七枝刀、神功皇后

372年の七枝刀は奈良県天理市石上神宮に保存されていた。
明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。その銘文は、

 浜田耕策による2005年における研究では、次のとおり発表された。

〔表面〕泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
〔裏面〕先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世

浜田耕策氏による解釈では
〔表面〕
泰和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。
〔裏面〕
先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。

 ここでいう、泰和四年とは369年であり、年代的にも合致している。

 百済本紀とも年代が一致しており、日本書紀の神功皇后の記事は特に年代に矛盾が見当たらない。おそらく、事実そのままの記事であろう。

 神功皇后の日本書紀の記録

神功年 西暦 記事
46 366 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。
47 367 百済と新羅が共に朝貢に来た。誉田別命は、先王の望んでおられた国の人々がやってきたことを喜んだ。
新羅の貢物に比べて百済の貢物が劣っていた。新羅が百済の貢物を奪ったためであった。新羅を討つことを決意。
48 368
49 369 荒田別、鹿我別を以て將軍とす。則ち久氏一等と共に兵を勒へて度りて、卓淳國に至りて、新羅を襲撃。
加羅国をはじめとする7カ国を平定し、南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼして百済に与えた。
百済王肖古と皇子の貴須は兵を率い、4つの邑を降伏させ、荒田別、鹿我別の軍と合流し百済国に行く。
50 370 荒田別等、百濟より戻る。
51 371 百濟の王、久氏一を遣して朝貢。千熊長彦を百済国に派遣す。
52 372 久氏一等は千熊長彦、に従ってやってきた。七枝刀をはじめとする種々の重宝を奉った。
53 373
54 374
55 375 百濟の肖古王薨(百済本紀375年)
56 376 百濟の王子貴須、立ちて王と爲る(百済本紀376年)
57 377
58 378
59 389
60 380
61 381
62 382 新羅が朝貢しなかった。即年、襲津彦を遣して新羅を撃たせた。

年代の整合、:神功皇后55は375年

百濟の肖古王薨(神功55) 7月高句麗が攻めてきて水谷城を陥落させたので、将兵を派遣してこれを防いだが勝てなかった。
百済本紀
第14代百済王近仇首即位(375)
高句麗本紀
7月百済の水谷城を攻めた(375)