和気氏(わけうじ)は別氏とも書き、清麻呂の生家は先祖代々から和気郡司を務めた和気郡の伝統的名家です。
「日本後記」によると、和気氏の祖は垂仁天皇(前29年-70年)の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)であり、清麻呂は15代目にあたることからしても、和気氏の出自は皇族の系統であることがわかります。和気清麻呂の父の名前は磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)です。磐梨という名称については、「続群書類従」に記されている和気氏の系図に、垂仁天皇の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)の3世の孫、弟彦王が初めて吉備磐梨別公の氏姓を賜わったとあります。弟彦王は神宮皇后の新羅征伐の際に活躍し、その軍功により現在の岡山県和気郡周辺となる吉備磐梨県、藤原県を授かったのです。よって、和気氏の本来の名は磐梨氏であり、後に和気氏と改名され、7世紀には皇族の血統を継ぐ豪族の名として定着します
年代記
和気清麻呂
天平宝字元年(757年)藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力を振るった。
天平宝字8年(764年)太政大臣 恵美押勝の乱
天平神護元年(765年)乱の平定により、吉備真備 勲2等・清麻呂 勲6等
天平神護2年(766年)吉備真備は、1月に中納言、3月に大納言、10月右大臣従2位となる。
そのときの権力者は、称徳女帝と法王道鏡、左大臣藤原永手
神護景雲3年(769年)「宇佐八幡宮の神託」を和気清麻呂が使者となる。神託の内容が「道鏡を天皇にするな」という内容だったため、大隅国に流された。
宝亀元年(770年)許されて、京に戻る。
宝亀6年(775年)吉備真備、81歳で他界
天応元年(781年)桓武天皇即位
延暦3年(784年)長岡宮造営功労者として叙位。
延暦7年(788年)和気清麻呂が、美作、備前の国造になる。
延暦12年(793年)平安京造営開始、遷都の提言をしたのが、清麻呂。
延暦13年(794年)平安遷都
延暦15年(796年)平安京造営太夫
延暦18年(799年)清麻呂 67歳で没
赤坂・磐梨郡の遺跡
両宮山古墳
4つの町(山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町)が合併して岡山市の北東に赤磐市(あかいわし)が誕生した。周濠を持ち、極めてよく整備された前方後円墳として知られる両宮山古墳は、かっての山陽町の地域にある。全長192mの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。備前地域ではもちろん最大の古墳で、全国の古墳ランキングでは第39位を占め、国の史跡に指定されている。
後円部に比べ前方部が発達している点や、造り出しの位置などから、5世紀後半の築造と推定されてる。
5世紀後半は、大和朝廷の推し進める中央集権化の荒波の中で、吉備勢力が弱体化し次第に力を失っていく時期にあたる。造山古墳(全長360m)や作山古墳(全長286m)など天皇陵と規模を競うほどの墓を築造した吉備勢力は、両宮前古墳を最後に大きな墓を作らなくなる
ところがである。史跡の範囲確定を目的に山陽町の教育委員会が2002年から3年計画で発掘調査してきて、二重目の周濠が設けられていることが判明した。後円部の周り5カ所で行った試掘の結果、幅約13m、深さ約3mの外濠(そとぼり)が幅28mの周堤の外側に巡らされているというのだ。この外濠は古墳を全周していた。その結果、濠を含めた古墳の総長は346メートルに達する。すなわち、作山古墳を抜いて造山古墳に迫る大きさを持ち、畿内天皇墓に迫る規模の古墳だったことがわかったという。
発掘調査に併せて行なった墳丘測量の結果、この古墳が我が国最大の大山(だいせん)古墳のちょうど5分の2の規格で作られていることも分かった。この古墳の被葬者は、弱体化しながらも造山・作山古墳を築いてきた系列を継ぐ首長であると、今までは考えられてきた。
雄略天皇の時代の古墳か?
吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみ・たさ))は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していた。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪っってしまった
田狭の妻だった稚媛と雄略天皇の間には星川皇子という皇子が生まれた。雄略の死後、稚媛は星川を天皇位につけようとして、星川にクーデターを勧める。星川は諸国からの貢ぎ物を収容する大蔵を占領するが、雄略の寵臣だった大伴室屋や東漢掬(つか)らに包囲されて、星川皇子は焼死してしまう。 このとき吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは星川皇子のクーデターを聞いて水軍を率いて駆けつけるが、時すでに遅く皇子は焼死したことを聞いて引き上げる。しかし、雄略の後を継いだ清寧天皇は吉備上道臣らの行動を責め、その支配する山部を奪ったという。
岩田古墳群
両宮山古墳東の岩田大池から北西の丘陵上に位置している。このうち14号墳は、直径30m、高さ約4mをはかる6世紀後半の円墳で、長さ11.8m、幅2.7m、高さ2.7mの横穴式石室を持つ。石室内には7基の木棺が納められ、副葬品は、須恵器・土師器・大刀・鉄鏃・馬具・耳輪・玉類と質量ともに豊かであった。
環頭大刀の柄頭は百済武寧王(523年没)陵出土の柄頭と類似した単竜の装飾を持っていた。
吉備の古墳
箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛がまつられているが。この媛の弟が「吉備津彦」と「若武吉備津日子」。
つまり、吉備津彦と兄弟の墓である。そこには、吉備の埴輪が並べられている。後円部から、「特殊器台」という吉備の特徴があるものが出土した。宮内庁管轄地だが、台風で被害を受けてでてきたらしい。
景行天皇は「若武吉備津日子」の娘「播磨稲日太郎姫」(播磨稲霊(印南)大郎女)を皇后し、日本武尊が誕生する。
吉備の国は、温暖な豊かな土地である。大陸からの移住者が鉄の加工を手掛け、その技術を受け継いで工業生産も多い。朝鮮半島の移住者の技術は、吉備で定着し、大和に進出していった。
それからしばらくして、大和朝廷との良好な関係を築いてくるが、造山古墳をこしらえた時代は、大和を凌いでいたとの説もある。
5世紀はじめ頃、前方後円墳が一時期いっせいに方墳に変わる。(浦間茶臼山古墳に代表される「前期吉備の古墳」について)理由は、はっきりしないが、政変なり、移住があったのは間違いない。前期古墳の王とまったく違う支配者が出てきたのか。
それから、5世紀後半になると、また巨大な前方後円墳が造られる。
そして、段々と大和朝廷に対抗できる「吉備王国」が出来上がったそのとき、またしても大和朝廷に征服されることとなる。
463年頃、雄略天皇の時代、吉備氏の跡継ぎの下道氏と上道氏の反乱で、両方とも征服された。
おなじ年に、下道氏、上道氏と相次いで滅ぼされたのである。反乱をしたことにされたかも知れない。そうするうちに、雄略天皇崩御とともに、479年(雄略23年)天皇後継をめぐって、「星川皇子の変」がおこり、
吉備氏出身の「稚媛、星川皇子、上道国造兄君」が反乱を起こしたが、鎮圧された。
ここに、権力をもった吉備氏は消滅した