『日本書紀』
「雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の汶洲王に下賜して国の復興をさせた」、と記している。
これは西の百済か?ひとつの百済となった。
雄略紀二十年(475年)、
高句麗の大攻勢によって首都慰礼城が陥落し、百済王一族が戦死、処刑されて百済が滅亡した記事となる。
倭国との関連を記述している。
百済を滅ぼした高句麗は百済が再生しないように、王の一族を根絶やしにしようという意見があったが、百済は「倭国の官家(かんけ)」で王子を人質に出しているので、これ以上百済を駆逐するのはやめようということとなった。
翌年、倭国天皇は首都を失った百済汶洲王に、首都となる土地として久麻那利(こむなり)を与えて、「其の国を救ひ興す。」と記されている。
倭の五王の宋に対する上表文でも
何度も百済を勢力下に置いた将軍を称するよう懇願している。
蓋鹵王が王位についたとき、文周は上佐平(百済の官位のひとつ。1等官の上に立つ宰相に相当)として蓋鹵王を補佐するようになった。高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際、蓋鹵王の命で文周は新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王紀では木劦満致らとともに南方に逃れており)、10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。
文周王(ぶんしゅうおう、477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。
諱・諡は伝わらない。
『三国史記』百済本紀・文周王紀の分注や『日本書紀』には汶洲王、『三国遺事』王暦には文明王という別名も見られる。
昆支王と武寧王
雄略紀5年(461年)条 加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君(コニキシ)=昆支に、「お前は、日本に入って天皇に仕えまつれ」というと、軍君は、「上君の命令に背くことはできません。願わくは、上君の女性を賜った後に私を派遣してください」と答えた。
加須利君は妊娠中の女性を軍君の妻として与え、「私の妊娠した女性は、既に産月に当たっている。もし途中で産んだら、どうか母子を同じ船に乗せて、行った先が何処であっても、速く国に送り帰してくれ」と言った。
そして加須利君は軍君と別れの挨拶をして、日本の朝廷に軍君を遣わした。
6月1日に、軍君の妊娠した妻が、加須利君の言葉のように、筑紫の各羅嶋(カカラノシマ)で出産した。
そこで、この児を嶋君(セマキシ)と名づけた。軍君は、母子を同じ船に乗せて、国に送り返した。これが武寧王である。
隅田(すだ)八幡宮(和歌山県北部)の人物画像鏡の銘文に「男弟王」と書かれている。この銘文にみえる「日+大王」は?
「応神」から「継体」へ
隅田八幡神社所蔵人物画像鏡銘文
この鏡は「日十大王」=昆支大王在世中の503年に、百済の斯麻王(武寧王)が倭の「男弟王」に献呈?。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
鏡の贈り先「男弟王」が誰を指すかについては、昆支と考える。
銘文の意味は次のようにとることができる。
癸未年八月、日十大王の治世中、男弟王(昆支)が意柴沙加宮に在る時、斯麻は男弟王の長寿を念じて、開中費直と穢人今州利の二人を遣わし、白い上質の銅二百旱を使い、この鏡を作らせたものである。
ちなみに、斯麻王から鏡作りを仰せつかった二人の官人と見られる人物の読みは難しいが、はじめの「開中費直」は「河内直」と考えられる。河内直は、前述したように、昆支大王の支持基盤であった河内閥の実力者で河内地方の百済系豪族であるが、河内直は百済との外交も担っていたらしく、後代の欽明紀にも一種の外交官として登場する。二人目の「穢人今州利」とは、高句麗に併合された東ワイ出自の百済系官人であろう。
銘文を上述のように読解した場合、男弟王=昆支大王の直接の継承者と解してよいことになる。
昆支は461年に来日したことが『日本書紀』によって記されており、『書紀』では帰国したという事実は書きこまれてはいません
斯麻(のちの百済王=武寧王)は百済王子・昆支の息子であって、461年の日本生まれ(北九州の島)であり、そこから「嶋君」と命名された(『日本書紀』)ことなどは、ほぼ実証されています。昆支は兄の百済王から日本に行ってこいと言われて来日するのですが、兄の懐妊中の妻を譲り受けて来日します。その妻がその際に日本の島で出産したわけですね。
というのも発見された武寧王の墓には、「斯麻」という名があり、没年が書かれていて、そこから逆算すると、昆支来日記事(461年)と一年差しかなく(→つまり462年に武寧王は誕生していた!)、二つの史料が同一の事柄を示しているだけにほぼ実話だと考えられているからです。
さてその斯麻は、502年に百済王に即位しています。
『書紀』は継体天皇即位の経緯について、先帝で暴君であった武烈天皇に子がなかったことから、重臣らははじめ第14代仲哀天皇の五世孫に当たる人を天皇に立てようとしたが、この人を迎えに行ったところ逃亡し行方不明になってしまったため、当時越前三国に在住していた応神天皇の五世孫に当たる男大迹王に白羽の矢を立て、強く固辞されたのを三顧の礼をもってようやく天皇に迎えたと記している
石渡信一郎は隅田八幡鏡の「癸未年日十大王時」の「癸未年」を503年とし、「日十大王」を『宋書』「倭国伝」に記録されている倭の五王「讃・珍・済・興・武」の倭王済に461年に婿入りした百済蓋鹵王の弟昆支(余昆)=倭王武としました。
当時、倭王済(「記紀」に尾張連草加)は大和川と石川の合流地点(誉田陵=応神陵を中心とする古市古墳群の東端)を本拠としていました。その後、倭王武=昆支は倭王興(倭王済の子、武の義兄)の後を継ぎ倭国王となりました。そして宋の昇明2年(478)5月、宋の皇帝順帝に高句麗戦に備えて援助を要請する「上表文」を送ります。479年倭王武(昆支)は斉の武帝から鎮東大将軍に勧められ、491年昆支(倭王武)は東加羅大王=「日十大王」として百済系ヤマト王朝を立てました。
この「東加羅」は崇神を始祖王とする垂仁・倭の五王「讃・珍・済・興・武」の崇神王朝(三輪王朝)の「南加羅」に対応する王朝名で「ソカ」とも「アスカ(ラ)」とも呼ばれます。「蘇我氏」の「ソカ」も、「日本」という国名も「日十」=「日下(日のもと)」(東の意味)が好字に変化したものです。古代朝鮮語では「東」は「ソ」と読まれているからです。
506年に亡くなった倭王武=昆支が誉田(ほむた)陵(伝応神陵)に葬られたときには、すでに今の橿原神宮の南一帯の地に都が定められていました。ちなみに「誉田陵」の「誉田(ホムタ)」は昆支の「コムキ」が転訛した地名です。つまり「誉田陵」は「昆支の御陵」という意味です。
したがって百済武寧王が鏡(隅田八幡鏡)を男弟王(継体)に送った癸未年(503年)ときには、男弟王(継体)は次期皇位継承者(皇太子、左賢王)として意柴沙加宮(忍坂宮、現在の奈良県桜井市)に住んでいたのです。