国号 日本、百済将軍・袮軍の墓誌

百済将軍・袮軍の墓誌

墓誌は正確には「大唐故右威衛将軍上柱國袮公墓誌銘并序」といい、唐の儀鳳3年(678)に66歳で死亡し、その年の10月に埋葬された百済人将軍「袮軍」のものであるという。

事の発端は、昨年の7月に中国の学術雑誌『社会科学戦線』2011年第3期に掲載された論文「百済人《袮軍墓誌》考論」だった。執筆者は吉林大学古籍研究所副教授で、古代文献と石刻の研究者でもある王連龍氏である。

百済の将軍・袮軍が死亡した儀鳳3年(678)は我が国の天武天皇7年にあたる。もし袮軍の墓誌に記された「日本」が我が国のことを指すのであれば、天武天皇以前に正式な国号として東アジア世界で通用していたことになる。その事に着目した朝日新聞は、昨年の10月23日(日)の朝刊で、王連龍氏の論文に掲載されていた拓本の一部を紹介し、墓誌が本物ならば「日本」の呼称の最古の例が通説よりもさかのぼる時期に金石文で確認されたことになると報じた。

 銘文では、唐の将軍となった百済人の禰軍の祖先は中国人であったものの、戦乱が続いた西晋の永嘉年間(307-313)の末に百済に移った由。曾祖の祢福、祖父の祢誉、父の祢善は、百済ではいずれも一品の位にあり、「佐平」の官となっていたとあります。その百済が660年に唐に滅ぼされ、禰軍が唐に渡ると、皇帝は喜んで栄達させ、右武衛滻川府折冲都尉に任じたとか。
「日本余噍、据扶桑以逋誅」、つまり、百済で唐(と新羅の連合)軍と戦って敗れた「日本」の残党は、「扶桑(大陽が昇るという中国伝統の東方海上の島国=唐代には日本と同一視されるようになった)」に立てこもって唐による誅罰を逃れているという状況であったため、禰軍は唐皇帝の命令によって日本に派遣されることになります。以後、唐と敵対するようになった新羅との交渉も含め、外交成果をあげたことによって、JIS+7C62宗の咸亨3年(672)には右衛将軍に任じられ、儀鳳3年(678)2月に長安県で66歳で没した際は、皇帝は絹布300段などを下賜して厚く葬らせたとあります

王論文は、『善隣国宝記』が引く『海外国記』には、郭務悰の随員の一人として「百済佐平禰軍」と記されているため、これと対応する墓誌銘の記述は信用できると論じています。また、『日本書紀』天智天皇4年九月条に見える唐からの使者に関する記事の注に「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」とあることも注意されています。

 ここで問題になるのは、墓誌銘に見える「日本」です。

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王論文は、
『三国史記』新羅本紀第六の
「文武王十年(670)十二月、倭国更号日本。自言近日所出、以為名(倭国、更[あらた]めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす)」
という有名な記述を引いた後、678年に記された禰軍の墓誌銘に「日本」という国名が見えるため、『三国史記』のこの記述を認めて良いとし、734年に死んだ井真成の墓誌に見える「日本」の用例より早い例だと説いています。

日本に来た袮軍

袮軍が我が国に派遣されてきたのは、翌年の天智天皇4年(665)のことである。『日本書紀』は天智天皇4年9月の庚午の朔壬辰(23日)の条で、”唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高(りゅうとくこう)等を遣わす”と記し、その割り注として、”等(など)というは、右戎衛郎将上柱国百済袮軍(ねぐん)、朝散大夫柱国郭務そうをいう”とコメントを付けている。

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井真成の墓誌

2004年10月11日の『朝日新聞』は唐の都・長安(現在の西安)で、8世紀前半に 遣唐使として派遣された日本人留学生の墓誌が発見されたと報道した。

記事によると、この墓誌は、阿倍仲麻呂と同期に留学した中国名:井真成(せいしんせい)のものであり、現存の実物資料としては国 号「日本」が使用された最古の例となる。

井真成は死後に玄宗皇帝から「尚衣奉御」という従五品上の役職を贈られたが、阿倍仲麻呂もこの時期に従五品下に昇格しているので 、二人はほぼ同じ程度の出世であり、似たコースを歩んでいた可能性が強い。阿倍仲麻呂はその後安南節度使(ベトナム地方の長官) にまで昇進した。

姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠くに やってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶり は抜きんでていた。

ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年(734年)の1月に官舎で 亡くなった。36歳だった。

皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない

「日本」という呼び名は7世紀から使われたとされ、大宝律令(701年)には「国号 は日本を使う」との条項がある。 しかし、今まで最古とされるものは、天平18年(746年)の年号がある役人の報告 書で、「『日本帝記』という本を書写した」と記されたものであった。

今回の発見で、734年に没した井真成の墓誌に「国号日本」と刻まれていたことから、これが最古の「日本」表記ということになる。

安本氏の見解

1、井真成が中国へ渡った時期

霊亀二年(716年)に派遣されたと考えると、井真成が18歳で中国へ行ったことになるので、36歳で死去したことと話が合う。

2、「井真成」の出自

宝賀寿男の『古代氏族系譜集成・下巻』(出典は鈴木真年『百家系図稿』)に葛井氏の系図が記載されている。この系図は元の文献に当たるなどして注意深くみる必要があるが、この系図に記載されている次の内容は『続日本紀』の記述と一致しており、ある程度信頼して良い。

「葛井」の姓は、もとは「白猪」であった。
「葛井」は、百済の辰斯王の子孫である。

この葛井氏の系図には、728年に従5位下になった「大成」、731年に外従5位下になった「広成」、さらに「乙成」という末弟が記載されている。

「成」の文字を共通にすることから「真成」はこの「大成」「広成」兄弟の弟であったと考えられる。外交関係に人材を輩出した家柄や、「真成」が活躍した年代と一致することなどもこれを裏付ける。

新唐書日本伝

国王の姓は阿毎氏(あめし)、彼がみずから言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまですべて32代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(つくしじょう)に住んでいた。
彦瀲の子の神武(じんむ)が立ち、あらためて「天皇(てんのう)」と呼ぶようになり、都を大和州(やまとしゅう)に遷(うつ)した。

次は綏靖(すいぜい)、その次は安寧(あんねい)、その次は懿徳(いとく)、その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(孝安)、その次は孝霊(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、

その次は開化(かいか)、その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいにん)、その次は景行(けいこう)、その次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)という。

仲哀が死ぬと、開化の曾孫娘(ひまごむすめ)の神功(じんぐう)を王とした。……

……、その次の用明はまた目多利思比孤ともいい、隋の開皇(581~600年)にあたる。

備考: 【天安】 平安初期、文徳・清和天皇の時の年号。857年2月21日~859年4月15日。 (大辞泉)

宋史日本国伝

……、その次は用明天皇、彼には聖徳太子という子があり、3歳にして10人が話しかける言葉を聞いて、いちどに理解した。太子は7歳で菩提寺において仏法の悟りを開いた。

彼が聖鬘経(しょうまんぎょう)を講じていたところ、天から曼陀羅華(まんだらげ)が降ってきた、という。

わが中国の隋の開皇年間(581~600年)に、聖徳太子は使者を遣わし、海路中国に来て法華経を求めさせた。

穴穂部間人皇女
(あなほべのはしひとのひめみこ、生年不詳 – 推古天皇29年12月21日(622年2月6日))は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の第三皇女。母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母弟に穴穂部皇子・崇峻天皇がいる。穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后とも称す。

聖徳太子の生母として知られる。

「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられている

645年
『日本書紀』皇極天皇四年(645)条の蘇我蝦夷そがのえみしが殺されたとき、船史恵尺ふねのふびとえさかが焼かれようとした国記をとり出して、中大兄皇子に奉献した記事がある。

隋書 倭国伝
開皇二十年(600)、倭王の姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)号し て阿輩弥(あほけみ)というもの、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。

上(しよう)、所司(しょし)をして其の風俗を訪ね令む。
使者言う、「倭王は天を 以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺 (かふ)して、坐(ざ)す。日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、我が弟に委ねんと 云う」と。

高祖曰く、「此れ太(はなは)だ義理無し」と。 是に於いて訓して、之を改め令む。

王の妻は弥(けみ)と号す。 後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。 城郭無し。

『隋書』「倭国伝」は、倭国の役人には12の官位があることを次のように記している。
内官に十二等有り、一を大徳と曰い、次は小徳、次は大仁、次は小仁、 次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、 次は大信、次は小信、員に定数無し。

●「倭の五王」に関する日本書紀の記述 雄略紀五年条
「倭の五王」に関する日本書紀の記述はあるだろうか? その一つとして「雄略紀五年条(461年)」が挙げられている。中国関係ではなく百済関係記事だが、ここには「日本」と「大倭」、「天皇」と「天王」 が並記されている。
雄略紀五年条(461年)
「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往き、天皇に仕えよ、、、百済新撰 に云う、、、蓋鹵王(がいろおう)、弟の昆攴君を遣わし、大倭に向かわせ天王に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」
ここでは「百済の君が弟を日本の天皇に仕えさせた。百済新撰には『百済王が弟を大倭の天王に仕えさせた』とある。」と二文が並記されている。その解釈からこの記述は「倭国=大倭=日本=大和朝廷、従って倭の五王=大和天皇」(定説)の論拠とされている。これを検討するが、その前に、2節程準備の説明が要る。
「百済新撰」 日本書紀に引用されるのみで、原本・写本・他の引用などは無いという。

「日本」という国号を当時の唐に対して正式に名乗ったのは、大宝2年(702)に派遣された第7次遣唐使のときだったとされている。柳芳という人物が唐の代宗(在位762 – 779)の時に撰述した『唐暦』には、「この歳、日本国その大臣朝臣真人を遣わし、方物を貢ぐ。日本国は倭国の別名なり」と記されている。大臣朝臣真人とは遣唐使節の執節使を務めた粟田真人(あわたのまひと、 ? – 719)のことである。

粟田真人が執節使を拝命した第7次遣唐使は、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦って破れ、669年に謝罪使を派遣して以来、実に33年ぶりに派遣した遣唐使である。「執節使」とは天皇から国家権威のシンボルとして授けられた「節刀」を所持する人物で、使節団の最高責任者として、その地位は大使よりも上だった。

1年前の大宝元年(701)8月3日、大宝律令が完成した。刑部親王・藤原不比等・粟田眞人・下毛野古麻呂らが中心になって選定を進めてきた事業である。その完成は、白村江の敗戦以来、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件とされている。そのため、大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説が一般的である。

日本国号の成立を孝徳天皇の時代まで遡らせるのは無理としても、唐との関係に収斂する大宝律令成立説に疑問を投げかける専門家もいる。そうした専門家が、大宝律令以前の成立を証明する文献としてよく引き合いに出すのが『三国史記』である。『三国史記』の新羅本紀、孝昭王7年3月の記述には、「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とある。孝昭王7年は西暦698年、文武天皇の2年に当たり、大宝3年の中国への日本号使用以前に、すでに対新羅外交で「日本」という国号が使用されていたと見る。

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経緯

倭人伝
・倭人は漢の時朝見してきた。
・30国が使訳を通じている。
・「邪馬壱国」という国があり,卑弥呼という女王が治めている。

【後漢書】・・・成立年代によりここに置く
・大倭王は「邪馬台国」に居る。
・倭奴国が朝見してきたので,金印等を与えた。
・女王国の東に「拘奴国」があり,女王国に属していない。
・また別に「東テイ国」という国もある。

【宋書】
・倭国は代々使いを送ってきた。
・讃・珍・済・興・武などの王がいて,朝鮮半島の支配権を
中国に認めてもらおうとした。
(中国と対等になろうとはしていない)

【隋書】
・タイ(倭と似ているが違う字)王の姓は「阿毎」,
字は「多利思北孤」という。
・その地には阿蘇山があり,火山活動をしている。
・タイ王は小野妹子を使者として,対等外交をしようとした。
(「日出処天子」→「日没処天子」)
・隋の皇帝は憤慨し,使いを送ってその国の様子を報告させた。
・その後,国交が絶えた。

【旧唐書】・・・2つの国伝
1.倭国伝
・その王は「阿毎」氏である。
・古の倭奴国のことで,代々中国と国交があった。
・648年に最後の使いが来た。

2.日本国伝
・日本国は倭国の別種である。
・小国だったが,倭国を併合した。
・東方にある。さらに大山があり,その向うには
毛人の国がある。
・多く自らキョウ大で実をもって対えず,
中国はこれを疑っている。

【新唐書】
・日本国は元の倭奴国である。
・王は「阿毎」氏で,「天御中主」以来32代が
筑紫で治めてきた。
・神武天皇に至って大和へ進出した。
・用明天皇の亦の名は「目(代理)多利思北孤」で,
この時から大和は中国(隋)と通じるようになった。

参考文献~
岩波文庫『魏志倭人伝・他三篇』
岩波文庫『旧唐書倭国日本伝・他ニ篇』