朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に頼るしかない。
古代の朝鮮半島に関しての文書記録はほとんどない。実質、残っているのは日本と中国に残る文献だけなので、『三国遺事』の発見は、稀有なできごとでした。
『三国遺事』は、1624年に書物5万冊を集めた徳川家中の蔵書の中でも「代表作」。
そして、朝鮮では『三国遺事』の行方すらはっきりしていなかった1904年、近代化の真っ最中だった日本の東京帝国大学が『三国遺事』を出版した。乙巳保護条約(第2次日韓協約)が締結される1年前のことだった。「日本の学者は当時、『三国遺事』がどういう本なのかを知っていた。」
『三国遺事』の返還は1927年、崔南善によってなされた。日本に留学していた1904年、朝鮮でうわさでしか聞いたことのなかった『三国遺事』を発見した。その後、「百千金でも求め難い真書」という紹介と共に、啓明倶楽部の機関雑誌『啓明』第18号に『三国遺事』の全文を掲載した。
壬辰倭乱が起こって日本に渡り、徳川が愛して保管したことで、『三国遺事』が再び韓国に返ってきた。偶然とは言え、非常に幸運な史書である。
伽耶国の始 祖・金首露王の由来を次のように記す。
開闢以来、この地にはいまだ国の名称もなく、それに群臣の呼び名もなかった。我刀干、汝刀干、 彼刀干、五刀干などの九干が酋長となって民を治めていた。ある禊の日に彼らが住んでいた北側の亀 旨峰(亀の伏している姿の山)から皆を呼ぶような不思議な声が聞こえてきた。九干をはじめ人々が 集って行くと、人の声は聞こえるが、姿は見えない。その声は「ここに人がいるのか」と聞く。九干 らが「私たちがいます」と答えると、さらに「ここはどこなのか」と聞く。「亀旨です」と答えると、
「皇天が私を送って国を新しく建てて君主になれと指示したのでここに降りて来たのだ。お前たちは 峰の頂上の土を掘りながら、<亀よ亀よ、首(首露)を出せ。もし出さなければ焼いて食べるぞ>と 歌いながら舞い踊りなさい。すなわちこのように歌うのは大王を迎える良い兆しであるのだ」と言っ た。声の通りすると、紫の縄が天から垂れてきて地面についた。縄にしたがって行って見ると、赤い ふろしきに金の箱が包まれている。その箱の中には六個の卵があり、その卵から子供が出てきたが顔 は龍のようであった。彼らはそれぞれ六伽耶の王となり、首露が大伽耶の始祖王となったという。こ の時、ワンハ国から脱解という者が来て、王座を奪おうとするので二人は変身術で競って決めること
はいたか にした。脱解が変身して鷹になると首露王は鷲と化し、脱解が雀になると首露王は鷂と化して首露王
の勝ちとなった。ある日、海の西南の方から赤色の帆をあげ、赤い幡を翻しながら北に向って進んで くる船があった。臣下の留天らは駿馬と軽船を携えて望山島に行って松明をあげてその船を迎えた。 その中には首露王の后になる阿踰陀国の王女が乗っていた。首露王は宮殿から少し離れた南西側の山 の麓に仮宮を作って王女を待った。王女は軽船に乗り換え陸地にあがり、高い丘の上で休んだ。首露 王が仮宮の寝室に案内すると、王女は「私は海に浮かんで女の身でありながら恐れ多くあなたの龍顔 に近づくことができました」と言った。首露王は仮宮で共寝して二夜を過ごし、また一昼が経た後、 后を連れて宮中に戻ってきた。
以上が伽耶国の始祖の誕生神話である。
4代目脱解王
「脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里」
1 王曆第一
2 紀異卷第一
2.1 古朝鮮(王儉朝鮮)
2.2 魏滿朝鮮
2.3 馬韓
2.4 二府
2.5 七十二國
2.6 樂浪國
2.7 北帶方
2.8 南帶方
2.9 靺鞨(一作勿吉)渤海
2.10 伊西國
2.11 五伽耶
2.12 北扶餘
2.13 東扶餘
2.14 高句麗
2.15 卞韓百濟(亦云。南扶餘。即泗泚城也)
2.16 辰韓(亦作秦韓)
2.17 又四節遊宅
2.18 新羅始祖赫居世王
2.19 第二南解王
2.20 第三弩禮王
2.21 第四脫解王
2.22 金閼智 脫解王代
2.23 延烏郎 細烏女
2.24 末鄒王 竹葉軍
2.25 奈勿王(一作那密王)金堤上
2.26 第十八實聖王
2.27 射琴匣
2.28 智哲老王
2.29 真興王
2.30 桃花女 鼻荊郎
2.31 天賜玉帶 (清泰四年丁酉五月。正承金傅獻鐫金粧玉排方腰帶一條長十圍。鐫銙六十二。曰。是真平王天賜帶也。太祖受之。藏之內庫)
2.32 善德王知幾三事
2.33 真德王
2.34 金庾信
2.35 大宗春秋公
2.36 春郎 罷郎(一作羆)
第一 (序文および古朝鮮【王儉朝鮮】抜粋)
敍に曰く。 大抵(およそ)古(いにしえ)の聖人、方(まさ)にその禮樂に邦(くに)を興(おこ)し、仁義に敎を設け、すなわち怪力・亂神の在るを語らず。 然(しか)るに帝王の將(まさ)に興(おこ)らんとするや、符命(ふめい)を膺(う)け、圖(ずろく)を受け、必ず人に異なる者有り。 然る後に能く大變に乘じ、大器を握し、大業を成す。 故に河(=黄河)は圖を出し、洛(=洛水)は書を出して聖人を作(な)す(伝説に伏羲氏のとき黄河から図が出、夏王朝の禹王のとき洛水から亀の背に書かれた文書が出たという)。 もって、虹、神母に繞(まと)いて羲(ぎ/三皇五帝のひとり、伏羲(フクギ)のこと。)誕(うま)れ、龍、女登(じょとう/『史記』三皇本紀に見える。三皇五帝のひとり炎帝の母。)に感じて炎(えん/三皇五帝のひとり炎帝神農氏のこと。)を生み、皇娥(こうが/三皇五帝のひとり小昊(ショウコウ)の母。)は窮桑(きゅうそう)の野に遊ぶに、自ら白帝の子と稱す神童あり、交り通じて小昊(しょうこう/三皇五帝のひとり。)を生み、簡狄(かんてき/水浴びをしていたとき、ツバメが卵を落としたのを見て、その卵をのんだところ、身ごもって契を生んだという。)は卵を呑みて契(せつ/商(殷)王朝の始祖。)を生み、姜(きょうげん/郊外の草原で巨人の足跡を踏み棄を懐妊した。)は跡を履(ふ)みて(き/后稷(コウショク)ともいう周の始祖。)を生み、 胎孕十四月にして堯(ぎょう/五帝のひとり。妊娠十四ヵ月にして誕生したという。)を生み、龍、大澤に交わりて沛公(はいこう/前漢の高祖劉邦のこと。赤龍の子という伝説あり。)を生むに至る。 これより降(くだ)るに、豈(あ)に記し殫(つく)す可(べ)けんや。
然してすなわち三國の始祖は皆神異を發す。何ぞ怪しむに足らんや。 これ「紀異」をもって諸篇の漸(はじめ)とするところなり。 意、これに在り。
古朝鮮【王儉朝鮮】
『魏書』に云う。 すなわち二千載の往(いにし)え、壇君王儉(だんくんおうけん)有り、都を阿斯達【經に無葉山と云い、また白岳と云う。白州の地に在り。あるいは開城の東に在りと云う。今の白岳宮これなり。】に立て、國を開き朝鮮と號す。高(=堯/三皇五帝のひとり。)と同じ時なり。
『古記』に云う。 昔、桓因【帝釋を謂う。】が庶子の桓雄有り、數(たびたび)天下を意(おも)い、人の世を貪求す。 父、子の意を知り、下に三危太伯(さんきたいはく/三危はみっつの高い山。太伯はそのひとつで、下に見える太伯山のこと。)を視るに、もって弘(ひろ)く人間を益すべきなり。 すなわち天符印(下に見える風伯・雨師・雲師の三神の印綬)三箇を授け、往(ゆ)きてこれを理(おさ)めしむ。 雄、徒三千を率(ひき)い、太伯山の頂【即ち太伯は今の妙香山なり】の神壇樹の下(もと)に降(くだ)る。 これを神市と謂い、これを桓雄天王と謂う。 風伯・雨師・雲師を將(ひき)い、穀を主(つかさど)り、命を主(つかさど)り、病を主(つかさど)り、刑を主(つかさど)り、善惡を主(つかさど)り、凡(すべ)て人間の三百六十餘事を主(つかさど)り、世に理化あり。
時に一熊・一虎有り、穴を同じうして居す。常に神雄に祈り、化して人と爲るを願う。 時に、神、靈艾一・蒜二十枚を遺わし曰く、「爾輩(なんじら)これを食い、百日日の光を見ざれば、すなわち人の形を得るべし」と。 熊・虎、得てこれを食い、忌むこと三七(=二十一)日。 熊は女身を得るも、虎は忌むこと能(あたわ)ずして人身を得ず。 熊女は婚を爲す無く、故に毎(つね)に壇樹の下に孕(はらむ)こと有らんと呪願す。 雄、すなわち假化してこれと婚し、孕みて子を生む。 號(なづ)けて壇君王儉と曰う。
もって唐高(=堯/三皇五帝のひとり。)の即位五十年庚寅(かのえ・とら)【唐高の即位元年は戊辰(つちのえ・たつ)。すなわち五十年は丁巳(ひのと・み)なり。庚寅(かのえ・とら)に非(あら)ず。その未だ實ならざるを疑う】、平壤城【今の西京なり】に都し、始めて朝鮮を稱す。 また都を白岳山の阿斯達に移す。 またの名を弓【あるいは「方」に作る】忽山、または今彌達という。 國を御(おさ)めること一千五百年。
周の虎王(周の「武王」のこと。高麗の二代・惠宋帝の諱が「武」であったため、武の字の使用を避けて「虎」と書いたもの)の即位己卯(つちのと・う)。 箕子(きし/末尾の註1を参照)を朝鮮に封ず。 壇君、すなわち藏唐京に移り、後に阿斯達に還り隱れ、山神と爲る。 壽、一千九百八歳。
唐の『裵矩傳』に云う。 高麗はもと孤竹國【今の海州】なり。 周の箕子を封ずるをもって朝鮮と爲し、漢は分かちて三郡を置く。 玄菟(げんと)・樂浪(らくろう)・帶方(たいほう)【北帶方】と謂う。 『通典』、またこの説に同じ【『漢書』はすなわち眞・臨・樂・玄の四郡。今は三郡と云う。名、また同じからず。何(いか)にや】。
延烏郎(えんうろう/ヨンオラン) 細烏女(さいうじょ/セオニョ)
第八阿達羅王(=新羅王第八代 阿達羅尼師今)即位四年(=157年?)丁酉(ひのと・とり) 東海の濱に延烏郎・細烏女あり、夫婦同居す。 一(ある)日、延烏、海に歸(い)き藻を採る。 忽(たちまち)一巖あり。 【一(ある)いは一魚と云う】 負いて日本に歸す。 國人これを見て曰く、「これ非常の人なり」と。 すなわち立てて王と爲す。 【日本帝記を按ずるに、前後に新羅の人を王と爲すこと無し。 これすなわち邊邑の小王にして真の王に非ざるなり】
細烏、夫の來たらざるを恠(あや)しみ、これを尋ね歸(い)く。 夫の脱ぎし鞋を見て、またその巖に上(のぼ)る。 巖、また負いて歸すること前(さき)の如し。 その國の人、驚き訝(いぶか)しみ、奏して王に獻ず。 夫婦相い會し、立てて貴妃と爲す。
この時に新羅に日・月の光無し。 日者(=日官/日を司る天文官)奏して云いしく、「日・月の精、降りて我が國に在りしが、今は日本に去る。故に斯(かく)の恠(あや)しを致す」と。 王、使を遣わし二人を求む。 延烏、曰く、「我、この國に到るは、天の然(しか)しむるなり。今、何ぞ歸らんや。然りと雖ども朕の妃が織れる細綃有り。これを以って天を祭るべし」と。 すなわちその綃を賜う。 使人、來り奏して、その言に依りてこれを祭る。 然して後、日・月、舊(もと)の如し。 その綃を御庫に藏し國の寶と爲す。 その庫を名づけて「貴妃庫」と爲す。 祭天の所を「迎日縣」または「都祈野」と名づく。
王曆第一[编辑]
前漢宣帝五鳳(甲子)四新羅第一赫居世姓朴卵生年十三甲子即位理六十年俅娥伊英娥英國號徐羅伐又徐伐或斯羅或雞林之譌至脫解王時始置雞林之號甘露(戊辰)四黃龍(壬申)元帝初元(癸酉)五永光(戊寅)五建昭(癸未)
六新羅高麗甲申築金城第一東明王甲申立理十九年姓高名朱蒙一作鄒蒙壇君之子成帝建始(己丑)四河平(癸巳)四陽朔(丁酉)四鴻嘉(辛丑)四永始(乙巳)四新羅高麗百濟第二琉璃王一作累利又□留東明子立壬寅理三十六年姓解氏第一溫祚王東明第三子圭第二癸卯立在位四十五都慰禮城一云蛇川今稷山元延(乙酉)四哀帝二哀帝建平(乙卯)四丙辰移都漢山今廣州元壽(己未)二平帝元始(辛酉)七第二南解次次雄父赫居世母閼英姓朴氏妃雲帝夫人甲子立理二十年此王位亦云居西干孺子初始(戊辰)二癸亥(移都國內城亦云不而城)
新室建國(己巳)五天鳳(甲戌)六第三大虎神王名無恤一作味留姓解氏琉璃王第三子戊寅立理二十六年地鳳(庚辰)三第三弩禮一作弩尼叱今父南解母雲帝妃辭要王之女金氏甲申立理三十三年尼叱今或作尼師今更始(癸未)二後漢虎帝建虎(乙酉)三十一新羅高麗百濟駕洛國一作伽耶今金州第四閔中王名邑朱姓解氏大虎之子甲辰立理四年第五慕本王閔中之兄名愛一作憂戊申立理五年第六國祖王名宮亦云大祖王癸丑立理九十三年後漢傳云初生開目能視後遜位子母弟次大王第二多婁王溫祚第二子戊子立理四十九年首露王壬寅三月卵生是月即位理一百五十八年因金卵而生故姓金氏開皇曆載中元(丙辰)二第四脫解一作吐解尼叱今昔氏父琓夏國含達婆王一作花夏國王母積女國王之女妃南解王之女阿老夫人丁巳立理二十三年王崩水葬末□疏井丘中塑骨安東岳今東岳大王明帝永年(戊午)十八章帝建初(丙子)八第五婆娑尼叱今姓朴氏父弩禮王母辭要王之女妃史肖夫人庚辰立理十二年第三己婁王多婁子丁丑立理五十五年元和(甲申)三章和(丁亥)二和帝永元(己丑)十七殤帝元興(乙巳)安帝延平(丙午)永初(丁未)七第六祇磨尼叱今一作祇味姓朴氏父婆娑母史肖夫人妃磨帝國王之女□禮夫人一作愛禮金氏壬子立理二十三年是王代滅音質國今安康及押梁國今□山元初(甲寅)六永寧(庚申)建光(辛酉)延光(壬戌)四順帝永建(丙寅)
六第七逸聖尼叱今父弩禮王之兄或云祇磨王妃□禮夫人日知葛文王之父□□禮夫人祇磨王之女母伊刊生夫人或云□□王夫人朴氏甲戌立理二十年第四蓋婁王巳婁子戊辰立理三十八年陽嘉(壬申)四永和(丙子)六漢安(壬午)二建康(甲申)沖帝永嘉(乙酉)帝本初(丙戌)第七次大王名遂國祖王母弟丙戌立理十九年桓帝建和(丁亥)三和平(庚寅)元嘉(辛卯)二永興(癸巳)二第八阿達羅尼叱今永壽(乙未)三乙巳國祖王年百十九歲兄二王俱見弑于新王延熹(戊戌)九又與倭國梖嶺第八新大王名伯固一作伯句乙巳立理十四年第五肖古王一作素古蓋婁子丙午立理五十年永康(丁未)立峴個彌勒大院東嶺是也靈帝建寧(戊申)四熹平(壬子)六光和(戊午)六第九故國川王名男虎或云夷謨己未立理廿年國川亦曰國壞乃葬地名中平(甲子)五第九伐休尼叱今洪農又献帝永漢(己巳)初平(庚午)四興平(甲戌)二建安(丙子)第十奈解尼叱今第十山上王第六仇首王一作貴須肖古之子甲午立理二十年第二居登王首露子母許皇后己卯立理五十五年姓金氏曹魏文帝黃初(庚子)七明帝大和(丁未)六第十一助賁尼叱今第十一東川王青龍(癸丑)四第七沙泮王一作沙□□□□仇首之子立即廢景初(丁巳)三齊王正始(庚申)九第十二理解尼叱今一作詀解王昔氏助賁王之同母弟也丁卯立理十五年始與高麗通聘第八古爾王肖故之母弟甲寅立理五十二年嘉平(己巳)五第十二中川王高貴鄉公正元(甲戌)二甘露(丙子)四第三麻品王父居登王母泉府卿申輔之女言今貞夫人己卯立理三十二年陳留王景元(庚辰)四第十三未鄒尼叱今一作味炤又未祖又未召姓金氏始立父仇道葛文王母生乎一作述禮夫人伊非葛文王之女朴氏妃諸賁王之女光明娘壬午立理二十二年西晉虎帝泰始(乙酉)十第十三西川王名藥盧又若友庚寅立理二十年咸寧(乙未)五大康(庚子)十一第十四儒禮尼叱今一作世里智王昔氏父諸賁母□召夫人朴氏甲辰立治十五年補築月城第九責稽王古爾子一作責替誤丙午立治十二年惠帝元康(辛亥)九第十匹烽上王雉葛王名相夫壬子立治八年永寧(辛酉)第十五基臨尼叱今一作基立王昔氏諸賁王之第二子也母阿爾夫人戊午立治二十年第十汾西王責稽子戊午立治六年第四居叱彌王一作今勿父麻品母好仇辛亥立治五十五年大安(壬戌)二第十五美川王一云妙禳名乙弗又瀀弗庚申立理三十一年永興(甲子)二第十一比流王仇者第二子沙泮之弟也甲子立治四十年光熙(丙寅)丁卯年是國號曰新羅新者德業日新羅者網羅四方之民云或系智證法興之世懷帝永嘉(丁卯)六第十六乞解尼叱今昔氏父于老音角干即察解王第二子也庚午立治十六年是王代百濟兵始來侵愍帝建興(癸酉)四東晉中宗建虎(丁丑)大興(戊寅)四明帝永昌(壬午)
大寧(癸未)三顯宗咸和(丙戌)九己丑始築碧骨堤周□萬七千二十六步□□百六十六步水田一萬四千七十第十六國原王名釗又斯由或云岡上□辛卯立理四十年甲午增築平壤城壬寅八月移都安市城即丸都城咸康(乙未)八康帝建元(癸卯)二第十二契王汾西元子甲辰立理二年孝宗永和(乙巳)十二第十七奈勿麻立干一作□王金氏父仇道葛文王一作未召王之弟未仇角干母休禮夫人金氏丙辰立理四十六年陵在占星臺西南第十三近肖古王比流第二子丙午立理二十九年第五伊品王父居叱彌母阿志丙午立理六十年昇平(丁巳)五哀帝隆和(壬戌)興寧(癸亥)三廢帝大和(丙寅)五簡文帝咸安(辛未)二第十七小獸林王名丘夫辛未立理十三年辛未移都北浦山烈宗寧康(癸酉)三第十四近仇首王近肖古之子也乙亥立理九年大元(丙子)二十一第十八國壤王名伊速又於只支甲申立治八年第十五枕流王近仇首子甲申立理二年安帝隆安(丁酉)五第十九廣開王名談德壬辰立治二十一年第十六辰斯王枕流王弟乙酉立治七年第十七阿莘王一作河芳辰斯子壬辰立治十三年元興(壬寅)三第十八實聖麻立干一作實主王又寶金王父未鄒王弟大西知角干母禮生夫人昔氏登也阿干□也妃阿留夫人壬寅立治十五王即鴟述之父第十八腆支王一作真支王名映阿莘子乙巳立治十五年義熙(乙巳)十四第十九訥祇麻立干一作內只王金氏父奈勿王母內禮希夫人金氏未鄒王女丁巳立治四十一年第二十長壽王名臣連癸丑立治七十九年第六坐知王一云金吐王父伊品母貞信丁未立治十四年恭帝元熙(己未)宋武帝永初(庚申)三第十九久爾辛王腆支子庚申立治七年第七吹希王一云金喜父坐知王母福辛酉立治三十年小帝景平(癸亥)文帝元嘉(甲子)二十九丁卯移都平壤城世祖大初(癸巳)第二十毘有王久爾辛子丁卯立治二十八年第八銍知王一云金銍□□希母仁德辛卯立治三十六年孝建(甲午)三大明(丁酉)八第二十慈悲麻立干金氏父訥祇母阿老夫人一作次老夫人實聖王之女戊戌立治二十一年妃巴胡葛文王女一作□叱希角干一作□□角干女第二十一蓋鹵王一云近蓋鹵王名慶司乙未立治二十年大宗泰始(乙巳)八後廢帝元徽(癸丑)四始與吳國通己未年倭國兵來侵始築明活城入避來圍梁州城不克而還順帝昇明(丁巳)二第二十二文周王一作文明蓋鹵子乙卯立移都熊川理二年第二十三三斤王一作三乞王文周子丁巳立理二年齊太祖建元(己未)四第二十一毘處麻立干一作知王金氏慈悲王第三子母未欣角干之女己未立理二十一年妃期寶葛文王之女第二十四東城王名牟大一云麻帝又餘大三斤王之堂弟己未立理二十六年武帝永明(癸亥)十一廢帝第二十一文咨明王名明理好又個雲又高雲壬申立理二十七年第九鉗知王父銍知王母邦媛壬申立理二十九年高宗建虎(甲戌)四永泰(戊寅)永元(己卯)二第二十二智訂麻立干一作智哲名又智度路王金氏父訥祇王弟期寶葛文王母烏生夫人訥祇王之女妃迎帝夫人儉攬代漢只登許作角干之女庚辰立理十四年和帝中興(辛巳)已上為上古已下為中古第二十五虎寧王名斯摩即東城第二子辛巳立理二十二年南史云名扶餘隆誤矣隆乃寶藏王之太子詳見唐史梁高祖天監(壬午)十八第二十三法興王名原宗金氏冊府元龜云姓募名秦父智訂母迎帝夫人法興諡諡始乎此甲午立理二十六年陵在哀公寺北妃巴丑夫人出家名法流住永興寺始行律令始行十行日禁殺度為僧尼第二十二安藏王名興安己亥立理十二年第二十六聖王名明穠虎寧子癸巳立理三十一年普通(庚子)七第十仇衝王鉗知子母□女辛丑立理十二年中大通四年壬子納土投羅自首露王國除壬寅至壬子合四百九十年國除大通(丁未)二羅麗濟第二十三安原王名寶迎辛亥立理十四年中大通(己酉)六建元(丙辰)是年始置年號始此大同(乙卯)十一第二十四真興王名彡麥宗一作深金氏父即法興之弟立宋葛文王母只召夫人一作息道夫人朴氏妃忠刁夫人英失角干之女剃髮為尼庚申立理三十六年第二十四陽原王一云陽崗王名平成乙丑立理十四年戊午移都泗泚稱南扶餘中大同(丙寅)大清(丁卯)三簡文帝大寶(庚午)侯景大始(辛未)開國(辛未)十七承聖(壬申)三敬帝紹泰(乙亥)第二十七威德王名高又明甲戌立理四十四年大平(丙子)陳高祖永定(丁丑)三文帝天嘉(庚辰)六第二十五平原王一作平岡名陽城動之云高□己卯立理三十一年天康(丙戌)光大(丁亥)二大昌(戊子)四宣帝大建(己丑)十四鴻濟(壬辰)十二第二十五真智王名金輪一作舍輪金氏父真興母未氏尼干之女一作色刁夫人朴氏妃如刁夫人起烏公之女朴氏立治四年治衰善北第二十六真平王名白淨□□東語父太子母立宗葛文王之女萬呼一云萬寧夫人名行□尼妃摩耶夫人金氏名福肹□後妃僧滿夫人孫氏己亥立至德(癸卯)四建福(甲辰)
禎明(丁未)三隋文帝開皇(庚戌)十一第二十六嬰陽王一云平陽名元一云大元庚戌立治三十八年第二十八惠王名季一云献王威德子戊午立仁壽(辛酉)四煬帝大業(乙丑)十二第二十九法王名孝順又宣惠王子己未立恭帝義寧(丁丑)第三十武王或云武康献丙或小名一耆篩德庚申立治四十一年唐太祖武德(戊寅)九第二十七榮留王名又建成戊寅立治二十四年太宗貞觀(丁亥)廿三第二十七善德女王名德曼父真平王母麻耶美人金氏聖骨男盡故女王立王之匹飲葛文王壬辰立治十六年仁平(甲午)立治十四第二十八寶藏王壬寅立治二十七年第三十一義慈王武王子辛丑立治二十年高宗永徽(庚戌)六第二十八真德王名勝曼金氏父真平王之弟國其安葛文王母阿尼夫人朴氏奴追□□□葛文王之女也或云月明非也丁未立治七年大和(戊申)六(已上中古聖骨已上下古真骨)第二十九太宗武烈王名春秋金氏真智王子龍春卓文興葛文王之子也龍春一作龍樹母天明夫人諡文貞太后真平王之女也妃訓帝夫人諡文明王后庾立之妹小名文熙也甲寅立治七年現慶(丙辰)五庚申國除自溫祚癸卯至庚申六百七十八年龍朔(辛酉)三麟德(甲子)二羅麗第三十文武王名法敏太宗之子也母訓帝夫人妃慈義一作訥王后善品海于之女辛酉立治二十年陵在感恩幸東海中乾封(丙寅)二總章(戊辰)二戊辰國除自東明甲申至戊辰合七百五年咸亨(庚午)四上元(甲戌)二儀鳳(丙子)三調露(己卯)永隆(庚辰)
開耀(辛巳)羅第三十一神文王金氏名政明字日炤父文虎王母慈訥王后妃神穆王后金運公之女辛巳立理十一年永淳(壬午)虎后洪道(癸未)文明(甲申)垂拱(乙酉)四永昌(己丑)
周天授(庚寅)二長壽(壬辰)二第三十二孝昭王名理恭一作洪金氏父神文王母神穆王后壬辰立理十年陵在望德寺東延載(甲午)天冊(乙未)通天(丙申)神功(丁酉)聖曆(戊戌)二久視(庚子)長安(辛丑)四第三十三聖德王名興光本名隆基孝昭之母弟也先妃陪昭王后諡嚴貞元大阿干之女也後妃占勿王后諡炤德順元角干之女壬寅立理三十五年陵在東村南一云楊長谷中宗神龍(乙巳)二景龍(丁未)三睿宗景雲(庚戌)二玄宗先天(壬子)
開元(癸丑)廿九第三十四孝成王金氏名承慶父聖德王母炤德大后妃惠明王后真宗角干之女丁丑立理五年法流寺火葬骨散東海天寶(壬午)十四第三十五景德王金氏名憲英父聖德母炤德大后先妃三毛夫人出宮無後後妃滿月夫人諡景垂王后垂一作穆依忠角干之女壬午立理二十三年初葬頃只寺西岑鍊石為陵後移葬楊長谷中肅宗至德(丙申)二乾元(戊戌)二上元(庚子)二寶應(壬寅)代宗廣德(癸卯)二永泰(乙巳)第三十六惠恭王金氏名乾運父景德母滿月王后先妃神巴夫人魏正角干之女妃昌昌夫人金將角干之女乙巳立理十五年大曆(丙午)十四德宗建中(庚申)四第三十七宣德王金氏名亮相父孝方海干追封開聖大王即元訓角干之子母四召夫人諡貞懿大后聖德王之女妃具足王后狼品角干之女庚申立理五年興元(甲子)貞元(乙丑)二十第三十八元聖王金氏名敬慎一作敬信唐書云敬則父孝讓大阿干追封明德大王母仁□□一云知鳥夫人諡昭文王后昌近伊已之女妃淑貞夫人神述角干之女乙丑立理十四年陵在鵠寺今崇福寺有也或遠所立碑順宗永貞(乙酉)第三十九昭聖王一作昭成王金氏名俊邕父惠忠大子母聖穆大后妃桂花王后夙明公女己卯立而崩第四十哀莊王金氏名重熙一云清明父昭聖母桂花王后辛卯立理十年元和四年己丑七月十九日王之叔父憲德興德兩伊干所害而崩憲宗元和(丙戌)十五第四十一憲德王金氏名彥升昭聖之母弟妃貴勝娘諡皇娥王后忠恭角干之女己丑立理十九年陵在泉林村北穆宗長慶(辛丑)四敬宗寶曆(乙巳)二第四十二興德王金氏名景暉憲德母弟妃昌花夫人諡定穆王后昭聖之女丙午立理十年陵在安康北比火壤與妃昌花合葬文宗大和(丁未)九開成(丙辰)五第四十三僖康王金氏名愷隆一作悌顒父憲貞角干諡興聖大王一作□成禮英匝于子也母美道夫人一作深乃夫人一云巴利夫人諡順成大后忠行大阿干之女也妃文穆王后忠孝角干之女一云重恭角干丙辰年立理二年第四十四閔(一作敏)哀王金氏名明父忠恭角干追封宣康大王母追封惠忠王之女貴巴夫人諡宣懿王后妃無容皇后永公角干之女戊午立至己未正月二十二日崩第四十五神虎王金氏名佑徵父均貞角干追封成德大王母貞□夫人追封祖禮英惠康大王妃貞從一作繼大后明海□□之女己未四月立至十一月一十三日崩第四十六文聖王金氏名慶膺父神虎王母貞從大后妃炤明王后己未十一月立理十九年虎宗會昌(辛酉)六宣宗大中(丁卯)十三第四十七憲安王金氏名誼靖神虎王之弟母昕明夫人戊寅立理三年懿宗咸通(庚辰)十四第四十八景文王金氏名膺廉父啟明角干追封義(一作懿)恭大王即僖康王之子也母神虎王之女光和夫人妃文資皇后憲安王之女辛巳立理十四年僖宗乾符(甲午)六第四十九憲康王金氏名晸父景文王母文資皇后一云義明王后乙未立理十一年廣明(庚子)中和(辛丑)四第五十定康王金氏名晃閔哀王之母弟丙午立而崩光啟(乙巳)三第五十一真聖女王金氏名曼憲即定康王之同母妹也王之匹魏弘大角干追封惠成大王丁未立理十年丁巳遜位于小子孝恭王十二月崩火葬散骨于牟梁西卉一作未黃山昭宗文德(戊申)龍紀(己酉)大順(庚戌)二羅後高麗後百濟弓裔大順庚戌始投北原賊良吉屯丙辰都鐵圓城(今東州也)丁巳移都松岳郡景福(壬子)二甄萱壬子始都光州乾寧(甲寅)四第五十二孝恭王金氏名嶢父憲康王母文資王后丁巳立理十五年火葬師子寺北骨藏于仇知堤東山脅光化(戊午)三天復(辛酉)三辛酉稱高麗景宗天祐(甲子)三甲子改國號摩震置元虎泰朱梁開平(丁卯)四第五十三神德王朴氏名景徽本名秀宗母貞花夫人夫人之父順弘角干追諡成虎大王祖元鄰角干乃阿達王之遠孫父文元伊干追封興廉大王祖文官海干義父銳謙角干追封宣成大王妃資成王后一云懿成又孝資壬申立理五年火葬藏骨于箴峴南乾化(辛未)四末帝貞明(乙亥)六第五十四景明王朴氏名昇英父神德母資成妃長砂他大尊角干追封聖僖大王之子大尊即水宗伊干之子丁丑立理七年火葬皇福寺散骨于省等仍山西甲戌還鐵原太祖戊寅六月裔死太祖即位于鐵原京己卯移都松岳郡是年創法王慈雲王輪內帝釋舍那又創天禪院(即普膺)新興文殊通地藏□□□□前十大寺皆是年所創庚辰乳岩下立油市故今俗利市云乳下十月創大興寺或系壬午壬午又創日月寺或系辛巳甲申創外帝釋神眾院興國寺丁亥創妙寺己丑創龜山庚寅安龍德(辛巳)二後唐同光(癸未)三第五十五景哀王朴氏名魏膺景明之母弟也母資成甲申立理三年明宗天成(丙戌)四第五十六敬順王金氏傅父孝宗伊干追封神興大王祖官□角汗封懿興大王母桂娥康王之乙未納土歸于陵在□□東向洞長興(庚寅)四閔帝末帝清泰(甲午)二自五鳳甲子至乙未合九百九十二年石晉天福(丙申)八丙申統三韓乙未萱子神釰篡父自立是年國除自壬子至此四十四年而亡前漢高惠小文景虎昭宣元成哀平孺後漢光明章和殤安順沖質桓靈農獻魏晉宋齊梁陳隋李唐大高則中睿玄肅代德順憲穆敬文虎宣懿僖昭景朱梁後唐石晉劉漢郭周大宋
紀異卷第一
敘曰:大抵古之聖人。方其禮樂興邦。仁義設教。則怪力亂神。在所不語。然而帝王之將興也。膺符命。受圖籙。必有以異於人者。然後能乘大變。握大器。成大業也。故河出圖。洛出書。而聖人作。以至虹繞神母而誕羲。龍感女登而注炎。
皇娥遊窮桑之野。有神童自稱白帝子。交通而生小昊。簡犾吞卵而生契。姜嫄履跡而生棄。胎孕十四月而生堯。龍交大澤而生沛公。自此而降。豈可殫記。然則三國之始祖。皆發乎神異。何足怪哉。此紀異之所以
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三國遺事/巻第2
1 紀異第二 下
1.1 文虎王法敏
1.2 万波息笛
1.3 孝昭王代 竹旨郎(亦作竹曼亦名智官)
1.4 聖德王
1.5 水路夫人
1.6 孝成王
1.7 景德王 忠談師 表訓大德
1.8 惠恭王
1.9 元聖大王
1.10 早雪
1.11 興德王鸚鵡
1.12 神武大王閻長 弓巴
1.13 四十八景文大王
1.14 處容郎 望海寺
1.15 真聖女大王居陀知
1.16 靈廟寺
1.17 景明王
1.18 景哀王
1.19 金傳大王
1.20 武王(古本作武康。非也。百濟無武康)
1.21 後百濟 甄萱
1.22 駕洛國記(文廟朝。大康年間。金官知州事文人所撰也。今略而載之)
1.22.1 居登王
1.22.2 麻品王
1.22.3 居叱彌王
1.22.4 伊尸品王
1.22.5 坐知王
1.22.6 吹希王
1.22.7 銍知王
1.22.8 鉗知王
1.22.9 仇衡王
紀異第二 下
文虎王法敏
王初即位。龍朔辛酉。泗泚南海中有死女尸。身長七十三尺。足長六尺陰長三尺。或云身長十八尺。在封乾二年丁卯總章戊辰。
王統兵。與仁問欽純等至平壤。會唐兵滅麗。唐帥李勣獲高臧王還國(王之性高。故云高臧。按唐書高記。現慶五年庚申。蘇定方等征百濟。後十二月大將軍契如何)為浿道行軍大總管蘇。定方為遼東道大總管。劉伯英為平壤道大總管。以伐高麗。又明年辛酉正月。蕭嗣業為扶俆道總管。任雅相為浿江道總管。率三十五萬軍以伐高麗。八月甲戌。蘇定方等及高麗戰。于浿江敗亡。乾封元年丙寅六月。以龐同善高臨薜仁貴李謹行等為後援。九月。龐同善及高麗戰敗之十二月己酉。以李勣為遼東道行臺大總管。率六總管兵以伐高麗。總章元年戊辰九月癸巳。李勣獲高臧王。十二月丁巳獻俘于帝。上元元年甲戌二月。劉仁軌為雞林道總管。以伐新羅。而鄉古記云。唐遣陸路將軍孔恭水路將軍有相興新羅金庾信等滅之。而此云仁問欽純等無庾信。未詳。時唐之游兵諸將兵有留鎮而將謀襲我者。王覺之。發兵之明年。高宗使召仁問等讓之曰。爾請我兵以滅麗。害之何耶。乃下圓扉。鍊兵五十萬。以薜邦為帥。欲伐新羅。時義相師西學入唐來見仁問。仁問以事諭之。相乃東還上聞。王甚憚之。會群臣問防禦策。角干金天尊奏曰。近有明朗法師入龍宮。傳祕法而來。請詔問之。朗奏曰。狼山之南有神遊林。創四天王寺於其地。開設道場則可矣。時有貞州使走報曰。唐兵無數至我境。迴槧海上。王召明朗曰。事已逼至如何。朗曰。以彩帛假搆宜矣。乃以彩帛營寺。草搆五方神像。以瑜珈明僧十二員。明朗為上首。作文豆婁祕密之法。時唐羅兵未交接。風濤怒起。唐舡皆沒於水。後改刱寺。名四天王寺。至今不墜壇席(國史大改刱在調露元年己卯)後年辛未。唐更遣趙憲為帥。亦以五萬兵來征。又作其法。舡沒如前。是時翰林郎朴文俊隨仁問在獄中。高宗召文俊曰。汝國有何密法。再發大兵無生還者。文俊奏曰。陪臣等來於上國一十餘年。不知本國之事。但遙聞一事爾。厚荷上國之恩。一統三國。欲報之德。新刱天王寺於狼山之南。祝皇壽萬年。長開法席而已。高宗聞之大悅。乃遣禮部侍郎樂鵬龜使於羅審其寺。王先聞唐使將至。不宜見茲寺。乃別刱新寺於其南待之。使至曰。必先行香於皇帝祝壽之所天王寺。乃引見新寺。其使立於門前曰。不是四天王寺。乃望德遙山之寺。終不入。國人以金一千兩贈之。其使乃還奏曰。新羅刱天王寺。祝皇壽於新寺而已。因唐使之言。因名望德寺(或系孝昭王代。誤矣)王聞文俊善奏。帝有寬赦之意。乃命強首先生作請放仁問表。以舍人遠禹奏於唐。帝見表流涕。赦仁問慰送之。仁問在獄時。國人為刱寺名仁容寺。開設觀音道場。及仁問來還。死於海上。改為彌陀道場。至今猶存。大王御國二十一年。以永隆二年辛巳崩。遺詔葬於東海中大巖上。王平時常謂智義法師曰。朕身後願為護國大龍。崇奉佛法。守護邦家。法師曰。龍為畜報何。王曰。我厭世間榮華久矣。若麤報為畜。則雅合朕懷矣王初即位置南山長倉。長五十步。廣十五步。貯米穀兵器。是為右倉。天恩寺西北山上是為左倉。別本云。建福八年辛亥築南山城。周二千八百五十步。則乃真德王代始築。而至此乃重修爾。又始築富山城。三年乃畢。安北河邊築鐵城。又欲築京師城郭。既令真吏。時義相法師聞之。致書報云。王之政教明則雖草丘盡地而為城。民不敢踰。可以潔災進福。政教苟不明。則雖有長城。災害未消。王於是正罷其役。麟德三年丙寅三月十日。人家婢名吉伊。一乳生三子。總章三年庚午正月七日。漢岐部一山級干一作成山何于。婢一乳生四子。一女三子。國給穀二百石以賞之又伐高麗。以其國王孫还國。置之真骨位王一日召庶弟車得公曰。汝為塚宰。均理百官平章四海。公曰。陛下若以小臣為宰。則臣願潛行國內。示民問徭役之勞逸。祖賦之輕重。官吏之清濁。然後就職。王聽之。公著緇衣。把琵琶為居士形。出京師。經由阿瑟羅州(令溟州)牛首州(今春州)北原京(今忠州)至於武珍州(今海陽)巡行里閈。州吏安吉見是異人。邀致其家。盡情供億。至夜安吉喚妻妾三人曰。今茲侍宿客居士者終身偕老二妻曰。寧不並居。何以於人同宿。其一妻曰。公若許終身並居。則承命矣。從之。詰旦居士欲辭行時。曰僕京師人也。吾家在皇龍皇聖二寺之間。吾名端午也(俗為端午為車衣)主人若到京師。尋訪吾家幸矣。遂行到京師居家宰。國之制每以外州之吏一人上守京中。諸曹注今之其人也。安吉當次上守至京師。問兩寺之間端午居士之家。人莫知者。安吉久立道左。有一老翁經過。聞其言良久佇思曰。二寺間一家殆大內也。端午者乃車得令公也。潛行外郡時。殆汝有緣契乎。安吉陳其實。老人曰。汝去宮城之西。敀正門。待宮女出入者告之。安吉從之。告武珍州安吉進於門矣。公聞而走出。攜手入宮。喚出公之妃。興安吉共宴。具饌至五十味。聞於上。以星浮山(一作星損乎山)下為武珍州上守繞木田。禁人樵採。人不敢近。內外欽羡之。山下有田三十畝。下種三石。此田稔歲。武珍州亦稔。否則亦否云
万波息笛
第三十一神文大王。諱政明。金氏。開耀元年辛巳七月七日即位。為聖考文武大王創感恩寺於東海邊(寺中記云。文武王欲鎮倭兵。故始創此寺。未畢而崩。為海龍。其子神文立開耀二年畢。排金堂砌下東向開一穴。乃龍之入寺旋繞之備蓋遺詔之藏骨處。名大王岩。寺名感恩寺。後見龍現形處。名利見臺)明年壬午五月朔(一本云天授元年誤矣)海官波珍喰朴夙清奏曰。東海中有小山浮來向感恩寺。隨波往來。王異之。命日官金春質(一作春日)占之。曰。聖考今為海龍鎮護三韓。抑又金公庾信乃三十三天之一子今降為大臣。二聖同德。欲出守城之寶。若陛下行幸海過。必得無價大寶。王喜以其月七日駕幸利見臺。望其山遣使審之。山勢如龜頭。上有一竿竹。晝為二。夜合一(一云。山亦晝夜開合如竹)使來奏之。王御感恩寺宿。明日午時。竹合為一。天地振動。風雨晦暗七日。至其月十六日風霽波平。王泛海入其山。有龍奉黑玉帶來獻。迎接共坐。問曰。此山與竹或判或合如何。龍曰。比如一手拍之無聲。二手拍則有聲。此竹之為物。合之然後有聲。聖王以聲理天下之瑞也。王取此竹。作笛吹之。天下和平。今王考為海中大龍。庾信復為天神。二聖同心。出此無價大寶。令我獻之。王驚喜。以五色錦彩金玉酬賽之。敕使斫竹出海時。山與龍忽隱不現。王宿感恩寺。十七日。到祗林寺西溪邊。留駕晝膳。太子理恭(即孝昭大王)守闕。聞此事走馬來賀。徐察奏曰。此玉帶諸窠皆真龍也。王曰。汝何知之。太子曰。摘一窠沈水示之。乃摘左邊第二窠沈溪。即成龍上天。其地成淵。因號龍淵。駕还。以其竹作笛。藏於月城天尊庫。吹此笛則兵退病愈。旱雨雨晴。風定波平。號万波息笛。稱為國寶。至孝昭大王代天授四年癸巳。因失禮郎生还之異。更封號曰万万波波息笛。詳見彼傳
孝昭王代 竹旨郎(亦作竹曼亦名智官)
第三十二孝昭王代。竹曼郎之徒有得烏(一云谷)級干。隸名於風流黃卷。追日仕進。隔旬日不見。郎喚其母。問爾子何在。母曰。幢典牟梁益宣阿干以我子差富山城倉。直馳去。行急未暇告辭於郎。郎曰。汝子若私事適彼。則不須尋訪。今以公事進去。須歸享矣。乃以舌餅一合酒一缸。卒左人(鄉云皆叱知言奴僕也)而行。郎徒百三十七人亦具儀侍從。到富山城。問閽人。得鳥失奚在。人曰。今在益宣田。隨例赴役。郎歸田以所將酒餅饗之。請暇於益宣。將欲偕還。益宣固禁不許。時有使吏侃珍管收推火郡。能節租三十石輸送城中。美郎之重士風味。鄙宣暗塞不通。乃以所領三十石贈益宣助請。猶不許。又以珍節舍知騎馬鞍具貽之。乃許。朝廷花主聞之。遣使取益宣。將洗浴其垢醜。宣逃隱。掠其長子而去。時仲冬極寒之日。浴洗於城內池中。仍合凍死。大王聞之。敕牟梁里人從官者。並合黜遣。更不接公署。不著黑衣。若為僧者。不合入鍾鼓寺中。敕史上侃。珍子孫為枰定戶孫標異之。時园測法師是海東高德。以牟梁里人故不授僧職。初述宗公為朔州都督使。將歸理所。時三韓兵亂。以騎兵三千護送之。行至竹旨嶺。有一居士平理其嶺路。公見之歎美。居士亦善公之威勢赫甚。相感於心。公赴州理。隔一朔。夢見居士入于房中。室家同夢。驚怪左甚。翌日使人同其居士安否。人曰。居士死有日矣。使來还告其死。與夢同日矣。公曰。殆居士誕於吾家爾。更發卒修葬於嶺上北峰。造石彌勒一軀。安於塚前。妻氏自夢之日有娠。既誕。因名竹旨。壯而出仕。與庾信公為副帥。統三韓。真德太宗文武神文四代為塚宰。安定厥邦。初得烏谷慕郎而作歌曰:
去隱春皆理米 毛冬居叱沙哭屋尸以憂音阿冬音 乃叱好支賜烏隱 貌史年數就音墮支行齊 目煙迴於尸七史伊衣 逢鳥支惡知作乎下是 郎也慕理尸心未 行乎尸道尸 蓬次叱巷中宿尸夜音有叱下是
聖德王
第三十三聖德王。神龍二年丙午。歲禾不登。人民飢甚。丁未正月初一日至七月三十日救民給租。一口一日三升為式。終事而計三十萬五百碩也王為太宗大王刱奉德寺。設仁王道場。七日大赦。始有侍中職(一本糸孝成王)
水路夫人
聖德王代。純貞公赴江陵大守(今溟州)行次海汀晝膳。傍有石嶂。如屏臨海。高千丈。上有躑躅花盛開。公之夫人水路見之謂左右曰。折花獻者其誰。從者曰。非人跡所到。皆辭不能傍有老翁牽牸牛而過者。聞夫人言折其花亦作歌詞獻之。其翁不知何許人也。便行二日程。又有臨海亭。晝膳次海龍忽攬夫人入海。公顛倒躄地。計無所出。又有一老人告曰。故人有言。眾口鑠金。今海中傍生。何不畏眾口乎。宜進界內民。作歌唱之。以杖打岸。則可見夫人矣。公從之。龍奉夫人出海獻之。公問夫人海中事。四七寶宮殿。所膳甘滑香潔。非人間煙火。此夫人衣襲異香。非世所聞。水路姿容絕代。每經過深山大澤。屢被神物掠攬。眾人唱海歌。詞曰:
龜乎龜乎出水路 掠人婦女罪何極
汝若㥬逆不出獻 入網捕掠燔之喫
老人獻花歌曰:
紫布岩乎過希執音乎手母牛放教遣 吾肹不喻慚肹伊賜等 花肹折叱可獻乎理音如
孝成王[编辑]
開元十年壬戌十月。始築關門於毛火郡。今毛火村。屬慶州東南境。乃防日本塞垣也。周迴六千七百九十二步五尺。役徒三萬九千二百六十二人。掌員元真角干。開元二十一年癸酉。唐人欲征北犾。請兵新羅。客使六百四人來还國
景德王 忠談師 表訓大德[编辑]
德經等大王備禮受之。王御國二十四年。五岳三山神等時或現侍於殿庭。三月三日。王御敀正門樓上。謂左右曰。誰能途中得一員榮服僧來。於是適有一大德。威儀鮮潔。徜徉而行。左右望而引見之。王曰。非吾所謂榮僧也。退之。更有一僧。被衲衣負櫻筒(一作荷簣)從南而來。王喜見之。邀致樓上。視其筒中。盛茶具已。曰。汝為誰耶。僧曰志談。曰。何所歸來。僧曰。僧每重三重九之日。烹茶饗南山三花嶺彌勒世尊。今茲既獻而還矣。王曰。寡人亦一甌茶有分乎。僧乃煎茶獻之。茶之氣味異常。甌中異香郁烈。王曰。朕嘗聞師讚耆婆郎詞腦歌。其意甚高。是其果乎。對曰然。王曰。然則為朕作理安民歌。僧應時。奉敕歌呈之。王佳之。封王師焉。僧再拜固辭不受。安民歌曰:
君隱父也 臣隱愛賜尸母史也 民焉狂尸恨阿孩古為賜尸知民是愛尸知古如 窟理叱大肹生以支所音物生此肹喰惡支治良羅 此地肹捨遣只於冬是去於丁 為尸知國惡支持以 支知右如後句 君如臣多支民隱如 為內尸等焉國惡太平恨音叱如
讚耆婆郎歌曰
咽嗚爾處米 露曉邪隱月羅理 白雲音逐于浮去隱安支下 沙是八陵隱汀理也中 耆郎矣貌史是史藪邪 逸烏川理叱磧惡希 郎也持以支如賜烏隱心未際叱肹逐內良齊 阿耶 柏史叱枝次高支好 雪是毛冬乃乎尸花判也
王玉莖長八寸無子廢之。封沙梁夫人。後妃滿月夫人諡景垂大后。依忠角干之女也。王一日詔表訓大德曰。朕無祐不獲其嗣。願大德請於上帝而有之。訓上告於天帝。還來奏云。帝有言。求女即可。男即不宜。王曰。願轉女成男。訓再上天請之。帝曰。可則可矣。然為男則國殆矣。訓欲下時。帝又召曰。天與人不可亂。今師往來如鄰里。漏洩天機。今後宜更不通。訓來以天語諭之。王曰。國雖殆。得男而為嗣足矣。於是滿月王后生太子。王喜甚。至八歲王崩。太子即位。是為惠恭大王。幼沖故大后臨朝。政條不理。盜賊蜂起。不遑備禦。訓師之說驗矣。小帝既女為男故。自期晬至於登位。常為婦女之戲。好佩錦囊。與道流為戲。故國有大亂。修為宣德與金良相所弑。自表訓後。聖人不生於新羅云
惠恭王[编辑]
大曆之初。康州官署大堂之東。地漸陷成池(一本大寺東小池)從十三尺。橫七尺。忽有鯉魚五六。相繼而漸大。淵亦隨大。至二年丁未。又天狗墜於東樓南。頭如瓮。尾三尺許。色如烈火。天地亦振。又是年。今浦縣稻田五頃中皆米顆成穗。是年七月。北宮庭中先有二星墜地。又一星墜。三星皆沒入地。先時宮北廁圊中二莖蓮生。又奉聖寺田中生蓮。虎入禁城中。追覓失之。角干大恭家梨木上雀集無數。據安國兵法下卷云。天下兵大亂。於是大赦修省。七月三日。大恭角干賊起。王都及五道州郡并九十六角干相戰大亂。大恭角干家亡。輸其家資寶帛于王宮。新城長倉火燒。逆黨之寶穀在沙梁牟梁等里中者。亦輸入王宮。亂彌三朔乃息。被賞者頗多。誅死者無算也。表訓之言國殆是也
元聖大王[编辑]
伊飱金周元初為上宰。王為角干居二宰。夢脫襆頭著素笠。把十二絃琴入於天官寺井中。覺而使人占之。曰。脫襆頭者失職之兆。把琴者著枷之兆。入井入獄之兆。王聞之甚患。杜門不出。于時阿飱餘三或本餘山來通謁。王辭以疾不出。再通曰。願得一見。王諾之。阿飱曰。公所忌何事。王具說占夢之由。阿飱興拜曰。此乃吉祥之夢。公若登大位而不遺我。則為公解之。王乃辟禁左右而請解之。曰。脫襆頭者。人無居上也。著素笠者。冕旒之兆也。把十二絃琴者。十二孫傳世之兆也。入天官井。入宮禁之瑞也。王曰。上有周元。何居上位。阿飱曰。請密祀北川神可矣。從之。未幾宣德王崩。國人欲奉周元為王。將迎入宮。家在川北。忽川漲不得渡。王先入宮即位。上宰之徒眾皆來附之。拜賀新登之主。是為元聖大王。諱敬信金武。蓋厚夢之應也。周元退居溟州。王既登極。時餘山已卒矣。召其子孫賜爵。王之孫有五人。惠忠太子。憲平太子。禮英匝干。大龍夫人。小龍夫人等也。大王誠知窮達之變。故有身空詞腦歌(歌亡未詳)王之考大角干孝讓傳祖宗萬波息笛。乃傳於王。王得之。故厚荷天恩。其德遠輝。貞元二年丙寅十月十一日。日本王文慶(按日本帝紀第五十五年文德王疑是也。餘無文慶。或本云是王太子)舉兵欲伐新羅。聞新羅有萬波息笛退兵。以金五十兩遣使請其笛。王謂使曰。朕聞上世真平王代有之耳。今不知所在。明年七月七日。更遣使以金一千兩請之曰。寡人願得見神物而還之矣。王亦辭以前對。以銀三千兩賜其使。還金而不受。八月使還。藏其笛於內黃殿。王即位十一年乙亥。唐使來京。留一朔而还。後一日有二女進內庭。奏曰。妾等乃東池青池(青池即東泉寺之泉也。寺記云。泉乃東海龍往來聽法之地。寺乃真平王所造。五百聖眾。五層塔。并納田民焉)二龍之妻也。唐使將河西國二人而來。咒我夫二龍及芬皇寺井等三龍。變為小魚。筒貯而歸。願陛下敕二人。留我夫等。護國龍也。王追至河陽館。親賜享宴。敕河西人曰。爾輩何得取我三龍至此。若不以實告。必加極刑。於是出三魚獻之。使放於三處。各湧水丈餘。喜躍而逝。唐人服王之明聖。王一日請皇龍寺(注或本云華嚴寺又金剛寺香蓋以寺名經名光混之也)釋智海入內。稱華嚴經五旬。沙彌妙正每洗缽於金光井(因大賢法師得名)邊。有一黿浮沈井中。沙彌每以殘食餽而為戲。席將罷。沙彌謂黿曰。吾德汝日久。何以報之。隔數日。黿吐一小珠。如欲贈遺。沙彌得其珠繫於帶端。自後大王見沙彌愛重。邀致內殿。不離左右。時有一匝干奉使於唐。亦愛沙彌。請與俱行。王許之。同入於唐。唐帝亦見沙彌而寵愛。承相左右莫不尊信。有一相士奏曰。審此沙彌。無一吉相。得人信敬。必有所持異物。使人撿看。得帶端小珠。帝曰。朕有如意珠四枚。前年失一個。今見此珠。乃吾所失也。帝問沙彌。沙彌具陳其事。帝內失珠之日。與沙彌得珠同日。帝留其珠而遣之。後人無愛信此沙彌者。王之陵在吐含岳西洞鵠寺(今崇禪寺)有崔致遠撰碑。又刱報恩寺。又望德樓追封祖訓入匝干為興平大王。曾祖義官匝干為神英大王。高祖法宣大阿干為玄聖大王。玄聖大王。玄聖之考即摩叱次匝干
早雪[编辑]
第四十哀莊王。末年戊子。八月十五日有雪第四十一憲德王。元和十三年戊戌。三月十四日大雪(一本作丙寅。誤矣。元和盡十五。無丙寅)
第四十六文聖王。己未五月十九日大雪。八月一日。天地晦暗
興德王鸚鵡[编辑]
第四十二興德大王。寶曆二年丙午即位。未幾有人奉使於唐。將鸚鵡一雙而至。不久雌死。而孤雄哀鳴不已。王使人掛鏡於前。鳥見鏡中影。擬其得偶。乃啅其鏡而知其影。乃哀鳴而死。王作歌云。未詳
神武大王閻長 弓巴[编辑]
第四十五神武大王潛邸時。謂俠土弓巴曰。我有不同天之讎。汝能為我除之。獲居大位。則娶爾女為妃。弓巴許之。協心同力。舉兵犯京師。能成其事。既篡位。欲以巴之女為妃。群臣極諫曰巴側微。上以其女為妃。則不可。王從之。時巴在清海鎮為軍戍。怨王之違言欲謀亂。時將軍閻長聞之奏曰。巴將為不忠。小臣請除之。王喜許之。閻長承旨歸清海鎮。見謁者通曰。僕有小怨於國君。欲投明公以全身命。巴聞之大怒曰。爾輩諫於王而廢我女。胡顧見我乎。長復通曰。是百官之所諫。我不預謀。明公無嫌也。巴聞之引入廳事。謂曰。卿以何事來此。長曰。有忤於王。欲投幕下以免害爾。巴曰幸矣。置酒歡甚。長取巴之長劍斬之。麾下軍士驚懾皆伏地。長引至京師。復命曰。已斬弓巴矣。上喜賞之。賜爵阿干
四十八景文大王[编辑]
王諱膺廉。年十八為國仙。至於弱冠。憲安大王召郎。宴於殿中。問曰。郎為國仙優遊四方。見何異事。郎曰。臣見有美行者三。王曰。請聞其說。郎曰。有人為人上者。而撝謙坐於人下。其一也。有人豪富而衣儉易。其二也。有人本貴勢而不用其威者。三也。王聞其言而知其賢。不覺墮淚而謂曰。朕有二女。請以奉巾櫛。郎避席而拜之。稽首而退。告於父母。父母驚喜。會其子弟議曰。王之上公主貌甚寒寢。第二公主甚美。娶之幸矣。郎之徒上首範教師者聞之。至於家問郎曰。大王欲以公主妻公。信乎。郎曰然。曰奚娶。郎曰。二親命我宜弟師曰。郎若娶弟則予必死於郎之面前。娶其兄則必有三美。誡之哉。郎曰聞命矣。既而王擇辰而使於郎曰。二女惟公所命。使歸以郎意奏曰。奉長公主爾。既而過三朔。王疾革。召群臣曰。朕無男孫。窀穸之事。宜長女之夫膺廉繼之。翌日王崩。郎奉遺詔即位。於是範教師詣於王曰。吾所陳三美者。今皆著矣。娶長故。今登位一也。昔之欽豔第主。今易可取二也。娶兄故。王與夫人喜甚三也。王德其言。爵為大德。賜金一百三十兩。王崩。諡曰景文。王之寢殿。每日暮無數眾蛇俱集。宮人驚怖。將驅遣之。王曰。寡人若無蛇不得安寢。宜無禁。每寢吐舌滿胸。鋪之乃登位。王耳忽長如驢耳。王后及宮人皆未知。唯襆頭匠一人知之。然生平不向人說。其人將死。入道林寺竹林中。無人處向竹唱云。吾君耳如驢耳。其後風吹則竹聲云吾君耳如驢耳。王惡之。乃伐竹而植山茱萸。風吹則但聲云吾君耳長(道林寺舊在入都林邊)國仙邀元郎譽昕郎桂元叔宗郎等遊覽金蘭。暗有為君主理邦國之意。乃作歌三首。使心弼舍知授針卷送大炬和尚處。令作三歌。初名玄琴抱曲。第二大道曲。第三問群曲。入奏於王。王大喜稱賞。歌未詳
處容郎 望海寺[编辑]
第四十九憲康大王之代。自京師至於海內。比屋連牆無一草屋。笙歌不絕道路。風雨調於四時。於是大王遊開雲浦(在鶴城西南今蔚州)王將還駕畫歇於汀過。忽雲霧冥曀。迷失道路。怪問左右。日官奏云。此東海龍所變也。宜行勝事以解之。於是敕有司為龍刱佛寺。近境施令已出。雲開霧散。因名開雲浦。東海龍喜。乃率七子現於駕前。讚德獻舞奏樂。其一子隨駕入京。輔佐王政。名曰處容。王以美女妻之。欲留其意。又賜級干職。其妻甚美。疫神欽慕之。變無人夜至其家。竊與之宿。處容自外至。其家見寢有二人。乃唱歌作舞而退。歌曰:
東京明期月良夜入伊遊行如可入良沙寢矣見昆腳烏伊四是良羅二[月*(夸-大+八)]隱吾下於叱古二[月*(夸-大+八)]隱誰支下焉古本矣吾下是如馬於隱奪叱良乙何如為理古
時神現形。跪於前曰。吾羨公之妻。今犯之矣。公不見怒。感而美之。誓今已後。見畫公之形容。不入其門矣。因此國人門帖處容之形。以僻邪進慶。王既還。乃卜靈鷲山東麓勝地置寺。曰望海寺。亦名新房寺。乃為龍而置也。又幸鮑石亭。南山神現舞於御前。左右不見。王獨見之。有人現舞於前。王自作舞。以像示之。神之名或曰祥審。故至今國人傳此舞。曰御舞祥審。或曰御舞山神。或云。既神出舞。審象其貌。命工摹刻。以示後代。故云象審。或云霜髯舞。此乃以其形稱之。又幸於金剛嶺時。北岳神呈舞。名玉刀鈐。又同體殿宴時。地神出舞。名地伯級干。語法集云。干時山神獻舞。唱歌云。智理多都波都波等者。蓋言以智理國者。知而多逃。都邑將破云謂也。乃地神山神知國將亡。故作舞以警之。國人不悟。謂為現瑞。耽樂滋甚。故國終亡
真聖女大王居陀知[编辑]
第五十一真聖女王。臨朝有年。乳母