吉備津彦、稲日大郎姫

稲日大郎姫 古事記

「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。

吉備臣らの祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の女で、櫛角別王・大碓命・小碓命・倭根子命・神櫛王らの母親とされる。また、妹として伊那毘能若郎女が記され、同じく景行天皇の妃であったという。

伊那毘能若郎女の子
真若王と日子人之大兄王

日岡神社

加古川市の日岡神社由緒書きによると、祭神天伊佐佐比古命(あめのひささひこのみこと)は桃太郎伝説のモデルの吉備津彦ではないかとされています。

由緒 日岡神社
当神社は天平の時代(約1300年前)の創建といわれています。第12代景行天皇の皇后である稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)が最初のお産が難産で大変お苦しみになられたため、次に皇后がみごもられた時に、天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと/当神社の主祭神)が七日七夜祖神に安産を願い、無事双子の皇子を御安産なされました。その言われから当社は安産の守り神として、今日も近郷より大勢の参拝者があとをたちません。双子の皇子の一人が有名な倭建命(ヤマトタケル)です。

「第十代崇神天皇の御代、天皇は勢力を広げるために皇族の御方を派遣しました。
北陸、東海、西道、丹波がそれで、世に「四道将軍」と呼ばれています。西道である山陽地方には第七代孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)(吉備津彦命)と弟の若武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を派遣しました。彼らは無事退任を果たし、その後この地にとどまりました。この吉備津彦命が、天伊佐佐彦尊であるといわれています。またこの吉備津彦命の活躍は「桃太郎伝説」のモデルとも言われています。」とあります。

『播磨国風土記』賀古郡の条に、日岡に坐す神は大御津歯命の子、伊波津比古命と注があるとのこと。