二つの百済

百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。
今言語服章略與高麗同

梁書(りょうじょ)に「百済は遼西・晋平二郡を置く」とある.

この所在地について,『通典』には,「柳城(古の龍城)と北平の間を言う…」とある。この北平とは古の漢帝国時代の北平郡を言う。
北平郡は「清朝」期に入り,「永平府廬龍(ルーロン)県」となった.
 
今日の河北北部の、「廬龍県」である.
「百済」建国の地は,北京の近く,河北省だった。

346年 近肖古王即位
369年 高句麗、百済を攻め雉壌の戦いで敗北する。
371年 百済、高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王戦死。
372年 東晋、百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする。
384年 晋から百済に仏教伝来。
392年 高句麗、百済北部を攻め、十余城を落とす。
396年 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年 百済、倭国と通好し、太子を人質とする。
433年 百済、新羅と同盟(羅済同盟)。
455年 高句麗、百済を撃ち、新羅が百済を救う。
458年 百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める。
472年 百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める。
475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す。
中期‐熊津時代編集

475年 百済文周王即位し、熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年 百済東城王即位
490年 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年 高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する。
501年 東城王暗殺され、武寧王即位。
503年 百済武寧王、倭国に遣使。
523年 百済聖王(聖明王)即位
後期‐泗沘時代編集

538年 百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を南扶余と号す。
584年 高句麗、百済を攻撃し、新羅が百済を救援する。
554年 百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。百済威徳王即位。
562年 高句麗、百済の熊川城を攻撃。
600年 百済武王即位
616年 百済、新羅の母山城を攻撃。
638年 百済、新羅の独山城を攻撃。
641年 百済義慈王即位
643年 百済、高句麗と同盟(麗済同盟)。
655年 新羅、百済の刀比川城を攻撃。
657年 百済、王の庶子41人を佐平の官に任命。
660年 唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)、百済を滅ぼす。
663年 倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗。

西の百済
中国の史書である宋書の百済条によれば「百済は遼西(腰下川西側)を競落したが、百済が治める所は晉平郡、チンビョンヒョンだった」という記事があって梁書の百済条には「百済は遼西と晉平2郡の土地を占めたが、自ら百済郡を置いた」と書かれている。 また南斉書によれば百済は498〜490年の間にその境界に攻め込んだ北魏の騎兵数十万を壊滅させただけでなく海上戦でも大勝をおさめた。

西の百済の起源

起源編集

『宋書』の記録では以下のように記されている。
百濟國、本與高驪倶在遼東之東千餘里、其後高驪略有遼東、百濟略有遼西。百濟所治、謂之晉平郡晉平縣
— 『宋書』卷九十七・列傳第五十七(百濟國條)

『梁書』の記録では以下のように記される。『南史』もほぼ同文である。
其國本與句驪在遼東之東 晉世 句麗旣略有遼東 百濟亦拠有遼西 晉平二郡地矣 自置百濟郡
— 『梁書』卷五十四・列傳第四十八(百濟條)

『周書』の記録では以下のように記されている。
百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方
— 『周書』卷?・列傳第?(百濟條)

『魏書』の記録では以下のように記されている。『北史』もほぼ同文である。
有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、爲東夷強國。初以百家濟海、因號百濟
— 『魏書』卷?・列傳第?(百濟條)

 『周書』百済伝 
 百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。
 有仇台者、始國於帶方。
 >百済の源流は馬韓の属国で、扶余の別種。
 >仇台という者がおり、
 >帯方郡に於いて国を始める

 『宋書』百済伝
 百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略
 有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。
 >百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に
 >在ったが、その後、高句麗が遼東を略有すると、
 >百済は遼西を略有した。
 >百済の治する所は、言うところでは晋平郡晋平県。

 『通典』百濟伝
 晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、
 晉平二郡。今柳城、北平之間。
 >晋の時代(265年-316年)、句麗は遼東を占領し、
 >百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。
 >今の柳城(龍城)と北平の間である。

  東明の後裔に仇台という者がおり、仁信に篤く、帯方郡の故地に国を立てた。後漢の遼東太守だった公孫度が娘を彼の妻にしたので、暫次隆盛となり、東夷の強国となった。
 初めに百家(多勢)で済海(海を渡った)ことから百済を号した。
 
  魏書百済伝に百済王の余慶が・・また言うには「臣は高句麗の源である扶余より出る。先世の時代には、篤く旧歓を尊重するも、高句麗の祖の釗(ショウ=故国原王)は、近隣の友好を軽んじて廃し、軍勢を率いて親征し、臣の国内の陵墓を踏みつける。
 臣の祖の須(近肖古王)は、軍旅を整え電光石火、臨機応変に馳せて攻撃、矢や石が暫し飛び交うも、梟賊(キョウゾク)の釗を斬首する。爾来(ジライ)、(高句麗は)敢えて南を顧みることなし。

百済の支配層は扶余族=徐族だったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余=徐とつながりがあり、26代聖王が538年に泗沘に遷都した後に国号を「南扶余」としたこともそれは窺える。

『隋書』百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこには新羅人、高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」ということから、雑多な系統の移民の集落が散在する国家だったと考えられる。

『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余=徐姓で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。

もう一つの百済:馬韓の伯済国

西晋になってから馬韓の諸国は頻繁に朝貢していたが290年を最後に途絶える。314年、帯方郡が滅亡すると伯済国が強大化して、347年にはじめて百済王余句が中国に朝貢した。この頃までには馬韓の北部の国々は百済の支配下に置かれていたと思われるが、馬韓南部への百済の膨張は百済が高句麗に壊滅的大敗を喫し北部を失った後に、宗主国である倭国の領域を段階的に侵略・割譲などによって蚕食する事で進んだ

『後漢書』高句麗伝
 建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と濊貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破り、斬首五百余級を挙げた。この歳、宮が死んで子の遂成が立つ。

『三国志魏書』扶余国伝
 夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。
 扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 遼東地方の大豪族である公孫度の娘を妻に迎え、公孫氏に従って遼東の経営に参与したとされる人物だが、公孫度の死去は204年。その八十四年前に尉仇台が登場するのは常識的に不合理である。従って、後漢書と魏志に登場する尉仇台は、同名の別人だと推察する。
 時代的に該当するのは、百済本紀に記された歴代王では、盖婁王(在位128-166年)、肖古王(在位166-214年)、仇首王(在位214-234年)の三人となる。
 古代倭語では仇台と仇首は同音の「くど」、公孫氏が強勢だった時代にも合致しており、魏志に登場する尉仇台とは仇首王のことだと推察する。すでに扶余通史で解説したが、内藤湖南博士の説では尉は氏姓ではなく、実際は中華王朝の地方官を意味するが、夷狄が名前の飾りに借用したものであり、扶余語では仇台と仇首は同音、または近似音だったことから、仇台と仇首を混同したのだと想像する。
 筆者は、扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その系譜に連なる者が伯済国を足場にして百済を立てた。それが仇首王なのだと考える。

「三国史記」によれば、369年に、高句麗王斯由(故国原王)が二万の軍隊を率いて百済に侵入してきたが、太子(近仇首王)がこれを急襲して破った。
 371年には、近肖古王と太子が、精兵三万を率いて高句麗を侵攻し、平壌城を攻撃して高句麗王斯由を戦死させました。369年~371年には百済と高句麗との間に激烈な戦いが行われていたのです。

神功記を要約すると、神功49年(369年)、荒田別らを将軍とする倭国軍は海を渡り、百済の木羅斤資らの援軍とともに「新羅」を打ち破った。そして荒田別、木羅斤資らは百済王肖古と王子貴須と会い互いに喜びを交しあった、とあります。

『北史』列傳第八十二(百濟傳)
魏延興二年 其王餘慶始遣其冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯 長史餘禮 龍驤將軍帶方太守司馬張茂等上表自通 云 臣與高麗 源出夫餘 先世之時 篤崇舊款 其祖釗 輕廢鄰好 親率士衆 陵踐臣境 臣祖須 整旅電邁 應機馳撃 矢石暫交 梟斬釗首 自爾以來 莫敢南顧

読み下し:
魏の延興二年(=472年)、その王余慶、その冠軍将軍駙馬都尉の弗斯侯、長史の余礼、竜驤将軍帯方太守の司馬張茂らを遣わし始め、上表して自ら通ず。云(いは)く、「臣と高麗、扶余に源(みなもと)を出し、先世の時、篤く旧款(きゅうかん、=古くから通じてきたよしみ)を崇(たっと)ぶ。その祖、釗( =故国原王)、隣好(りんこう、=隣国の友好)を軽廃(けいはい、=軽んじて止めてしまう)し、親(みずか)ら士衆を率ゐ、臣境(しんきょう、=我が国の領内)を陵践(りょうせん、=侵し踏みにじる)す。臣の祖、須(=近肖古王の子・近仇首王)、旅を整へ、電邁(でんまい、=勇み行く)し、機に応じて馳せ撃ち、矢石を暫(しば)し交(まじ)へ、釗の首を梟(さら)し斬る。爾自以來(それよりこのかた)、敢えて南を顧みること莫(な)し。

百済が滅亡する以前の古い時代で、百済と高句麗の力関係が拮抗していた時代に、百済は、高句麗領域を飛び越えて、遼西の晋平郡晋平県(現在の朝陽と北京の間付近)に百済郡を設置して、後方から高句麗を牽制していた時代があります。
中国の史書「通典百済伝」に、「660年の百済滅亡後、長城付近(遼西東部の百済郡)の残留民は段々と数が少なくなり、気力も尽きて突厥とか靺鞨族に投降し、百済郡太守扶余崇は、滅亡した百済(熊津、扶余)に帰ることが出来ないで、あちこちうろうろし、遂には滅んでしまった」とあります。

百済建国は、そうした高句麗の始祖・朱蒙の2人の息子(沸流と温祚)からはじまりました。かれら同腹の兄弟が、父の先妻が産んだ腹違いの兄たちの嫉みと圧力に悩まされ高句麗を脱出、南下した

『日本書紀』の記事、すなわち百済本拠地が高句麗によって陥落(475年)、そして熊津に移った際、倭王はその久麻那利の地を百済の汶洲(文周)王に与えたという記録があるからです。

梁時代の梁職貢図
職貢図(しょくこうず)は、古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府への貢もの」の意味。貢職図とも呼ばれる。

6世紀梁朝元帝(蕭繹)の職貢図の模写。左から且末国、白題(匈奴部族)、胡蜜丹、呵跋檀、周古柯国、鄧至、狼牙修、倭、亀茲、百済、波斯、滑/嚈噠からの使者。

梁職貢図に記載の国々は次の通り。

渇槃陀国(タシュクルガン・タジク自治県)
武興蕃(仇池國、氐族の国)
于闐国(ホータン王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南)
高昌国(新疆ウイグル自治区・トルファン地区に存在したオアシス都市国家)
天門蠻(不明)
滑国(エフタル)
波斯国(サーサーン朝ペルシャ)
亀茲国(クチャ国。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県(庫車県)付近)
百済国
倭国
高句麗国
斯羅国(新羅)
周古柯国(カルカリック?)
呵跋檀国(タジキスタン)
胡蜜檀国(現在タジキスタンの首都ドゥシャンベ南部)
宕昌国(蘭州南部、現在の甘粛省宕昌県の西。羌族の国。564年、宕昌王の梁弥定が北周の領域を侵犯したので北周の武帝により討伐され滅亡)
鄧至國(白水羌ともいい、中国の南北朝時代に羌族が建国。現在の四川省九寨溝県)

左が倭、右が百済

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