高句麗/高麗

多くの高句麗伝に
「高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、濊貊、東に沃沮、北に扶余と接している」とある。

『三国志魏書』高句麗伝
 順帝と桓帝の間(125年-167年)、度々遼東を侵犯し、新安や居郷で略奪し、また西安平を攻め、途中で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を拉致した。
 霊帝建寧二年(169年)、玄菟太守耿臨がこれを討つ、斬首数百級、ついに伯固は降伏し、遼東に服属した。
 熹平年間(172年-177年)、伯固は玄菟郡への帰属を乞うた。
 公孫度が海東に勇を馳せると、伯固は大加の優居や主簿の然人らを派遣し、公孫度が富山の賊を撃つのを支援して、これを破った。
 伯固が死に、二人の子がいた、長子は拔奇、次男は伊夷模。拔奇が不肖だったので、国人は便宜的に伊夷模を王に共立した。
 伯固の時代には何度も遼東に侵攻し、滅ぼした胡族の五百余家を収容してもいた。
 建安年間(196年-220年)、公孫康が軍を出してこれを撃つ、その国を破り、邑落を焼き払った。拔奇は兄にして擁立されなかったことを怨みとし、涓奴部の三万余の民を引き連れて公孫康に帰服し、沸流水(冨尔江)に戻った。降ってきた胡族も伊夷模に叛いたので、伊夷模は新たに国を立てた。今の所在地がこれである。拔奇は(公孫康に従い)遼東に往ったが、子を句麗国に留めた。今の古雛加の駮位居のことである。その後、再び伊夷模が玄菟郡を襲ったが、玄菟郡と遼東郡の軍が共同で出撃し、これを大破した。

 景初二年(238年)、太尉の司馬王が軍団を率いて公孫淵を討ち、宮は主簿大加を派遣して、数千人を率いて援軍とした。
 正始三年(242年)、宮が西安平県に侵攻したが、その五年(244年)、幽州刺吏の母丘倹(かんきゅうけん)に全滅させられた。この話は倹伝にあり。

『魏書』高句麗伝
 魏の正始年間(240年-249年)、遼東の西安平県に侵攻したが、幽州刺史の毋丘倹に撃破された。その玄孫の乙弗利、利の子の釗、烈帝時に慕容氏に相次いで攻撃された。
 建国四年(342年)、慕容元真(慕容皝、前燕の太祖)が大軍を率いてこれを討伐、南陝より入り、木底で戦い、釗の軍を大破すると、勝に乗じて長駆し、遂に丸都に侵入すると、釗は単騎で逃走した。元真が釗の父の墓を掘り返して屍を取り出し、併せてその母と妻、珍宝、男女五万余を掠取し、その宮室を焼き、丸都城を破壊して帰還した。
 その後、釗の遣使が来朝したが、仇敵が間を隔ており、自立はできなかった。釗は後に(371年)百済に殺された。
 世祖(太武帝、在位423-452年)の時代、釗の曾孫の璉(高璉=長寿王)が初めて使者の安東を派遣し、奉を表して方物を貢献、并わせて国の諱(いみな)を請うた。世祖は、その誠意と律儀を嘉とし、その国に帝系の名諱を授けるよう詔を発し、員外散騎侍郎の李敖を遣わして璉に都督遼海諸軍事、征東将軍、領護東夷中郎将、遼東郡開国公、高句麗王の称号を拝受させた。

『梁書』高句麗伝
 晋の永嘉の乱(307年-313年)、鮮卑族の慕容廆は昌黎県の大棘城を任され、元帝は平州刺史に授けた。高句麗王の乙弗利は頻繁に遼東を侵略したが、廆には制することができなかった。
 弗利が死に、子の釗が代わって立った。
 康帝の建元元年(315年)、慕容廆の子の晃が兵を率いてこれを討伐。釗は戦うも大敗し、単騎で奔走。晃は勝ちに乗じて丸都まで追走し、その王宮を焼き、男子五万余人を掠め取って連れ帰る。「この記事は咸康八年(342年)の誤記と思われる」
 孝武帝の太元十年(324年)、高句麗が遼東と玄菟郡を攻める。後燕の慕容垂は弟の農を派遣して高句麗を成敗し、二郡を復旧した。
 垂が死に、子の宝が立つ。
 高句麗王の安を平州牧に任じ、遼東、帯方の二国王に
封じた。安は初めには長史、司馬、参軍官を置き、後に遼東郡を占領した。
 孫の高璉に至り、晋の安帝の義煕年間(405年-418年)、初めて奉を表して通貢し、歴代の宋と斉から爵位を授けられ、百余歳にして死んだ。
 子の雲は、斉の隆昌(494年)に使持節、散騎常侍、都督營平二州、征東大将軍、楽浪公になる。高祖が即位すると、雲車騎大将軍に進んだ。
 天監七年(508年)の詔には「高驪王楽浪郡公雲、著しく寛大で誠意があり、遠方から(次々と駅舎を捜し求めて)朝貢し、宜隆秩命、式弘朝典なり。撫東大将軍、開府儀同三司、持節、常侍、都督、王を併せて旧来の通りとする」。
 十一年、十五年にも遣使が貢献。

高句麗(紀元前37年 – 668年)20140715-212103-76863418.jpg