和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主の弟、または同一人物。
米餅搗大使主(鏨着大使主)・・建振熊(和邇の祖)の子。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖。
天足彦国押人命七世の孫である米餅搗大使主の子・市川臣を祖とする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人となる。
米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)
孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。
応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。
小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)
富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図の米餅搗大臣命の注釈【若狭國三方郡和爾部神社是也】は、現在の福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社を指す。
表記は「米餅搗大臣」の他、『新撰姓氏録』においては「米餅搗大使主」「米餅舂大使主」「鏨着大使主」の三通りがある。「米餅」の訓は、「鏨」の訓である「たかね / たがね」とされるが、上記の餅の伝承に関連して「しとぎ」とする見解もある。
父:武振熊命
兄弟:日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰
子:八腹木事、春日和邇深目、春日市河、春日人華(仲臣)
子孫の一部
左京:大春日朝臣(もとは仲臣である)、小野朝臣、櫟井臣、和安部臣、山上朝臣
山城国:小野朝臣、粟田朝臣、小野臣、和邇部、大宅
大和国:柿下朝臣(柿本臣)、布留宿禰(もとは、物部首)、久米臣
摂津国:井代臣(井出臣)、津門首、物部、羽束首
河内国:大宅臣、物部
右京未定雑姓:中臣臣
米餅搗大使主のもとの名は「日布礼大使主」とされる(滋賀県神社庁)。
『阿波国続風土記』5巻、大麻比古神社項より
仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定 此ヨリ以前ハ中臣佐久命ニテ㫪米部起テヨリ米餅㫪大使主ト称フ事明ナリ
津門神社 (島根県江津市):米餅搗大使主を津門氏の祖とする。
和珥氏の祖は天足彦国押人命。奈良盆地東北部・春日の辺りを本拠とします 。 孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命を祖とするが、小野神社境内には小野氏系図として敏達天皇の皇子の春日皇子を起点とする系図も紹介している。
葛城氏や蘇我氏のように一族である妃所生の皇子女から天皇を出すことはありませんでしたが、后妃を多く輩出し、孫世代からの皇后も何人かいました。 欽明天皇の頃に名が見えなくなり、春日氏に改姓したと推測されています。
宮主宅媛【みやぬしのやかひめ】.<宮主矢河比売(古事記)>
15代応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。
所生の皇子女
菟道稚郎子皇子(応神天皇皇太子)、 八田皇女(仁徳天皇后)、雌鳥皇女(隼別皇子妃)
.古事記によると、菟道稚郎子皇子は父・日触使主とともに宇治の辺りに住んでいたようです。応神天皇の求婚譚があります。
.媛の所生の皇子・菟道稚郎子皇子は応神天皇に皇太子に指定され、渡来人・王仁を家庭教師としました。しかし応神天皇の死後、兄・大鷦鷯皇子(後の仁徳帝)と帝位を譲り合い、即位せぬままに3年後死没したと伝えられ、播磨風土記に「宇治天皇」とあります。あるいは皇位をめぐる騒動があったのかもしれません。
.死に際し、菟道稚郎子皇子は同母妹・八田皇女を仁徳帝の後宮に入れるよう頼んだといいます。が、これも後世に加えられたものでしょう。
袁那弁郎女(古事記)
応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。宮主宅媛の妹。
所生の皇子女
菟道稚郎姫皇女(仁徳天皇妃)
.媛の所生の皇女・菟道稚郎子皇女は、古事記によると異母兄の仁徳帝の妃となりましたが、子供はなかったといいます。この結婚も、仁徳帝と伯母の宮主宅媛の子・菟道稚郎子皇子との皇位継承に関する騒動と関連しているものでしょうか。
和邇氏の系譜、難波根子武振熊命
五代孝昭帝の子孫を称し、その系図は、
天足彦国押人命--和邇日子押入命--彦国姥津命--彦国葺命--大口納命--難波根子武振熊命
と繋がり、神功皇后に味方して仲哀帝と大中姫との間に生まれていた忍熊王の軍勢を撃破したと伝えられる難波根子武振熊命(ナニワネコタケフルクマ)の子供の代に至って大きく
①日触使主命・口子(和邇臣)、
②大矢田宿禰、
③米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)、
④石持宿禰
の四つの血筋に分岐します。その内の米餅搗大使主命の子供達の世代で和邇氏そのものが更に、
①市河(春日臣、物部首--布留宿禰)、②深目(春日和邇)、③八腹小事(大宅臣)、④人華(粟田氏、柿本氏、小野氏)
の四流に分かれたとされており、人麻呂の出たとされる柿本家(柿本臣)は、この四番目に相当する家系だと言う事になっているのです。尤も、武振熊命と息長帯比売命を「同じ世代」に生きた者として伝える「系図」の危うさには留意するべきか。
「日本書紀」垂仁三十九年冬十月条の五十瓊敷入彦命「剣一千口を作る」の本文に続く一書の中で、
鍛名は河上を喚して、太刀一千口を作らしむる。(中略)その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して
石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく「春日臣の族、名は市河をして治めしよ」とのたまう。
因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首(もののべ・おびと)が始祖なり。
和邇氏から春日氏が出て、その名 市河から、物部の首が出ている。
市河=物部首が武器庫の管理者として「神」から直に「指名」されたのだ、という伝承を公に日本書紀が採録している点に注目するなら、それぞれ「和邇」を名のる家々に血縁があったのかは不明にしても、応神朝よりも「以前」から金属生産や銅器、鉄器の供給で帝室を支える「和邇」を自称する「族」が複数存在していたことが容易に推察されます。
「新撰姓氏録」大和皇別
柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男木事命、男市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、
布都努斯神社を石上御布瑠村の高庭の地に賀いたまう。市川臣を以て神主と為す。
四世孫、額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首ならびに神主首と号う。これによりて臣の姓を失ひ物部首と為れり。男正五位上日向、天武天皇の御世、
社地の名に依りて、布瑠宿禰(ふる・すくね)の姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。
布留宿禰の項に在る一文によって「市川臣」が先の「市河」と同一人物だと推測出来ますから、元々、金属器の生産を受け持っていた氏族が武器そのものを神として「祀る」立場を与えられたことによって「もののべ」「おびと」を名乗ったのだと分かります。更に「姓」の授与剥奪が大王の専権事項であったことに思いをいたすなら、この文章は「宗我蝦夷大臣」が実質的に大王であった事を示唆しているのかも知れません。
時代は下りますが六世紀初頭、ヤマト朝の大王に迎え入れられた継体帝と息子達(安閑・宣化)がこぞって和邇一族の皇后を迎えている
西暦702年遣唐使として混乱の最中にある大陸へ渡った粟田朝臣真人(?~719)は、太宰帥を務め正三位にまで昇った「人華和邇」の出世頭で柿本氏とも同族、そして、ほぼ人麻呂と同世代を生きた人物のはずなのですが、日本書紀・続日本紀は同族の柿本人麻呂に関して何も語ろうとはしません。
続日本紀や新撰姓氏録でこの姓を「丸部(わにべ)」と書く。
万葉巻十一(2362)に「相狹丸(あうさわに)」【巻八では「相佐和仁(あうさわに)」と書いてある。】とあるのも同じだ。【ただしこれらは、上記の「印(いに)」と同じく、「わに」の二音の仮名である。】
「丸邇」は地名で、大和国添上郡にある。この地のことは、水垣の宮の段に「丸邇坂」とあるところで言う。【伝廿三の七十六葉】この姓は、書紀の孝昭の巻に「天足彦國押人(あめたらしひこくにおしひと)命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」とある。この命はこの記では「天押帯日子(あめおしたらしひこ)命と書き、子孫の氏をたくさん挙げたうちに、【伝廿一の廿六葉から卅三葉まで】この姓は漏れている。だがこの氏人は、水垣の宮の段に日子國夫玖(ひこくにぶく)命、訶志比の宮(仲哀天皇)の段に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)命、その他明の宮(應神天皇)、朝倉の宮(雄略天皇)、廣高の宮(仁賢天皇)などの段にも見える。書紀の雄略の巻には「春日の和珥臣」ともある。
ところが浄御原の朝の御世、臣姓の氏々の多くに朝臣姓を加えた中(天武十三年十一月の五十二氏の叙位)に、どういうわけかこの氏は漏れている。続日本紀廿六に「天平神護元年七月、左京の人、丸部(わにべ)臣宗人ら二人に、宿禰の姓を与えた」、【「丸部」は丸邇部である。天武紀に「和珥部臣君手」と書かれている人が、続日本紀一では「丸部臣」と書かれているので分かる。】廿九に「神護景雲二年閏六月、左京の人和珥部臣男綱ら三人に和珥部朝臣の姓を与えた」とある。
新撰姓氏録
【左京皇別】「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の四世の孫、矢田宿禰の子孫である」【左京皇別】「和邇部朝臣は、大春日朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖云々」、「丸部は和邇部と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の子、伊富都久(いおつく)命の子孫である」
【右京皇別】「和邇部は、天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」
【山城国皇別】「和邇部は、小野朝臣と同祖、天足彦國押人命の六世の孫、米餅搗大使主(しとぎつきのおおおみ)命の子孫である。一本に彦姥津命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」
【摂津国皇別】「和邇部は、大春日朝臣と同祖、云々」
【これらのうち、続日本紀や新撰姓氏録の「和邇部朝臣」の「邇」の字は、諸本に「安」と書いてある。ところが多くのうちで、朝臣姓だけがそうなっているから、何か理由があってのことかと思ったが、やはり「邇」を誤ったのだろう。】
三代実録七に「左京の人和邇部大田麻呂に姓を与えて宿禰とした。大田麻呂がみずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、また「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅繼(やかつぐ?)に姓を与えて邇宗宿禰とした。みずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、【「邇宗」は「ちかむね」と読むのか。】九に「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞、宅守らに姓を与えて邇宗宿禰とした」などと見える。
この姓は、古くは「和邇」とだけあるのだが、天武紀に初めて「和邇部臣君手」とあり、その後は「和邇部」とばかり書かれる。いつから「部」が加わったのか。延喜式神名帳には若狭国三方郡に和邇部神社がある