阿部氏と越、粛慎

阿倍比羅夫
阿倍氏は河内の生駒山脈の麓から摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており、阿倍比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)の時代、一族は分立して「布施臣」と「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)と、それぞれ称していた。布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・布施御主人(みうし、後の「阿倍御主人」)(635-703)は大宝律令下で最初の右大臣に任命されている。引田臣を率いる阿倍比羅夫は、斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、7世紀中期の越国守であった。


景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされ、また継体天皇の妃に阿倍波延比売がいたといわれているが、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫(議政官)であった大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見である。大麻呂は大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ地位の重臣であったと言われている。推古天皇の時代には蘇我馬子の側近として麻呂が登場している。

大化の改新の新政権で左大臣となったのは、阿倍倉梯麻呂(内麻呂とも)であった。阿倍氏には『日本書紀』などでも外国への使者などに派遣される人物が多く、倉梯麻呂は家柄のみならずそれなりの見識を買われて新政権に参加した可能性が高い。また、倉梯麻呂の娘・小足媛は孝徳天皇の妃となって有間皇子を生んだとされており、またもう一人の娘・橘媛は天智天皇の妃になるなど、当時の阿倍氏の勢力が窺える。

その後、阿倍氏は一族が分立して「布施臣」・「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)などに分裂していった。だが、引田臣を率いる阿倍比羅夫が斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・御主人(635年 – 703年)は大宝律令下で最初の右大臣に任命された。その後、布施御主人は「阿倍朝臣」の姓をあたえられ、続いて引田朝臣でも比羅夫の息子達に対して同様の措置が取られた。遣唐使で留学生として唐に渡った仲麻呂は比羅夫の孫、船守の息子であると言われている。以後は主として御主人と比羅夫の末裔が「阿倍氏」と称することになった。だが、中納言で薨去した御主人の子・広庭(659年 – 732年)が死ぬと、藤原氏などの新興氏族に押されて低迷する。だが、藤原武智麻呂夫人(豊成・仲麻呂兄弟の生母)や藤原良継夫人古美奈などの有力者の夫人を出している。

古代の越の国は越前、越中、越後だけでなく東北地方の日本海側も含む広大な地域の総称であった。ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれている。
斉明7年(662)、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の水軍の将として半島へ遠征したが、663年、新羅と唐の連合軍に白村江の戦いで大敗した。この敗北により半島の足掛かりすべてが潰えた。しかし敗戦の責任を問われることはなく、後に北九州の大宰府の長官に任命される。
越国守の阿倍比羅夫は斉明天皇4年(658)から6年にかけて、越国内の兵士や柵戸(さくこ)・柵養(きこう)蝦夷を率いて、日本海沿いに3回遠征している。
大化のクーデターを成し遂げた改新政府は、中央集権化を促進するため、継体朝以来の「国奴」制度を解体し、新たな地方支配組織・国評制を施行する。それまで土着の有力豪族が任命され、「国奴」として世襲支配してきた「国」を細分化し、「評〔こおり〕」を設置した。「評」の役人として「評造〔こおりのみやつこ;ひょうぞう〕」「評督〔こおりのかみ;ひょうとく〕」「助督〔こおりのすけ;じょとく〕」などが置かれた。

慎粛討伐  
斉明6年に阿倍比羅夫は蝦夷地への本格的な進出を目指し、軍船2百艘を率いて、蝦夷地の先住民族の国・慎粛(あしはせ)の討伐を行う。 慎粛を建国した先住民は、元来中国の北方の沿海州付近に住んでいる民族で、アイヌ人の血流の一つといえる。この頃朝鮮半島では新羅・百済・高句麗の三国が覇を競い合っていた。 粛慎の国はこの高句麗の北にあったと考えられている。当時、唐は靺鞨(まっかつ)と呼んでいた。
2年前の斉明4年(658)に平定した齶田(飽田の別名)と渟代の蝦夷数名を水先案内にして大河の傍に至る。 軍船を停泊させていると、渡島蝦夷1,000人も屯集して、河に向かって宿営を始めた。やがて営の中から2人が川岸に現れて、粛慎の軍船が多数来て殺されそうだ、川を渡って仕えたいという。比羅夫は迎いの舟を差し向け二人を救った。彼らから粛慎軍が潜む位置と軍船の数、20隻余りとの情報を得ている。
比羅夫が渡島蝦夷と対陣した大河とは、江差町に近い上ノ国(かみにくに)町を流れる天の川か、更に北上して尾花岬(おばなみさき)を越した利別川(としべつがわ)か、定かではない。ただその後、弊賂弁嶋(へろべのしま;奥尻島)で慎粛と戦っているので、そのいずれかと考えられる。
比羅夫は、つれてきた蝦夷を介し、慎粛の軍に対して懐柔策を講じるが失敗する。比羅夫は慎粛軍の前に、絹や武器、鉄製品などを置いて相手の出方を探る。 粛慎側は長老格の老翁(おきな)か出てきて、それらの物を拾い上げ、一時は和睦が 成立したかとおもわれたが、しばらくしてその物が元の所に返された。 これは互いの言葉が通じない相手に対する一つの交渉方であって、それらを受け取り、 別の何かを返せば、親睦を表したことになる。しかし、今回は逆で 敵意を表明した。 それで、阿倍比羅夫軍と粛慎軍は戦争状態に突入した。
粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立て篭もり、臨戦態勢をとる。 この弊賂弁嶋は渡島の近くなので、奥尻島と比定できる。ここ至り、開戦は不可避、比羅夫は弊賂弁嶋の攻略を決意するが、比羅夫は「和(あまな)はむ と乞(まう)す」と降伏勧告をする。 これも決裂して、阿倍比羅夫軍は弊賂弁嶋の柵を攻撃、戦いは苛烈さを極め、能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)という将官が戦死するが、奥尻島の慎粛を降伏に追い込んだ。粛慎は敗れて自分の妻子を殺して、降伏します。
比羅夫軍は粛慎の前線基地である弊賂弁嶋を攻略したにすぎない。 その一方で人的被害が増大したことや、比羅夫自身がその戦果に満足して兵を退いたので、当初予定していた後方羊蹄(しりへし)を橋頭堡にする本格的な進出という目的は達成されていない。その一方、斉明朝の改新政権は北方・中間文化圏の多種・蝦夷集団を服属させ、朝貢させるばかりか、その風俗・習慣についても詳細な記録を後世に残すという画期的成果をあげた。
百済援軍
同年に朝鮮半島の百済より援軍要請があり、比羅夫も軍船を率いて朝鮮半島に出兵した。3年後の天智2年(663)、白村江の戦いで、陸戦では唐・新羅の軍に、倭国・百済の軍は破れ、海戦では、白村江に集結した1,000隻余りの倭船の中で400隻余りが炎上するという大敗北に遭う。この戦だけで兵士1万余りが半島で消失している。その損失は大きく、また唐・新羅の軍の侵攻も予想され、慎粛討伐どころではなくなっていた。
阿倍比羅夫の遠征以降も蝦夷の反抗は続く。

大和朝廷が陸奥経営に本格的に動き出すのは奈良時代の始めである。この時代は藤原不比等の主導の下、大宝律令の整備など律令国家の体制が確立した時代である。元明天皇の和銅2年(709)に巨勢朝臣麻呂を鎮東将軍に任命される。養老4年(720)に按察使・上毛野広人が陸奥柵(仙台・長町付近)で殺される事件が起る。神亀元年(724)に東北経営の拠点として、按察使兼鎮守将軍・大野東人により多賀柵(城)と出羽柵が造営され、前線基地として天平宝字2年(758)に桃生城と雄勝柵が造営される。神護景雲元年(767)に伊冶(いじ;これはり)城が造営される。

多賀城碑
宮城県多賀城市大字市川にある古碑であり、国の重要文化財に指定されている。書道史の上から、那須国造碑、多胡碑(たごひ;群馬県多野郡吉井町池字御門)と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。これまでその碑文の内容が、余りにも重大且つ意外な内容のため、偽作とされてきたが、近年の科学調査により、天平宝字6年(762)に建てられた真作と確定した。
実際の碑文は縦書きである。
去京一千五百里(京を去ること一千五百里)
多賀城
去蝦夷国界一百廿里(蝦夷国の界を去ること一百二十里)
去常陸国界四百十二里(常陸国の界を去ること四百十二里)
去下野国界二百七十四里(下野国の界を去ること二百七十四里)
去靺鞨国界三千里(靺鞨国の界を去ること三千里)
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将(按察使【あんさつし】;陸奥・出羽両国の上級行政監督官)
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置(鎮守府将軍;陸奥軍政府の長官)
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山(陸奥守であり参議)
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守(節度使【せつどし】;東海・東山道の臨時の軍政官)
府将軍藤原恵美朝臣朝?修造也
      天平宝字六年十二月一日
当時政治の実権を握っていた藤原仲麻呂の子・藤原恵美朝臣朝?(ふじわらのえみのあそんあさかり)が、大陸の渤海国に属していた靺鞨を、ことさら意識しているのはなぜか?比羅夫が接触した粛慎に、他の蝦夷とは違う文化と習俗が見られ、その特異性があった。しかし、靺鞨国と渤海国を混同してはいない。神亀4年(727)以降、渤海国は来朝している。しかも多賀城碑が建てられる天平宝字年間(757~765)に来朝していた使節を「高麗使」と呼んでいた。当時の日本は渤海国を高麗国の後裔と理解していた。養老4年(720)、孝謙天皇は靺鞨国の風俗を観察する国覓使(くにまぎし)として、渡嶋津軽津司(わたりしまつがるのつのつかさ)と諸鞍男(もろのくらお)を北海道に派遣する。彼らは粛慎の民がすむ靺鞨国が北方に実在すると認識した。それで藤原朝?は多賀城から3千里、平城京から4千5百里のかなたの帝国・靺鞨国として碑文に刻んだ。

総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に高句麗遺民と共に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後に女真族となり金国、清国を建国した北の黒水靺鞨とに二分される。多賀城碑でいう靺鞨は、黒水靺鞨の支流で、樺太経由で氷上を渡るか、直接舟による北海道への渡海と考えられる。

668年の高句麗滅亡後、高句麗に与して唐に反抗した靺鞨の一部などとともに営州(遼寧省)に移させられた。
690年に唐で武則天が即位すると、内政が混乱を始める。696年、この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹の酋長松漠都督李尽忠が唐に叛旗をひるがえすと、それに乗じて高句麗遺民らは、部衆を率いる粟末靺鞨人指導者乞乞仲象(コルゴルジュンサン;きつきつ ちゅうしょう)の指揮の下に営州を脱出した。その後、乞乞仲象の息子大祚栄(テ・ジョヨン;だい そえい)が指導者となる。則天武后は、将軍李楷固((チョン・ボソク))をして大祚栄討伐軍を派遣するが、大祚栄は高句麗・靺鞨の部衆を合せて迎え撃ち、これを大破する。大祚栄は高句麗の故地に帰還、東牟山(トンモサン;吉林省延辺朝鮮族自治州【ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ】敦化市)に都城を築いた。渤海の都が後に上京竜泉府(現・黒竜江省牡丹江市)に移ると、東牟山の地は「旧国」と呼ばれるようになる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、満州東部に一大勢力を確立し、698年には自立して震国王と称す。
705年、武則天が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活すると、中宗は懐柔策をとり、同年、侍御史(じぎょし)張行岌(ちょうこうきゅう)を派遣して招撫を図った。祚栄も唐との通交の利を考えて、その子大門芝を唐に遣わして朝貢せしめ、ここに唐との和解が成立する。710年中宗が毒殺され、その後の政争を李隆基(り・りゅうき)が治め、712年玄宗皇帝として即位する。玄宗は翌年、鴻臚卿崔忻(さいきん)を遣わし、祚栄を左驍衛員外大将軍忽汗州郡督に任じ、渤海郡王に封じる。これより、国を渤海と号すようになる。渤海国は、高句麗人と粟末靺鞨人の混成国家であった。