百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之。婢云:「有物状如雞子,來感於我,故有娠也。」王捨之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以為神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,為東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。歴十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌為上開府、帶方郡公、百濟王 。
其國東西四百五十里,南北九百餘里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。官有十六品:長曰左平〔1〕,次大率,次恩率,次德率,次杅率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皂帶;次固德,赤帶;次李德〔2〕,青帶;次對德以下,皆黄帶;次文督〔3〕,次武督,次佐軍,次振武,次剋虞,皆用白帶。其冠制並同,唯奈率以上飾以銀花。長史三年一交代。畿内為五部,部有五巷,士人居焉。五方各有方領一人,方佐貳之。方有十郡,郡有將。其人雜有新羅、高麗、倭等〔4〕,亦有中國人。其衣服與高麗略同。婦人不加粉黛,女辮髮垂後,已出嫁則分為兩道,盤於頭上。俗尚騎射,讀書史,能吏事,亦知醫藥、蓍龜、占相之術。以兩手據地為敬。有僧尼,多寺塔。有鼓角、箜篌、箏、竽、箎、笛之樂,投壺、圍棋、樗蒲、握槊、弄珠之戲。行宋元嘉暦,以建寅月為歳首。國中大姓有八族,沙氏、燕氏、●氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、●氏〔5〕。婚娶之禮,略同於華。喪制如高麗。有五穀、牛、豬、雞,多不火食。厥田下濕,人皆山居。有巨栗。毎以四仲之月,王祭天及五帝之神。並其始祖仇台廟於國城,歳四祠之。國西南人島居者十五所,皆有城邑。
平陳之歳,有一戰船漂至海東●牟羅國,其船得還,經于百濟,昌資送之甚厚,并遣使奉表賀平陳。高祖善之,下詔曰:「百濟王既聞平陳,遠令奉表,往復至難,若逢風浪,便致傷損。百濟王心跡淳至,朕已委知。相去雖遠,事同言面,何必數遣使來相體悉。自今以後,不須年別入貢,朕亦不遣使往,王宜知之。」使者舞蹈而去 。
開皇十八年,昌使其長史王辯那來獻方物,屬興遼東之役,遣使奉表,請為軍導。帝下詔曰:「往歳為高麗不供職貢,無人臣禮,故命將討之。高元君臣恐懼,畏服歸罪,朕已赦之,不可致伐。」厚其使而遣之。高麗頗知其事,以兵侵掠其境 。
昌死,子餘宣立,死,子餘璋立。
大業三年,璋遣使者燕文進朝貢。其年,又遣使者王孝鄰入獻,請討高麗。煬帝許之,令覘高麗動靜。然璋内與高麗通和,挾詐以窺中國。七年,帝親征高麗,璋使其臣國智牟來請軍期。帝大悅,厚加賞錫,遣尚書起部郎席律詣百濟,與相知。明年,六軍渡遼,璋亦嚴兵於境,聲言助軍,實持兩端。尋與新羅有隙,毎相戰爭。十年,復遣使朝貢。後天下亂,使命遂絶。
其南海行三月,有●牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多獐鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。
〔1〕「左平」:通典185は、「左率」とする。
〔2〕「李德」:北史百済伝は、「季德」とする。
〔3〕「次對德以下皆黄帶次文督」:北史百済伝は、「皆黄帶」 は、「次文督」の下にある。
〔4〕「其人雜有新羅高麗倭等」:「倭」は、元は「俀」 とする。古くは、「委」と「妥」に従う字は、通用する時がある。例えば、「桵」を「●」とし、「緌」を「綏」とする。「俀」 は、「倭」字の別体に当たる。本書煬帝紀上では、「倭」とする。本巻と他の所は、「俀」とし、一律に「倭」に改める 。