籠神社
天橋立の北側、宮津市字大垣に丹後一ノ宮の籠(この)神社が鎮座する。
この延喜式内の名神大社には、代々海部(あまべ)氏が祠官(祝部)として奉仕してきており、天火明命を始祖として現宮司海部光彦氏はその第八十二代にあたると伝える。
同家には古代から伝来の「海部氏系図」(首題に「籠名神(このみょうじん)社祝部氏係図」とあり、別名「海部氏本系帳」という)一巻があり、附(つけたり)の「海部氏勘注系図」(「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記」、別名「丹波国造本記」といい、こちらは江戸時代の筆写とみられている。以下は簡略に「勘注系図」という)一巻とともに、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
籠名神宮祝部氏系図(海部氏本系図)
京都府宮津市は丹後国一宮である籠神社(このじんじゃ)の宮司家、「海部氏」(あまべし)の所蔵するもので、現在、国宝に指定されている。
この系図は、『籠名神社祝部氏系図』(『本系図』)と、『籠名神宮祝部丹波国海部直等氏之本記』(『勘注系図』)の二つから成っている。
六世孫建田勢命
彦火明命六世孫に建田勢命(たけだせのみこと)という人物が登場する。『先代旧事本紀』尾張氏系譜では建田背命と表記される。
『勘注系図』では建田勢命は笠津彦命の子とするが、注記には建登米(たけとめ)之子という記述がある。
建登米の子であれば『先代旧事本紀』尾張氏系譜と同じである。
建田勢命は笠津彦命の後に続く、丹波の支配者であるが、笠津彦命の子ではなく、建斗米命(建登米)の子である。
『勘注系図』はその注記で次のように記す。
「大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國」
建田勢命は最初丹波の宰(みこともち)となる。その後山城久世水主村(やましろくぜみずしむら)に移り、さらにその後大和に戻ったとする。建田勢命が大和王権の命を受けて丹波支配を行ったのである。
建田勢命が丹波支配の府を置いたとされる場所は、京丹後市久美浜町海士である。そこには建田勢命の館跡とされる伝承地がある。またその近くの矢田神社は建田勢命とその子供建諸隅を祀る。
その後山城久世に移り住む。久世とは、現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という古い神社がある。祭神を彦火明命として、以下尾張氏の人物が祀られる。このあたりが建田勢命が移り住んだ場所であろうか。
先代旧事本記
『勘注系図』を読み解く上で最も参考になる系譜がある。『先代旧事本紀』巻五が伝える、尾張氏系譜である。『勘注系図』の前半部分は尾張氏系譜と極めてよく似る。
愛知県を支配地とする尾張氏は、もとは葛城高尾張(奈良県御所市)の出である。この葛城に居た尾張氏が、丹波の支配者であった時代がある。そのため丹波の支配者の系図の中に尾張氏の当主が登場する。したがって『勘注系図』の前半部分は『先代旧事本紀』の尾張氏系譜と、部分的に同じ系譜を伝える。
『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、五世孫建斗米には七人の子がある。
建田背(たけだせ)命、建宇那比(たけうなび)命、建多乎利(たけたおり)命、建彌阿久良(たけみあくら)命、建麻利尼(たけまりね)命、建手和邇(たけたわに)命、宇那比姫(うなびひめ)命である。
『勘注系図』にはこの内、建田勢命(建田背命)、建田小利命(建多乎利命)、宇那比姫命の三人のみを記す。
だが『先代旧事本紀』を見れば、建田背命を長男とする七人兄妹の、一番下の妹であることが解る。
九代開化天皇の妃になった竹野媛(たかのひめ)とよばる女性である。『古事記』によれば、竹野比賣を旦波の大縣主、名由碁理の女(むすめ)とする。
『勘注系図』は竹野媛の父親、由碁理を建諸隅命とするのである。
開化の妃になった竹野姫が、丹波の大縣主由碁理の娘であるということは、『古事記』が伝えるところである。
だとすれば丹波の支配者の系譜に、由碁理が登場したとしても不思議はない。
またこの建諸隅命は開化に仕えたとするから、開化時代の人である。
建諸隅のまたの名を竹野別といい、後に竹野が郡(こおり)の名前になったとする。
和名抄に記載される竹野郡(たかのこおり)は、現在の京丹後市網野町、弥栄町、丹後町あたりでその中心は丹後町とされる。由碁理が国府を置いたと言う伝承を持つ。
八世孫に日本得魂(やまとえたま)命という人物が登場する。『先代旧事本紀』尾張氏系譜では倭得魂彦(やまとえたまひこ)命と表記する。
日本得魂命は建諸隅命すなわち由碁理の子供である。
妹は大倭姫命亦の名を天豊姫命とする。
『魏志』倭人伝に記される十三才で倭国の女王に擁立された「台与」????。さらに竹野姫命とも呼ばれ、九代開化の妃に成った人物でもある。
『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、日本得魂命の妻は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)と、伊賀臣(いがのおみ)の先祖の大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻とする。
倭得玉命の妻の一人谷上刀婢は淡海の出である。
滋賀県野洲市の三上氏が祀る御上神社の祭神は天御影である。『勘注系図』によれば、三世孫倭宿禰の亦の名が天御陰命である。
また二人目の妻と関係するのは三重県伊賀市西高倉の高倉神社である。高倉神社御由緒によると、祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)である。高倉下命は神武天皇東征の功神で、その七代の孫、倭得玉彦命が祖神である高倉下命を祀ったとされる。
『勘注系図』
十三世まで
建稲種命(たけいなだねのみこと)
日本の古墳時代の人物。建稲種公(たけいなだねのきみ)とも称す。父は尾張国造乎止与命(オトヨ)、母は眞敷刀婢命(マシキトベ、尾張大印岐の女)で、宮簀媛は妹。妃玉姫(丹羽氏の祖大荒田命(オオアラタノミコト)の女)との間に二男四女。息子尻綱根命(シリツナネノミコト)は、応神天皇の大臣。その下の娘志理都紀斗売は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、品陀真若王の母。更にその下の娘金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)は品陀真若王の妃で、応神天皇の皇后仲姫命及び2人の妃の母。
景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮・内々神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られている。
十四世孫とする川上眞稚以降、再び丹波の支配者の系譜に戻る。
疑問箇所
(彦火明命が天押穂耳尊の第三子とするのは疑問である。火明命については、物部氏系統では同尊の長子と伝え(『古事記』も同様)、また瓊瓊杵尊の子とする伝(『日本書紀』の本文、一書)もあるが、本系図のような記述は他見にない。
彦火明命が尾張連の祖と伝える火明命と同神としても、その三世孫に倭宿祢命という名は他書に見えない。勘注系図等に天忍人命の別名とするのも疑問である。海部氏が尾張連支流という系譜を唱えるのなら、肝腎の尾張連の始祖高倉下(天香語山命)を書き込まない本系図はどこに意味があるのだろうか。
応神朝の健振熊宿祢から天武・持統朝ごろの伍佰道祝までの世代数が少なすぎる。大多数の古代氏族の系図では応神朝の者から天武朝の者まで十世代ほどあるが、本系図では七世代しかない。健振熊宿祢と海部直都比との間の一字が世代の省略を意味するのだとしても、祠官家では稲種命と伝えるというのみである。