭祀(さいし)厳粛(げんしゅく)也。
豊櫛弓削高魂産霊命(とよくしゆげたかみむすびのみこと)則ち高皇産霊命三世孫、天日鷲翔矢命と御子(みこ)の長白羽命(ながしらはのみこと)と共に天降(あまくだ)り座す。〔古き伝に天磐樟船(あめのいわくすふね)で神天降りと、御社より申酉方、凡そ数十丁に船尾山有り、是即ち神の乗られし磐樟船山と成る古跡也〕
長白羽命子孫達は祖先の豊櫛弓削高魂産霊命、布都主命、武甕槌命の三柱を祀り弓削太神、弓矢の神と齋奉る。〔宮処を眺め常に木、栄えたる此の地を常盤山と名付け氏神として祀る〕。故に此の地を弓削の郷と言う、後に郷の名と大御神の御名と同じを恐れ、田の一字を加え弓削田と言う。
然に四十八代称徳天皇、神護景雲(けいうん)二年〔西暦七六八年〕に藤原氏は武甕槌命、布都主命、天津児屋根命、姫太御神、を大和の国春日の里〔三蓋山〕に齋奉り、春日大社と天下の諸人達大に尊敬す。
光仁天皇(こうにんてんのう)宝亀(ほうき)六年〔西暦七七五年〕に天日鷲翔矢命より三十一世孫の弓削連豊麿(ゆげのむらじとよまろ)豊前守に成るや、神代より深き因縁有ると神官官職数多引連れ奈良都春日大社の御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)し弓削太神と合わせ奉る成り。
弓削田春日大明神と齋奉り豊前国の一国一社弓矢神と鎮座する。御神威(ごしんい)盛んに弓削田庄は残らず御神領(ごしんりょう)にて年中祭祀(さいし)厳粛(げんしゅく)也。
豊後高田市の春日神社 (宇佐に近い)
御祭神
春日四柱大神
《武甕槌命》
・国譲りで大国主命の子健御名方神に勝ち、
国譲りを成し遂げた神様。
《経津主命》
・“経津”は剣の切る勢いを示し、勇武を表しています。
武甕槌命とともに、大国主命との国譲り交渉にあたり、
成功をもたらされたと書記には記されています。
《天児屋根命》
・常に国政に参与して、国土経営に大きく貢献したと伝えら
れています。
天照大神が天岩戸に隠れられたとき、祝詞を奏して祭祀を
執り行われた神様。
《姫大神》
・天津児屋根命のお妃様
宮崎の高牟禮神社
「三国名勝図会」巻之五十二
高牟礼六所権現社
高牟礼村にあり。 奉祀天津児屋根命、天照太神、斎主命、武甕槌命の四座。 祀記を按ずるに天智天皇の御宇七年、大中臣氏大職冠鎌足の命を蒙り、勧請し、三之宮四社大明神と号す云云。 真幸院一之宮は、斎主命の垂跡、下総国香取大明神を、飯野に崇む。 二之宮は、武甕槌命の垂跡、常陸国鹿島大明神を、加久藤に崇む。 三之宮は、天津児屋根命の垂跡、大和国春日大明神を、馬関田に崇むと見ゆ。 又本地聖観音銘に、宝徳三年七月初八日、大願主選岩叟と記す。 因て平山武毅考に、後世仏像を加へて、今の社号に改めしやと言へり。 猶これを査照するに、宝徳三年より、凡百二十年已然、建武元年五月二十七日、当社大官司職日下部行房職、職を嫡子行守に譲るの書に、たかむれの六所権現とすれば今号も、亦其尚しき思ふべし。
[中略]
正祭九月二十日。 社司黒木某云、当社は真幸院五社の一にて、外四社は当邑鎮守天満宮、飯野の白鳥、一之宮、加久藤二宮なりと。
○本地聖観音堂 前文に見ゆ。 当社より西北壱町許にあり。
建武元年(1334)五月二十七日の文書によると、当社大宮司職日下部行房、職を嫡子行守に譲るの書に「たかむれの六所権現」の名がある。
住所 宮崎県えびの市浦1309 御祭神 天児屋根命 瓊瓊杵命 武甕槌命 経津主命 姫大神 太玉命
奈良の門僕神社
門僕神社
青蓮寺川の西岸、鎧岳・兜岳・屏風岩を背後に鎮座の社が、式内門僕神社に比定されている。『延喜式』神名帳「九条家本」・「金剛寺本」に門僕とみえ、「国史大系」本頭注「考異云秘釈加止未毛利、或云僕一本作陪」とあり、『大和志』に門僕とのように諸説ある。
祭神について昭和二十七年の「宗教法人法による届出書」に天津児屋根命・経津主命・武甕槌命・姫大神・玉租命・天手力男命・天宇受売命を祀るとあるが、『曽禰村史』などには、『新撰姓氏録』の大和国神別に属する門部連の祖紳がここの祭神でなかったかといっている。「惣国風土記」は火蘭芹命を祀るとする。中世ごろは春日神社と称され、神宮寺を春日寺といったが、現在廃寺である。『大和志』に、曽禰谷八村共に祭祀に預かるとあるが、大字長野に残る天正十一年(1583)以来の宮座文書に、十月十一日の当社祭礼日に、各大字の当屋が人身御供の名残りの「頭申」を神前に供える。当日の獅子舞は県指定の無形民俗文化財に指定されているし、境内の御葉付イチョウも県天然記念物である。『曽禰村史』によると、「井上次兵衛覚帳」に天文三年(1534)北畠東門院殿と井上越後殿の助力で社殿造営した由、棟札があると記している。
-奈良県史(神社)より-