『北史』高句麗伝
高句麗、その先祖は扶余の出身である。
かつて王は河の神の娘を得て、室内に閉じ込めたが、日光が彼女を照射した。彼女は身を引いてこれを避けたが、日影もまた彼女に迫ってきた。すでに妊娠し、大きさ五升ほどの卵を生んだ。扶余王はこれを犬に投げ与えたが犬は食べない。豚に投げ与えたが豚も食べない。路傍に棄てたが牛馬もこれを避けて通る。野に棄てると鳥の群れがこれを暖めた。王は叩き割ろうとしたが、どうしても破壊できないので、遂にその母に戻した
母は卵を物に包み込んで暖かい場所に置いた、一人の男児が殻を破って出てきた。成長するに及び、この子の字(あざな)を朱蒙と呼んだ。そこの俗語で「朱蒙」とは弓の名手のことである。
扶余人は朱蒙を人とは非なる生まれだとして、これを排除することを請うた。王は聞き入れず、彼に馬の飼育を命じた。朱蒙は何事も自分で試し、その善し悪しを知り、駿馬には飼葉を減らして馬体をしぼり、馬車を牽く馬には栄養を着けて肥らせた。扶余王は肥った馬に乗り、痩せた馬を朱蒙に与えた。後に狩猟では朱蒙は弓の名手、百発百中である。朱蒙は一矢(少ない矢数?)でも、捕獲した獣は大量だった
扶余の臣下は、また彼を殺す謀議をしていたが、母が朱蒙に告げ、朱蒙は焉違(魏書では鳥引、鳥違)ら二人と東南に逃走した。途中で一大水に遭遇したが、渡るべき橋梁が無い。扶余人の追手はここに急迫しており、朱蒙は川に告げて「我は天帝の子、河の神の外孫、今は追討の兵が間近に及んでいる、如何すれば渡れるのですか」。ここに於いて魚やスッポンが彼のために橋と成り、朱蒙は渡河できた。魚とスッポンが解散したので、追騎は渡河できなかった。
朱蒙が普述水に到ったとき、一人は麻衣、一人は衲衣、一人は水藻衣を着た三人と偶然に出会い、彼らも朱蒙と紇升骨城に至り、遂に居を定めた。号を高句麗と称したので高を氏とした。扶余に在ったとき、妻は懐妊しており、朱蒙が逃走後に「始閭諧」という男児を生んだ。成長するに及び、朱蒙が国王となったことを知り、母が亡くなると、すぐにここに帰参した。名を閭達といい、彼に国事を委ねる。
朱蒙死、子如栗立。如栗死、子莫來立、乃并夫餘。
朱蒙が死ぬと、子の如栗が立った(魏書は「朱蒙が死ぬと、閭達が代わって立ち、閭達が死ぬと、子の如栗が立った」とある)。如栗が死ぬと、子の莫来が立つに及んで扶余を併呑した。
漢武帝元封四年、滅朝鮮、置玄菟郡、以高句麗為縣以屬之。漢時賜衣幘朝服鼓吹、常從玄菟郡受之。後稍驕、不復詣郡、但於東界築小城受之、遂名此城為幘溝漊。溝漊者、句麗城名也。
漢の武帝の元封四年(前107年)、朝鮮を滅ぼして玄菟郡を置き、高句麗を県としてここに属させた。漢代に衣幘(帽子)、朝服、鼓吹楽士を賜り、常に従玄菟郡に臣従してこれを受け取った。後に少し驕慢となり、再び郡に詣でなくなったが、東界に小城を築き、これを収納し、この城を幘溝漊と名づけた。溝漊(コル)とは、高句麗の「城」の名称である。
王莽(新の皇帝)の初年(12年)、胡族の征伐に高句麗兵を徴発したが行くことを望まず、王莽は強迫してこれを派遣したが、皆で長城を出て寇盜をなした。州郡は句麗侯の騶に罪は帰するとし、厳尤がこれを誘い出して斬る。王莽は大いに悦び、高句麗を(下句麗)と改名し、(高句麗王を)高句麗侯に(格下げ)した。
光武帝の建武八年(32年)、高句麗が遣使を以て朝貢した。
殤帝と安帝の間(105-125年)、莫来の裔孫の宮が数回に亘って遼東郡を侵略。玄菟郡の太守「蔡風」がこれを討伐したが、拘束することはできなかった。
宮が死に、子の伯固が立った。
和帝と順帝の間(88-144年)、何度も遼東郡を侵犯し、略奪を働いた。
霊帝の建寧二年(169年)、玄菟郡太守「耿臨」がこれを討伐し、賊の首を数百級挙げると、伯固は降服し、遼東に属した。公孫度が海東で勇躍、伯固はこれに通好した。
伯固が死に、子の伊夷摸が立った。
伊夷摸は伯固の時に数度遼東で略奪し、滅亡させた胡族の五百余戸を収容していた。
建安中(196-220年)、公孫康が軍を出して高句麗を攻撃して、国を撃ち破り、邑落を焼き払うと、降服していた胡族も(高句麗に)叛いた。伊夷摸は改めて新しい国を立てる。その後、伊夷摸が再び玄菟を襲撃したが、玄菟と遼東が連合して迎撃し、これを大破した。
伊夷摸が死に、子の位宮が立った。
始位宮の曽祖父の宮は生まれながらにして目を開き視ることができ、国人はこれを不吉だとした。成長すると凶虐となり、国を無残に破られた。位宮もまた生まれながらに人が見え、高句麗では相似を「位」と呼ぶことから、曽祖父の宮に似る故に位宮と名づけた。位宮もまた勇力があり、戦闘に慣れ、弓の達者である。
魏の景初二年(238年)、太傅、司馬宣王に大軍を率いて公孫文懿(公孫淵)の討伐に派遣すると、位宮は主簿、大加に数千人の加勢を率いさせて派遣してきた。
正始三年(242年)、位宮が遼東の西安平を侵略する。
正始五年(244年)、幽州刺史の毋丘儉が万余の兵を率いて玄菟を出て位宮を討伐、沸流水で大戦となる。位宮は敗走、儉は赬峴まで追撃し、車を牽き、馬を束ねて丸都山に登り、その都を破壊した。位宮はただ妻子を引き連れて遠くに逃れた。
正始六年(245年)、儉が再びこれを討つ、位宮は身軽に諸加を引き連れて沃沮に逃走。儉は将軍の王頎にこれを追討させ、沃沮の絶海千余里、粛慎の南に至り、石に軍功を刻字して記念とした。また、刊丸都山、銘を不耐城として帰還した。その後、また中夏と通じた。
晋の永嘉之乱(307年-313年)、鮮卑族の慕容廆は昌黎の大棘城を任され、元帝は授平州刺史に授けた。位宮の玄孫の乙弗利が頻繁に遼東を侵すも、廆には制圧できなかった
弗利が死に、子の釗が代わって立った。
魏の建国四年(342年)、慕容廆の子の晃がこれを討伐、南陝より入って、木底に於いて戦い、釗の軍を大破、丸都まで追撃した。釗は単騎で逃走、晃は釗の父の墓を掘り返し、母と妻、珍宝や男女五万余人を掠奪し、その宮城を焼き払い、丸都城を破壊して帰還した。
釗は後に百済に殺された
晋の孝武帝の太元十年(333年)、高句麗が遼東と玄菟郡を攻撃した。後燕の慕容垂は弟の農を派遣して高句麗を征伐し、二郡を復した。垂の子の宝は高句麗王の安を平州牧、遼東、帯方二国王に封じ、初めは長史、司馬、参軍官を配置した。後に遼東郡を強奪する。
太武帝(世祖、在位423-452年)の時代、釗の曾孫の璉(高璉=長寿王)が初めて使者
を派遣して安東(魏書では使者の名が安東)に詣で、奉を表して方物を貢献、并わせて国の諱(いみな)を請うた。太武帝は、その誠意と律儀を嘉とし、その国に帝系の名諱を授けるよう詔を発した。員外散騎侍郎の李敖を使者として璉(長寿王)に都督遼海諸軍事、征東将軍、領護東夷中郎将、遼東郡開国公、高句麗王の称号を拝受させた。
敖がそこに至り、平壤城に居を置き、その地方の事情を尋ねた。言うには「遼東の南一千余里、東に柵城、南に小海(楽浪湾か)、北に旧扶余に到り、民戸は前の魏の時代の三倍。
後に貢使が相次いで訪れ、毎年黄金二百斤、白銀四百斤を献上した
時に馮弘が衆を率いてここに逃げ、太武帝は遣散騎常侍の封撥を派遣して璉に詣で、馮弘を(北魏に)送致するよう命じた。璉は上書で馮弘に倶奉王化を与えようと思うと称し、こともあろうに(馮弘を)。太武帝は怒り、すぐにこれを討伐に往こうとしたが。楽平王の丕が(等議待後舉=朝議を待ち、皇后を待って挙って?)、太武帝は中止した。而して後に、馮弘が高璉に殺されたことを聴く
後に文明太后は献文帝(顕祖)の六宮(後宮の宮殿)が未備(妃嬪が揃っていない)ことから、勅使を以て璉に娘を薦める(参内させる)よう命じた。璉は表を奉じて言うには、娘は既に嫁いでおり、弟の娘に夫を求めたいと勅旨に応じ、朝廷はこれを認め、安楽王の真を遣わし、尚書の李敷らに国境まで幣(結納の品々)とともに送り届けた。
璉は、その左右の言う「北魏の朝廷は昔、馮氏と婚姻した僅かの間に馮氏の国(北燕)を滅ぼしました。殷鑒不遠(失敗の先例は目の前に在る)、宜しく方便を以て(適当にごまかして)これを辞退すべきです」との言葉に惑わされた。
璉は遂に上書で娘が死んだと虚偽を称した。朝廷はそれを拒絶するための詐称だと疑い、假散騎常侍の程駿切を派遣してこれを責めると、もし娘の死に審議があれば、改めて宗族の淑(美しい女)を選ぶことを聞きいれた。璉が言うには「もし天子が、我が国の前罪をお怒りであれば、謹んで詔をお受け致します」と言ったが、まもなく献文帝が崩御(文明太后に暗殺された)したので、中止となった。
太和十五年(491年)、璉が死去、年は百余歳。
孝文帝は東郊で挙哀(葬儀で哭泣する儀礼)し、謁者僕射の李安を遣使として車騎大将軍、太傅、遼東郡開国公、高句麗王を上策して贈る、諡を康という。
また、大鴻臚を派遣して璉の孫の雲(高雲)に使持節、都督遼海諸軍事、征東將軍、領護東夷中郎将、遼東郡開国公、高句麗王を拝受させ、(爵号に相応しい)衣冠服物車旗の飾を賜り、また詔を以て雲の世子を派遣して入朝させ、郊丘の礼(天地の祭祀)を命じた。雲は上書をすぐに辞し、その父の従兄弟「升于」を隨使として派遣し王宮に詣でたので、これを厳しく責めた。この歳より常に貢献してくる。
正始中(240-249年)、宣武帝は東堂で使者の芮悉弗を引見すると、(悉弗が)進んで曰く「高麗の誠を繋ぎ合わせれば天まで届き、先祖代々から忠誠、地の産する五穀や植物、王への貢献に遅滞なし。ただ、黄金は扶余で産出、珂(白色の瑪瑙)は渉羅の産。今、扶余は勿吉に故地を追われ、渉羅は百済に併呑されています。国王の臣下である高雲はひたすら継絶(絶えたるを継ぐ)の道理から、悉く領土を奪還する(ことを望む)。黄金と珂の二品を王府に届けられないのは、実に両賊の為せることです」。
宣武帝が曰く「高麗は代々恩恵を上將(意味不明)、海外(中華の外)の制圧に専念し、九夷は悪賢く、これを征伐しえた。昔、方物の朝貢に関わる罪は、その責任は太守にあるとされた。宜しく朕の勅旨を卿の君主に宣し、務めを尽くして威圧と懐柔でこれを省き、二邑(扶余と渉羅)を奪還し、旧墟を復させ、産物を失することなく常に貢をせよ」
神亀中(518‐520年)、雲が死去、霊太后は東堂で葬儀の儀礼を執り行う。
遣使を以て車騎大将軍、領護東夷校尉、遼東郡開国公、高句麗王を策贈。
また、その世子の安に安東将軍、領護東夷校尉、遼東郡開国公、高句麗王を拝受させた。
正光の初め(520年)、光州の海中でまた、梁に授かった安寧東将軍の衣冠剣佩、および使人の江法盛らを取り押さえ、京師に送った。
安が死に、子の延が立った。
孝武帝の初め(532年)、詔を以て延に使持節、散騎常侍、車騎大将軍、領護東夷校尉、遼東郡公、高句麗王を加授した。
天平年間(534-537年)、詔を以て延に侍中、驃騎大将軍将軍を加授、その余もすべて旧来の如く。
延が死に、子の成が立った。
定めて以来の足跡が途絶え、その貢使が歳貢に来朝することはなかった。
大統十二年(546年)、遣使が西魏に至り朝貢する。斉はこの歳、東魏より禅譲を受け、遣使は斉(北斉)に朝貢した。北斉の文宣帝(高洋)は成に使持節、侍中、驃騎大将軍、領東夷校尉、遼東郡公、高句麗王を旧来のように加授した。
天保三年(552年)、文宣帝は営州に至り、使博陵の崔柳を勅使として高句麗に往かせ、魏末の流民を求めた。勅使の崔柳が曰く「もし従わないなら、適宜に従わせる」。この時になっても、会うことを許さず。崔柳は目を見張って叱り、成を殴り倒して床に転げさせた、成の左右は息を殺して敢えて動かず、謝服し、崔柳は五千戸を得て復命した
成が死に、子の湯が立った。
乾明元年(560年)、斉の廃帝は湯を使持節、領東夷校尉、遼東郡公、高句麗王とした。
周建德六年(577年)、湯の遣使が周(北周)に至り、武帝は湯を上開府儀同大将軍、遼東郡公、遼東王とした。隋の文帝が禅譲を受けると、湯は遣使を以て王宮に詣で、進授大将軍、改封高句麗王。これより毎年、遣使の朝貢が絶えることはない
<其國、東至新羅、西度遼、二千里;南接百濟、北鄰靺鞨、一千餘里。人皆土著、隨山谷而居、衣布帛及皮。土田薄瘠、蠶農不足以自供、故其人節飲食。其王好修宮室、都平壤城、亦曰長安城、東西六里、隨山屈曲、南臨浿水。城内唯積倉儲器、備寇賊至日、方入固守。王別為宅於其側、不常居之。其外復有國内城及漢城、亦別都也。其國中呼為三京。復有遼東、玄菟等數十城、皆置官司以統攝。與新羅毎相侵奪、戰爭不息/blockquote>
その国、東は新羅、西は遼河を渡ること二千里。南は百済に接し、北鄰りは靺鞨、一千余里。人は皆が土着し、山谷に沿って暮らしており、衣は麻布、絹織物および毛皮。風土は、農地は痩せ細れ、養蚕農業は自給自足には足らないので、人々は食事を節制している。
その王は王宮の修築を好み、都城は平壤城、また長安城ともいい、東西六里、山の屈曲に沿い、南は浿水に臨む。城内には諸々の器具を積んだ倉があり、寇賊の来襲に備え、四方の入口を固めて守る。王は別に、その側にも居宅があるが、常に暮らしていはいない。
その外に国内城や漢城があり、これも陪都である。その国内では「三京」と呼んでいる。遼東、玄菟などにも数十城あり、いずれも官を配置して統治を司る。新羅とは毎度のように互いに侵奪をしあっており、戦争の止むことがない。
官有大對盧、太大兄、大兄、小兄、竟侯奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人、凡十二等、分掌内外事。其大對盧則以強弱相陵奪而自為之、不由王署置。復有内評、五部褥薩。
官には大對盧、太大兄、大兄、小兄、竟侯奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳属、仙人があり、およそ十二等級、内外の諸事を分担している。大對盧は強弱に則り互いに陵墓を奪いあい、自分のものとするので、それを許さないため王は官府を置いた。内評、五部褥薩(地方の官名)もある。
人皆頭著折風、形如弁、士人加插二鳥羽。貴者、其冠曰蘇骨、多用紫羅為之、飾以金銀。服大袖衫、大口袴、素皮帶、黄革履。婦人裙襦加襈。書有五經、三史、三國、晉陽秋。兵器與中國略同。及春秋校獵、王親臨之。税、布五疋、穀五石;游人則三年一税、十人共細布一疋。租、戸一石、次七斗、下五斗。
人は皆が頭に折風帽をかぶる、形は花弁のようで、士人は二本の鳥の羽を挿す。貴人は、その冠を蘇骨といい、これに紫の羅紗を多用し、金銀で飾る。服は大袖衫、大口袴、素皮帯、黄革履。婦人は裙(スカート)襦(短い上着)加襈(褾襈)。
書には五経、三史、三国、晋陽秋がある。兵器は中国とほぼ同じ。春秋には狩猟を競い、王も自らこれに臨む。税は、布五疋、穀五石;漁民は三年に一税、十人共同で細布一疋。租は、上戸は一石、次戸は七斗、下戸は五斗。
其刑法、叛及謀逆者、縛之柱、爇而斬之、籍沒其家;盜則償十倍、若貧不能償者樂及公私債負、皆聽評其子女為奴婢以償之。用刑既峻、罕有犯者。樂有五絃、琴、箏、篳篥、横吹、簫、鼓之屬、吹蘆以和曲。毎年初、聚戲浿水上、王乘腰轝、列羽儀觀之。事畢、王以衣入水、分為左右二部、以水石相濺擲、諠呼馳逐、再三而止。
刑法では、命に背いた謀反人は柱に縛り、焚刑にして首を斬り、家の籍を没収する。窃盗は十倍を弁償し、もし貧しくて弁償不能な者が(楽しんで)、公私に債務を負えば、皆で聴取して評議でその子女を奴婢となして弁償させる。刑の用法は峻厳、犯罪者を収監する牢がある。
楽器には五絃、琴、箏、篳篥、横吹、簫、鼓の類があり、吹蘆を吹いて曲を唱和する。毎年初めには多勢で浿水の上で戯れ、王は御輿に乗り、羽儀の列を観る。行事が終了すると、王は衣のまま入水し、左右を二部に分け、水や石を互いに浴びせあい、投げ合う、この好誼を馳逐と呼ぶ、これを何度もやって止める。
俗潔淨自喜、尚容止、以趨走為敬。拜則曳一腳、立多反拱、行必插手。性多詭伏、言辭鄙穢、不簡親疏。父子同川而浴、共室而寢。好歌舞、常以十月祭天、其公會衣服、皆錦繍金銀以為飾。好蹲踞、食用俎机。出三尺馬、云本朱蒙所乘馬種、即果下也。
習俗は、清潔に洗浄することを喜び、なお立居振舞いは、小走りで歩くことで敬意を表わす。拝礼は片足を着け、立つときは何度も拱手を返し、行くときは必ず手を左右に振る。
性質は多くの偽りを隠しており、言葉は田舎臭くて汚く、親交を結ぶのは簡単ではない。
父子は同じ川で水浴をし、共同の部屋で寝る。歌舞を好み、常に十月に天を祭り、公の会席での衣服は、いずれも錦糸の刺繍や金銀で飾る。床に座ることを好み、食事にはお膳を用いる。三尺の馬を産出、昔、朱蒙が騎乗した後裔だという、即ち樹果の下(に三尺)なり。
風俗尚淫、不以為愧、俗多游女、夫無常人、夜則男女群聚而戲、無有貴賤之節。有婚嫁、取男女相悅即為之。男家送豬酒而已、無財聘之禮;或有受財者、人共恥之、以為賣婢。死者、殯在屋内、經三年、擇吉日而葬。居父母及夫喪、服皆三年、兄弟三月。初終哭泣、葬則鼓舞作樂以送之。埋訖、取死者生時服玩車馬置墓側、會葬者爭取而去。信佛法、敬鬼神、多淫祠。有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人像;一曰高登神、云是其始祖夫餘神之子。並置官司、遣人守護、蓋河伯女、朱蒙云。
風俗は淫、それを恥とはせず、世俗には多くの游女がいるが、夫のない普通の人である。夜には男女が多勢集って戯れ、貴賤はあるが、この節度はない。
婚礼があり、男女が幸悦を享受すれば、すぐこれを為す。男は女の家に豚と酒を送れば、それで済み、婚礼に財貨贈物は無用。財を受け取った者は、人々からこれを恥とされ、売婢と言われる。
死者は屋内に殯(かりもがり)し、三年が経過すると、吉日を選んで埋葬する。父母や夫の喪は、服喪は三年、兄弟は三月に留まる。終始哭泣し、葬儀では鼓舞を以て死者を送る。埋葬には死者が生前に愛用した服、玩具、車馬を受け取って墓の側に置く、会葬者がそれを争って持ち帰る。
佛法を信奉し、鬼神を崇敬し、多くの淫祠がある。神廟は二所あり。一つは扶余神といい、木を刻って婦人像を作る。一つは高登神といい、これは始祖の扶余神の子と言われる。官を置いて祭司をし、人を遣わして守護する、河伯の女と朱蒙に該当するという。
隋が陳を平定した後、湯は大いに恐れ、防衛策として陳兵を集めた。
開皇十七年(597年)、璽書を上賜、毎年遣使を以て朝貢するように責めたが、藩附(臣従国)を称しているにも関わらず誠節を未だ尽くさず。靺鞨を駆り立て、契丹を束縛する。昔年潜行貨利、招動群小、私将弩手、巡竄下国、豈非意欲不臧、故為竊盜?坐使空館、厳加防守;また、何度も騎馬兵を送って辺境の人々を殺害。恒自猜疑、密覘消息。慇懃曉示、許其自新。
湯は書を得て慌て驚き、すぐさま奉を表して陳謝した。まもなく病卒。
子の元が継いだ。
文帝は元に上開府儀同三司、襲爵遼東公を拝受させ、賜服一襲。元は奉を表して謝恩、併せて祥瑞を祝賀し、王に冊封するよう請うた。文帝は王に優冊した。
翌年、靺鞨の万余騎を率いて遼西を侵略、営州総管の韋世沖がこれを撃って敗走させた。帝は大いに怒り、漢王の諒を元帥として、総力で水陸からこれを討伐するよう命じ、その爵位の剥奪を下詔した。時に吉運が続かず、六軍の食料が欠乏、軍団が出陣し渝関に臨むと、疫病に遭遇、王師は不振。次に遼水に及び、元はまた慌て驚き、遣使が謝罪、上表して遼東糞土の臣元、云云と称した。ここに於いて兵を退き、これを初めの如く待遇した。
元、またこの歳に遣使を朝貢させた。
煬帝が嗣位、天下は全盛、高昌王と突厥の啟人可汗が自ら王宮に詣でて貢献し、ここに於いて徴元も入朝。元は畏れて、甚だ王宮に蕃礼をする。
大業七年(611年)、煬帝は将に元の罪を討伐すべく、車駕に遼水を渡らせ、遼東で軍営を止め、進軍する道を分け、各々がその城下に兵を屯営させた。高句麗は出撃すると不利が多く、いずれも城に籠もって固守した。帝は諸軍に攻撃を命じ、また、諸将に高句麗がもし降服すれば、宜しく安撫して納め、降服に応じなければ兵を突入させるよう勅旨を発した。城がまさに陥落、賊は呼びかけに応じて降ってきた、諸将は勅旨を尊んで、敢えて攻撃を仕掛けなかった。先ず上奏のために馳せ参じ、これを報じたが、賊が防御体制を再び備えだしたことで、また攻防戦となった。このような報告が再三あったが、帝は悟らず。すでに師団の食糧は尽き果て、輸送は継続できない、諸軍は多くの敗戦を積み、ここに於いて軍団を組み分ける。是行也(意味不明)、遼水の西で拔賊の厳しい巡邏を抜いた。遼東郡と通定鎮に於いて帰還した
大業九年(613年)、帝は再び親征、敕によって諸軍は適宜に従事。諸将は道を分けて攻城、賊軍の勢いは日に厳しくなる。まもなく楊玄が反乱を起し、帝は大いに慌て恐れ、即日六軍をすべて帰還させた。兵部侍郎の斛斯政は高句麗に亡命、高句麗は(彼から撤退の)事実を知ると、精鋭軍を以て追撃して来た、殿軍は大敗した
大業十年(614年)、また、天下に徴兵を発したが、まもなく盜賊が蜂起、街道が隔絶され、軍は多大な期間を失した。遼水に到ると、高句麗もまた困窮疲弊しており、遣使が降服を乞い、斛斯政を贖罪として送ってきた。帝はこれを許し、頓懐遠鎮でその降服を受諾し、俘囚軍を實帰。京師に至り、高句麗が使いを以て太廟に親告、これを拘留した。仍徴元入朝、元は以外にも到らず。帝は改めて後挙を図ったが、まもなく天下騒乱、遂に行くことはなかった。
ーーーー 考察
高句麗の始まりと本拠地の「渾江」流域
『三国史記』が記すような前37年どころの話ではなく、既に「春秋戦国時代」に はその名称が現れてくる。即ち「高夷」としてであり、「秦代」には「句麗」 という名称で記録されている。従って、『三国史記』の記述をそのまま鵜呑み にすることは可成り危険性を有することとなる。 更に又、その「高句麗」の台頭から滅亡に至るまでの割拠地についても多大 な疑問が生じてくる。即ち、「高句麗」という国家の本拠地そのものが、「卒 本(そぼふる)地方」と言われ、この地は現在の中国吉林省の「渾江」流域一 帯の地の総称であり、今日の定説化された北朝鮮ではない。
4世紀中頃の国境
高句麗第16代「故国原王」の時(西暦331年から371年)に、 百済第13代「近肖古王」の攻略を受け、「高句麗」は、遼東方面の数十城及 びその国都「平壌城」すら奪い取られ、「高句麗三浿水(ばいすい)の一つ・ 「大同江」を完全に「百済国」の領域に組み込まれてしまう。この時点の「高句麗」と「百済」の境界は「大浿水=鴨綠江」を以て切り離されている。
「高句麗」がその国都とするところの「平壌」の奪還は、第20代「長寿王」 (西暦427年)まで待つことになる。その間、現在の北朝鮮の地は「百済」 の領域であったと見なさざるを得ない。
この「百済」という古代国家 も又、現在の韓国発祥の国ではなかったことになる。その始祖と言われる「尉仇台(いきゅうたい)」の碑文を現在の韓国公州の地に移動させたのは、かつての日本の軍部と御用学者たちの暴挙であった。その碑文の存在地は、現中国 遼寧省熊岳城に立っていたと伝えられる。