高尾山
鐸比古は和気清麻呂の祖、垂仁11の皇子鐸石別命(沼滞別命)の末裔といわれる。往古は鐸比古命は高尾山頂に祭祀されており、鐸比売命は高尾山頂の東山腹に祭祀されており比売御前と云われていた。両社とも、いくたびか移動したが、延宝,元禄の頃、現在の地に遷座と伝えられる。
鐸の字のように金偏の字をもつ氏族集団は金属関係の技術をもつ氏族集団で 生駒信貴山地では、鉱脈があるとは、思われないので、金属を加工する鋳造などの技術をもった集団の神社であったと考えられる、この近くの大県遺跡で古墳時代から奈良時代にかけての遺跡で鍛冶炉あと、鉄くずなどが見つかっているので金属関係の技術をもつ氏族集団が住んでいたことの証拠がみつかっている。
金属加工、丹南の鋳物師
わが国の鋳物師の歴史は石凝姥命(いしごりどめのみこと)の末裔の鍋子麿が丹南の地に住み鍋・釜を鋳造したのが始まりという神話がある。
柏原市の高尾山山麓の河内国大県郡で、丹南郡の遺跡に一時代先立つ時代の古墳時代から奈良時代の遺跡で鍛冶炉あと、鉄くずなどが見つかっているので、ここの集団が丹南郡に移動してきたのか?
松原市域の南部は、昔は河内国丹南郡と呼ばれる時期があり、この地、 岡・立部・丹南から美原町および堺市東部のあたりは、丹南鋳物師とよばれた職人集団の居住地として有名です。
丹南鋳物師は、平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて、全国に出向いて梵鐘を鋳造し、鍋・釜・鍬・鋤などの製品を作り、売り歩いていました。彼らの足跡は、全国に残る「大工河内国丹南郡」などと記された梵鐘銘によってよく知られています。
室町時代に入ると丹南鋳物師に凋落の兆しが見え、この時代になると各地で新興都市が勃興その地に移住したものと思われる、全国の主な鋳物生産地の発祥をたどると、その大部分が丹南出身の鋳物師が始祖となっている、近くの堺、鉄砲鍛冶も丹南鋳物師がルーツである
鐸比古鐸比賣神社(柏原市・大県)
恩智川を越えて、東高野街道との大県交差点(おおがた)を、ほんの少し北へ行けば鳥居があります
祭神:鐸比古命、鐸比売命
延喜式神名帳には、
河内国・大県郡・鐸比古神社及び河内国・大県郡・鐸比売神社と別々に記載される式内社です。
鐸比古鐸比賣神社は大県郡の氏神で、背後にそびえる高尾山を神南備としています。
もともとは鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていたが、中世には現在の地に遷されたと伝えられます。現在の高尾山の頂上には巨大な磐座があります。
社伝によると創建は第13代成務天皇の時代とあります。
成務天皇は影の薄い天皇ですが、景行天皇の子で、日本武尊より12歳下の義理の弟です。
祭神の鐸比古は垂仁天皇と渟葉田瓊入媛(ぬはた・にいりひめ)の子であり、日本書記に記される鐸石別(ぬてしわけ)のことです。
垂仁天皇の皇后である狭穂姫が兄狭穂彦の謀反に加担して自殺する時に,丹波道主の娘を妃にするよう進言しました。
鐸石別の母・渟葉田瓊入媛は、その丹波道主の娘です。
このとき丹波道主は5人の娘を全て垂仁天皇に贈りますが、渟葉田瓊入媛は第二妃として鐸石別(ぬて・しわけ),胆香足姫(いかたらし)の2児を産みました。
垂仁に贈った5人の娘とは、
日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛です。
日葉酢媛(ひばす)は後皇后となり景行天皇や倭姫命らを産んでいます。
鐸石別の曾孫に弟彦王がおり、
神功皇后の三韓征伐凱旋帰国時に忍熊王の反逆を播磨で鎮圧しました。
弟彦王はこの勲功によって、その地を賜り、和気氏として備前・美作を根拠地として栄えます。その後裔には道鏡の野望を砕いた和気清麻呂を輩出しています。
和気神社 岡山県和気郡和気町藤野1385
和気郡(和気町)には和気神社がある。 現在の祭神は鐸石別命・弟彦王・和気清麻呂としている。鐸石別命は垂仁天皇の子, 弟彦王はその三世孫で備前・播磨の国境エリアで活躍, その功で藤原(後に藤野に改める)の県主になったという。何世かの後,佐波良-波伎豆-宿奈-乎麻呂-清麻呂となる。(日本後紀の「清麻呂薨伝」による)弟彦王の説話は置くとしても,和気氏が中央と九州(筑紫や豊の国)を結ぶルート上, 瀬戸内海に面した備前東部を本貫地として, 美作及び播磨西部を勢力範囲としていたと推測される。
御祭神
鐸石別命
第11代垂仁天皇の皇子で和気氏の始祖。
弟彦王
鐸石別命の曾孫で神功皇后の三韓征伐の際、反乱をおこした忍熊王を和気関で平定し藤野県(現岡山県和気郡)を与えられ土着した。
佐波良命・伎波豆命・宿奈命・乎麻呂命
和気氏の先祖で備前美作両国の国造。国造神社として別に祀られていたが、のちに合祀された。
由緒・御祭神 和気清麻呂公・和気広虫姫
古くは和気氏一族の氏神として遠祖 鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、和気神と称せられていた。 第11代垂仁天皇の皇子 鐸石別命の曾孫である弟彦王は、神功皇后に反逆した忍熊王(おしくまおう)を和気関に滅ぼした功により、藤原県を与えられ土着した。
和気清麻呂
天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれる。奈良の都に武官として出仕、近衛将監となる。
神護景雲3年、僧道鏡が皇位を望むとき、宇佐八幡宮(現宇佐神宮)に勅使として詣で、神託を受け復奏、その野望を阻み国家の危機を救った。
その後、桓武天皇の信頼を得て、摂津大夫・民部卿として長岡京の造営、摂津・河内両国の治水工事に当たった。
延暦13年(794)和気清麻呂公の建言により平安京に遷都。造営大夫として新京の建設に尽力した。
また、和気清麻呂公は、備前美作両国の国造を兼ね、延暦7年、和気郡の河西に新しく磐梨郡(現赤磐市)を独立させ、農民の便宜をはかった。
日本後紀には「人と為り高直にして、匪躬の節あり」「故郷を顧念して彼の窮民を憐れみ、忘るることあたはず」と称えられている。延暦18年(799)に67歳で没した。
霧島市牧園町の和気神社
天皇になる野望をくじかれた道鏡は激怒し、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させ、大隅国へ流罪とした。その流罪先は長年不明であったが、幕末期に島津斉彬が調査を行ってその地を確定し、記念の松を植えた。のち昭和21年(1946年)に当地に和気神社が建てられた。なお、称徳天皇崩御後に道鏡は失脚。光仁天皇により清麻呂は復権し、その後民政に尽力した。幕末期の嘉永4年(1851年)、孝明天皇は、和気清麻呂を「天皇家を守った勤王の臣」と称え、正一位および「護王大明神」の神号を授与している。
高尾明神
一書によれば鐸石別命は河内国大県郡高尾山に葬られ, 鐸彦神社が創始されたという。これを弟彦王が備前国神村山に遷座し、「高尾明神」として創建したとされる。 河内の高尾山は鷹尾山とも書き, 鷹巣山とも言う。また, 鐸彦神社は金属技術集団の斎祭した神と述べたように, この高尾山麓には秦氏系の金知識衆の巨大なコロニーがあった。 聖武天皇がこの地の知識寺(彼らの氏寺)を訪れたとき, 鋳造された燦然たる盧舎那仏を拝し「朕も造り奉らむ」と思った。 これが大仏造立国家プロジェクトのスタートとなったのである。
宇佐神宮庁発行の冊子によれば,神社の前身に「鷹居社」の名が見える。また一書に八幡神が「鷹に成り化して示現した」とも書かれる。託宣集その五には「‥‥宇佐郡菱形池の辺,小倉山の麓に鍛治翁あり。奇異の瑞相を帯ぶ。‥‥金色の鷹林上にあるを見る‥‥」などとある。
鉄の発見:別部(ワケベ)の犬
「別部(ワケベ)の犬」という人物が, 吉備と播磨国境で鉄を発見したとの記事が古書に残る。 石(磐)から分かちて成(ナ)るものと言えば, 銅や鉄などの金属であろうし, これを氏(血族ないしは職業集団)の名とするからには, 鉱石(物)の採集・精錬ないしは鋳造・加工といった金属技術を保持する集団であったことは間違いないところだろう。和気氏のホーム・ランドは吉備(分国後は備前)の播磨国境に近い位置-現在の岡山県和気郡・赤磐郡一帯と考えられている。和気郡の前身は藤野郡(和気氏の別姓と一致)といい, 現在も同郡内に藤野の地名が残る。 また赤磐(アカイワ)は古くは磐梨郡・赤坂郡域であり, イワナシの名は明治のころまで残っていた。 郡の統合により「磐梨」は一旦は消滅するが, しぶとく最近統合した中学校の名前として復活を果たした。
石凝姥命 いしこりどめのみこと 別名 伊斯許理度売命、石凝戸辺
- 鏡作りの神。鏡作の遠祖・天糠戸の御子。
『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、 鍛人天津麻羅を求ぎて伊斯計理度売命に鏡を作らせたとある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと考え、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけた矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。
また他の一書には、鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を作らしめとあり、 さらに別の一書には、鏡作の遠祖・天抜戸(=天糠戸)の子・石凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖である天糠戸の御子であることがわかる。
天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
鏡の出土品
高尾山周辺は、弥生土器や石器が採集されることから、弥生時代の高地性集落であった言われます。大正14年には、山頂から少し下った標高200mのところから、ぶどう畑の開墾中に多紐細文鏡が見つかっています。この鏡は古墳から見つかる中国鏡とはまったく異なり、朝鮮半島の青銅器時代に盛行した鏡で、日本ではわずか8面しか出土していない貴重な鏡です。鏡の背面の6つの重圏内に三角文・斜格子文・市松文が施され、細かい斜線でうめられた珍しい鏡です。
『日本書紀』の岩戸隠れの段
第一の一書には以下の記述がある。
「故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也」
- 即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あめのはぶき(鹿の革で作ったふいご))に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり
日前・國懸神宮の社伝では、日矛とは矛ではなく日矛鏡という名の鏡であるとし、三種の神器の一つである八咫鏡(伊勢神宮の御神体として奉斎されているとされる)に先立って造られた「日像鏡」と「日矛鏡」の二枚の鏡の一枚と伝えている。つまり、天照大御神の御姿を型取った日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)の次に作ったのが、八咫鏡であるという内容である。
『延喜式神名帳』にある鏡作麻気神社、鏡作伊多神社については同じく社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」とみえる。
-『神社辞典』ー
和気氏人物
鐸石別命(ぬでしわけのみこと)
①父:11垂仁天皇 母:渟葉田瓊媛<丹波道主<彦坐王
②妹:胆香足姫 子供:稚鐸石別命 別名:沼帯別(記)・吉備石旡別
③和気神社祭神。和気神。和気氏始祖。河内国大県郡高尾山に葬られた。鐸彦神社創始。金属技術集団(秦氏などの渡来人)が奉斉した神。
稚鐸石別
①父:鐸石別命 母:不明
②子供:田守別
③吉備磐梨別君姓を賜ったとされる。
田守別
①父:稚鐸石別 母:不明
②子供:弟彦王 別名:健真別王
弟彦王
①父:田守別 母:不明
②子供:麻己目王 別名:建結別王
③神功皇后の新羅遠征に従軍。凱旋した翌年に忍熊王の反乱が興った。
皇后は弟彦王に命じて播磨と吉備の境に関(現在:備前市三石)を設けて防がし、反乱は鎮圧された。この勲功により、藤原県に封じられた。(日本後紀)これが現在の和気町である。以後この地に土着。新撰姓氏録には上記記事の他に吉備磐梨県を賜るとある。和気神社配神。
麻己目王
①父:弟彦王 母:不明
②子供:意富己目王 別名:依国別王
意富己目王
①父:麻己目王 母:不明
②子供:伊比遅別王
③異説:始めて吉備磐梨君姓を賜る。
伊比遅別王
伊大比別王
①父:伊比遅別王 母:不明
②子供:萬子 別名:伊比太別王
萬子
①父:伊大比別王 母:不明
②子供:古麻佐 別名:萬侶
古麻佐
①父:萬子 母:不明
②子供:佐波良
③難波朝(孝徳天皇?)廷立藤原長舎。
佐波良(さわら)
①父:古麻佐 母:不明
②子供:伎波豆
③美作・備前両国国造となる。和気神社配神。佐波良神社
伎波豆(きはず)
①父:佐波良 母:不明
②子供:宿奈
③美作・備前両国国造 和気神社配神。
宿奈(すくな)
①父:伎波豆 母:不明
②子供:和気乎麿
③美作・備前両国国造 和気神社配神。
和気乎麿
①父:宿奈 母:不明
②子供:和気清麻呂 広虫 別名:平麿 藤野別乎麿・吉備藤野和気乎麿
③美作・備前両国国造 和気神社配神。
・広虫(730-799)
①父:藤野別乎麿 母:不明
②夫:葛木戸主 弟:清麻呂
769年称徳天皇は、道鏡を皇位に就かせるために夢告に従い、宇佐八幡宮への使いを法均に命じる。体力的な理由により弟の清麻呂を宇佐へ行かせることを推挙。これが認められた。清麻呂の報告は「君臣の秩序を重んじ、皇位には皇統から選び就けて、無道の人を除去せよ」であった。この報告は称徳天皇・道鏡の逆鱗に触れ、清麻呂・法均姉弟は官職など剥奪され、法均は名前を「別部狭虫売」と改名され、還俗させられ、備後国御調郡八幡村宮内(明確ではない)に流される。(宇佐八幡宮神託事件)
・桓武天皇「法均が他の人間の過ちを非難することを聞いたことがない」
・護王神社祭神
和気清麻呂(733-799)
①父:藤野別乎麿 母:不明
②子供:広世・達男・仲世・真綱・女(藤原葛野麿室)6男3女。 姉:広虫
③備前国藤野郡(現岡山県和気町)出身。713年備前国が分割され美作国が誕生。