十種神宝、石上坐布留御魂神社、物部

島根県の物部氏は、邇芸速日命の子「宇麻志摩遅命」を総氏神にしていた。
神剣は王権の徴(しるし)であり、これを奉る大きな意味があった。石上神宮は、宝剣そのものが依代(よりしろ)という異例の社である。石上坐布留御魂神社(元名)の布留(ふる)は、魂振り(たまふり)の呪術、鎮魂(ふるみたま)からきたとされる。

布瑠の言(ふるのこと)

「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

  • 「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。

二十二社本縁という古書に、「鎮魂(たましずめ)は、身体から遊離している魂を身体の中府に鎮めるの儀で、この十種神宝の御名を一宝づつ唱えて、それを呪文とし、それを振るのである。だから、石上神社の神のことを『ふるのかみ』と申し上げるのである。」 

とあり、「ふる」は、そこで、鎮魂(ふるみたま)からきた・・・と考えられている。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

ホツマツタエ

ホツマツタエ全40章中28章までは櫛甕玉命が記し、阿波国の社に納め置かれた。
29章潤オ40章は、後に大田田根子(オオタタネコ)命が記し、日本武尊の死を悼み、景行天皇に捧げたものである。

長髄彦の君である饒速日尊(ニギハヤヒ)は戦わずして軍門に降った。この戦いで皇統の正当性を主張する御宝、十種神宝と三種の神器が比べられた。双方の主張が述べられたが三種の神器の正当性が優り、後、十種の神宝は饒速日尊(ニギハヤヒ)の子ウマシテが、物部氏の祖となり物部氏により代々受けつがれることになった。 
三種の神器は皇孫瓊々杵尊が天照大神より賜わったとき、天皇(スベラギ)の名をいただき、その際に春日神、天児屋根命(アマノコヤネ)には神鏡を、子守(コモリ)神には御剣を代々受け継ぎ守るようにと決められた。
神宝八坂瓊(ヤサカニ)の勾玉(マガタマ)は代々天皇が御持し、天皇即位の儀式として代々の春日神、子守神から奉げられ三種の神器がそろい即位の儀式が成立する。
春日神は豊受大神の系図で代々受け継がれ、子守神はソサノオの大物主系の系図で受け継がれた。

物部神社:島根県太田市
宇摩志麻遅の命・うましまじの尊 (物部初代)の御陵
昔物部神社の御祭神宇麻志摩遅命(うましまじのみこと)が 白い鶴に乗ってこの川合に天降られました そのところを鶴降山(つるぶやま)といいます
石見國一宮 主祭神 宇摩志麻遅命(物部氏初代)
相殿神
右座 饒速日命,布都霊神
左座 天御中主大神,天照大神
客座
別天神 天之御中主神,高御産巣日神,神産巣日神,
宇麻志阿斯訶備比古遅神,天之常立神
鎮魂八神 高皇産霊神,神皇産霊神,魂留産霊神,
生産霊神,足産霊神,大宮売神,事代主神,御食津神

沿革 継体天皇八年勅命により神殿創建、祭神宇摩志麻遅命は物部氏の始祖なり。神武天皇大倭国に御遷都の時大功を表し給いて橿原の朝延を守護し給う。天皇其功を賞で霊神剣(石上神宮奉斎)を腸う。祭神も又天祖より拝承せる一〇種の神宝を奉り給う。斯くて辛酉年正月朔日天皇畝傍橿原宮にて天位に即かせ給う時、祭神は十種神宝を安置し神楯を竪て斎い奉る。此年二月朔日十種神宝を斎きて天皇皇后の御為に御魂を鎮め奉り寿祚を請い祈ぎ奉り給う(今宮中に於て一一月二二日夜行はせらるる鎮魂察茲に始まる)。後、物部の軍兵を率い尾張、美濃、越国等の諸豪族を平定し更に播磨、丹波を経て石見に入り八百山の麓に宮居を築き此地に薨去す、御神墓は社の背の八百山にあり。往古当社は天文年間は一萬三千石の社領なりしが天正年間に至り河合郷二千石に滅じ更に徳川年間に至り三百石の朱印地となる、明治四年国幣小社に列す。(神社本庁別表神社)

石上神宮・石上坐布都御魂神社

奈良県天理市布留町布留山
祭神 布都御魂神(経津主命)、布留御魂神(十種神宝)、布都斯御魂神(天羽斬剣)
社家 春日(布留・物部・三島・市川)氏、物部(石上・堤・中山・豊井)氏

社伝によれば、初代神武天皇以来、天皇の危機を救った神剣として、尾張氏の天香語山命(高倉下命)と同神または兄弟とされる宇摩志麻遅(うましまじ)命によって宮中に祀られていた布都御魂神を、10代崇神天皇7年、崇神の勅により、物部氏の祖で、宇摩志麻遅命の子孫である伊香色雄(いかがしこお)命大臣が、宇摩志麻遅命の父神・饒速日尊が天神から賜った十種神宝(とくさのかんだから)と共に、石上高庭の地に祀ったのを創祀とする。当初、この神社は「布都努斯(ふつぬし)神社」と称されていた。

「紀」の一書には、11代垂仁天皇朝に、和珥氏と同族の息長氏系の五十瓊敷入彦命が、剣1000口を作って神倉に納め、そのままここの管理者となり、春日臣市河(注:系図では16代仁徳天皇朝の人。)がサポートして神主になったとある。以来、春日臣市河の子孫が、物部氏と共に、代々祠宮家の一つを勤めている。私見では、物部氏と和珥氏は同族だろうと思うのであるが、尾張氏ともかなり深い関係にある。

この和珥氏と同族の息長氏の祖である天之日矛は、「八種玉津宝(やくさのたまつたから)」を持って来朝しているが、それが、饒速日命の「十種神宝」とラインナップが非常に似ているのだ。しかも「八種玉津宝」は、天之日矛を奉祀する出石神社ではなく、この石上神宮に「十種神宝」と共に蔵されているという。

玉置神社
奈良県吉野郡十津川村玉置川1
祭神國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、配 天照大神、神日本磐余彦尊

「玉置文書」に
「饒速日尊ヲ以テ使ヲ遣ル。手栗彦命後命シテ兵ヲ発シ、神璽ニ従ッテ此ノ東州ヲ征スルノ時、十種ノ神宝ヲ玉置峯ニ崇メ祭ル天皇大ヒニ歓ビ給ヒテ詔シテ曰シタマハク、『宜シク倭国ヲ取ラバ、天ハスナハチ高倉下命ノ村地ト為スベシ。此ノ世ハ火気ニ堪ヘズ、大倭多痲於伎(タマオキ)嶺ニ石室ヲ造リテ斎カシメヨ』ト」「此の十種の神宝ヲ此ノ地ニ安置シ奉ル。コレニ依リ熊野ノ玉置峯ト称ス」とあって、

神武天皇の 御代に火事などがあって荒れた時に手栗彦が十種神宝を玉置山の石室に納めた。

神楽

大王は再び舞い納めて、徐に次の如き参殿の詞を述べます。
「あなさし参りし神殿をつくづく拝見致して見るなれば、さても結構なる神殿かな、四方四天と注連を張ることは、
斎部の遠祖太玉命出雲の国佐田の広田の稲茎を根こじにこじ取り尻込縄を引きたもうに始まり、五方には五社の神明拝まれたもう。六方には日本六十余州の大神の御座所、七方には天神七代の大神の御棚なり、
八方には神祇官八神殿の大神なり、高皇産霊に神皇産霊、魂留産霊、生産霊、足産霊、大宮売神、事代主神、御膳神、此の八柱の神がおわします。
九方には日向の小門の九柱の神、
十方には十種の神宝なり、奥津鏡に邊津鏡、八束の剱に生玉、足玉、死返玉、道反玉、蛇の比禮、蜂の比禮、品物比禮、是を十種神宝とは申し奉る。
その時東を向いて東方の御棚を拝み奉れば、木の祖久久廼智の命は五万五千の御神にて御幣高く御座を和らげ光をなして東方固めておわします。南を向いて南方の御棚を拝み奉れば、火の祖軻遇突智の命は六万六千の御神にて御幣高く御座を和らげ光をなして南方固めておわします。西の御棚を拝み奉れば、金の祖金山彦の命は七万七千の御神にて御幣高く御座を和らげ光をなして西方固めておわします。北の御棚を拝めば水の祖罔象女の命は八万八千の御神にて御幣高く御座を和らげ光をなして北方固めておわします。中なる御棚を拝み奉れば土の祖埴安彦の命は九万九千の御神にて御幣高く御座を和らげ光をなして中央固めておわします。
東には天照大神の光赫々として西に和光同塵の月読命、南に海潮満々として北に科戸の風吹けば、上には綾を張りて天井となし下には錦を並べて茣蓙となし、白萃白蓋、千道百道八ッ橋、小雛十六天と花の如くに切り飾る、中こそ神の御座所其の時の歌に曰く」

ウマシマチから神武天皇に

ナガスネヒコの妹ミカシヤ姫を后にしてウマシマチを生む。

神武の東征に屈し神武に降伏。
後にウマシマチにより十種の神宝は神武天皇に捧げられる。

『旧事』天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。
天照(アマテラス)・国照(クニテル)・[彦天火明櫛玉]・饒速日尊(ニギハヤヒ)。 ”クニテルを嗣 天地照らす ニギハヤヒ君”

邇邇芸(妻  木花咲耶姫)ーーー火明命(コモリの次女タマネ姫が妻)ーーークニテル 饒速日(ミカシヤ姫)ーーウマシマチ