漢氏の起源は、高祖劉邦の漢帝国を西暦二十五年に再興した劉秀(光武帝)から九代目 の後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代阿知王は、その 子都賀使王及び七姓氏・十七県人を率いて289年9月5日に備中国窪屋郡大倉谷に渡来 する。
秦氏と関係が深い寺社は、松尾大社(大山咋神、秦氏の氏神)、伏見稲荷大社(宇迦之御魂大神)、木嶋坐天照御魂神社(天御中主命)、大避神社(大避大神=秦河勝、兵庫県赤穂市)、広隆寺(本尊は聖徳太子=上宮王院本尊)などがあります。
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。
中国北部では3世紀末から5世紀半ばにかけて匈奴など北方遊牧民族が定住して、多くの国が並立し「五胡十六国(東晋十六国)時代」となる。
五胡とは匈奴、鮮卑、羯、氐(てい)、羌(きょう)の諸族で、その中のチベット系の前秦(氐、351年-394年)が秦を名乗り、華北を手中に入れた。前秦は高句麗と新羅を朝貢国としており、前秦は弓月君の国であった可能性がある。前秦が衰えると、やがて後秦(羌、384年-417年)が強大になっていく。
『日本三代実録』元慶七年十二月(西暦884年1月)、惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上によると、功満王は秦始皇帝十二世孫である。(子の融通王は十三世孫に相当。)弓月君は朝鮮半島を経由しているものの、秦氏の系統は『新撰姓氏録』において「漢」(現在でいう漢民族)の区分であり、当時の朝鮮半島の人々である高麗(高句麗)、任那、百済、新羅とは区分を異にしている。
弓月君の子孫といわれる秦氏は新羅系の神を祀っている。広隆寺の半跏弥勒菩薩は新羅渡来。
大酒神社の 祭神、秦始皇帝、弓月王、秦酒公
姓氏録によると弓月君は、秦の始皇帝の5世の孫の融通王とされる。
弓月王より先に来たという一族に功満王と言うのもいる。「功満」とは「高麗(こま)」ではないのか?
弓月君は元は高句麗族だったのだろうか?
『三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓(秦韓)と呼ばれるようになったという。(詳細は辰韓を参照のこと。)『宋書』倭国伝では、通称「倭の五王」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。弓月君の帰化の伝承は、この辰韓、秦韓の歴史に関係するとも考えられている
稲荷神社の総本家とも言える伏見松尾両稲荷社の社家族も秦氏族である。 秦始皇帝──故亥皇帝──孝武皇帝──功満君──弓月君
応神天皇(329-394)の下での大和朝廷は彼らを優遇し、東漢の姓と臣(おみ)の位を賜り 斉蔵(大蔵)の長官に任じられ、奈良県高市郡飛鳥村桧隈に住む。 その後、呉国に使いを出し、4人の織目を連れ帰り養蚕・染色・機織・裁縫の技術を教え る。諸国からの貢物を管理する大蔵大臣に任命されると共に「大蔵」と「坂上」の姓を賜 る。大蔵忌寸の後に宿彌を賜り、一族 坂上田村麿の功(征夷大将軍)により朝臣の位を 賜る。
倉敷市に阿智神社がある。 4世紀,応神天皇の時代,社記によると岡山県倉敷一帯(倉敷市の美観地区)は阿知潟
あるいは吉備の穴海と呼ばれていて,その中の小島(内亀島,現在の鶴形山)に漁民が社 殿を奉祀したのが阿智神社とされている。東漢氏の祖である阿知使主(あちのおみ)とそ の子の都加使主(つかのおみ)が漢人を率いて帰化し,一部がここに定住した。帰化する にあたって帰属意識を明らかにするために,日本古来から伝わる盤座(神が岩に宿る思想) や磐境を設けたとされる。この思想に中国の神仙思想が導入された。盤座は日本庭園の石 組みの起源をさぐる貴重な存在とも言われている。
5世紀後半,雄略天皇の頃(427-489)、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人と いう意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に管轄させたという記述があ る。東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり) の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。蘇我氏はこの技術集団と密接 につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。
漢氏にはさらに本系の同族のほかに、阿知使主が帰化したときに連れてきたという「七 姓の漢人」の子孫と、その後に、阿知使主の旧居地帯方にすむ人民はみな才芸ありとして 連れてきたものの子孫とをあわせて、三十以上の村主姓(すぐりせい)の諸民が付属していた。
高松塚古墳やキトラ古墳はともに桧隈の地にある。被葬者の解明はされていないが,渡来 人と深く関係する古墳と見られている。
東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権 (大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須 恵器:すえき)生産技術などももたらした。
もともと応神期に「党類十七県」をひきいて帰化した阿知使主は大和高市郡檜前村に居 住したという。
彼らは実際には百済から渡来したものと思われ,同族に百済王から出自したと称する者が 多い。そしてこの氏は、阿知使主の子の都加使主(つかのおみ)(東漢直掬やまとのあやの あたいつか)の三人の男から、三腹に分かれ、ひきつづき分化を重ねたらしく、七世紀以 前に、川原・民・谷・内蔵・山口・池辺・文・蔵垣・荒田井・蚊屋などの枝氏に分かれた。
平安初期に漢氏を代表した坂上氏の家系を示す「坂上系図」にひかれている「姓氏録」 逸文によると、その頃、倭漢氏が同族と考えていたのは約60にのぼる忌寸姓の氏で、他 に九つの宿禰姓と三つの直姓を含んでいた。
大和の武市郡の身狭(むさ)・檜隈(ひのくま)・飛鳥(あすか)の地は、藤原京の南にあり、欽明天皇陵(三瀬丸山古墳)・天武持統天皇陵・文武天皇陵・高松塚古墳・桃原墓(蘇我馬古墓)など6~7世紀の豪族墓や飛鳥時代の天皇陵が集中する。そこはまさに大和朝廷の起源を示す聖地なのであるが、それよりも前にこの檜隈は新しい移住民(今来の民)である百済・伽耶系の東漢(やまとのあや)氏の始祖・阿知使主(あちのおおみ)が十七県の移住民を引き連れて入植・開拓した土地であった。この檜隈の里には、東漢氏の氏寺・檜隈寺があり、そこにある於美阿志(おみあし)神社には東漢氏の始祖・阿知使主が祀られている。この東漢氏と同族の檜隈忌寸(ひのくまのいみき)から出た征夷大将軍・坂上田村麻呂の父・坂上刈田麻呂の「上表文」には「およそ高市郡内は檜隈忌寸及び十七県の県の人夫地に満ちて居す。他姓の者は十にして一、二なり」と書かれている。作家の金達寿氏はこのことについて「当時のいわゆる大和朝廷、すなわち古代日本の首都であったところの飛鳥を中心とした武市郡の総人口の八、九割までが檜隈の忌寸であった漢氏とその彼らが引き連れてきた人夫(人民)とでしめられていたのです」と書いている。
壬申の乱の頃には書直(ふみのあたい)が、養老より天平年間にかけては民忌寸(たみの いみき)が、天平時代から後は坂上忌寸が、それぞれ勢力を得て、族長の立場を占めた。 これは、朝廷の官人として有力化した一族が、現実の権力関係によって同族を統制したも ので、その時々の同族内の勢力の浮沈を表している。しかし、彼らも、阿知使主を共通の 祖とする同族意識に結ばれ、苅田麻呂の奏言にあるように「檜前忌寸(ひのくまのいみき) および十七県の人夫」として、大和高市郡内の地に満ちてすみ、他姓の者は十中一、ニに 過ぎない有様であったという。
その東漢氏の同族については、『続紀』の苅田麻呂上表文、坂上系図・『新撰姓氏録』坂 上氏条逸文になどにみえるところでは、阿智使主とともに来朝した七姓漢人(朱・李・多・ 皀郭・皀・段・ 高)の子孫である桑原・佐太氏等と、仁徳期に阿智使主が朝鮮から連れて きたとされる「村主」のカバネをもつ氏族集団がおり、その同族的広がりは関東におよぶ ほどのものであった。阿智使主直系の子孫は後代、天武朝において忌寸姓を賜ることとな り、その他の氏族とはカバネ的に区別がなされることとなった。
東漢氏は蘇我氏の門番や宮廷の警備に多くかかわっている。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏 が担当しており、蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てる こともあった。その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。東 漢氏は奈良時代以降も、武人を輩出しつづけており、平安初期には蝦夷征討で名を馳せた 東漢氏の首長氏坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子がみえることもその伝統によるものであ る。
その後、七姓の漢人は、東漢氏とともに大和国飛鳥付近で活躍した。そしていわゆる飛 鳥文化の中心的役割を演じた
秦酒公(はた の さけのきみ)
生年・没年ともに不詳。大和時代の渡来人とされる。
三世紀末、百済から渡来した弓月君(ゆずのきみー融通王)の孫・普洞王の子という。
一族が分散することを憂い、雄略天皇(在位四五六ー四七九年)の詔を受けて秦の民を受けて首長となる。
養蚕・絹織に励み、庸調として献納した絹布が山積みになったため、その賞として、太秦(うづまさ)の姓を賜ったと記紀に記される。
秦 河勝(はた の かわかつ)
生年没年ともに未詳。
一説に、赤穂の大避神社の創建が六四七年とされている点から、六四七年ごろの没とされている。
六世紀後半から七世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。
姓は造で、秦丹照、または、秦国勝の子とする系図がある。
秦河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。
また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったともいう。
聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。
六一〇年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。
六四四年、駿河国富士川周辺で、大生部多(おおふべのおお)という者を中心に
「常世神」を崇める集団(宗教)が流行したが、これを河勝が追討したとされる。
没したのは、赤穂の坂越。
坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。