阿保氏(あぼうじ/あほうじ/あおうじ)は、「阿保」を氏の名とする氏族。
第11代垂仁天皇皇子を祖とする皇別氏族。氏祖を息速別命と於知別命とする2流があり、ともに阿保朝臣姓を称した。
宇陀の酒部の神社を探しています。
伊賀国造 (いがのくにのみやつこ)
伊賀国伊賀郡(現・三重県伊賀市一帯)を治めたと見られる国造。「国造本紀」では、第13代成務天皇の代に意知別命三世孫の武伊賀都別命が初代国造に任じられたとする。ただし国造一族の氏姓は、伊賀臣(第8代孝元天皇皇子の大彦命後裔)、阿保君(第11代垂仁天皇皇子の息速別命後裔)などと推定されている。
息速別命は於知別命の異母兄弟になる。
息速別命(いきはやわけのみこと)
垂仁天皇と妃薊瓊入媛との間の皇子。『新撰姓氏録』によると、幼少の時に天皇が息速別命のため伊賀国阿保村(三重県伊賀市阿保)に宮室を築いて同村を封邑として授け、子孫はその地に住居した。允恭天皇期、息速別命4世孫の須珍都斗王(須禰都斗王とも)に対し、地名に因み「阿保君」の姓が与えられたのが初めとされる。天平宝字8年(764年)には、公(君に同じ)を改め「阿保朝臣」の姓が与えられた。
雄略天皇期、須珍都斗王の子・阿保意保賀斯(おおかし)は武勇に優れたため、「健部(建部)君」の姓を授かった。
しかしながら、延暦3年(784年)に子孫の健部人上が奏上し人上らは「阿保朝臣」に戻すことを許され、黒麻呂らには「阿保公」の姓が下賜された。この改姓には職業由来の姓から土地由来の姓にすることで、伊賀の地における伊賀朝臣(大友皇子(弘文天皇)の生母である伊賀宅子娘を輩出し、天武天皇11年(682年)に朝臣を授けられる)の台頭に対抗する意図や律令制の官人として生きていく過程で「先祖代々の仕奉」の実績が意味をなさなくなったことなどが背景としてあったとみられている。一族は伊賀国造を務めた。
息速別命ー(3代略)ー[阿保氏]須珍都斗王ー[建部氏]建部意保賀斯ー(数代略)ー[阿保氏]阿保人上
於知別命(おちわけのみこと)
垂仁天皇と妃苅幡戸辺との間の皇子。『古事記』によれば小月之山君(小槻山君)・三川之衣君の2族の祖である[6]。小槻山君は近江国栗太郡(現在の滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族であったが、『三代実録』によると貞観15年(873年)小槻山今雄・有緒らが京に居を移した。そして貞観17年(875年)今雄・有緒・良眞らに「阿保朝臣」の氏姓が下賜されたのが初めとされる。
なお、この『三代実録』の条には「息速別命之後也」とあり、維新後小槻氏嫡流の壬生家が提出した『壬生家譜』でも、これに従い息速別命の子孫としている。栗田寛によると「息速別命」と記してあるのは後世の文献であることから、転写の際の誤写であろうとしている。一方、阿保朝臣姓を得るため、上記の阿保氏の祖である息速別命を利用して仮冒したのではという説もある。
今雄が右大史・算博士を務めるなど史・算道に官職を持つ家柄であった。子の経覧も左大史・算博士を務め、『古今集』に歌が残っている。
しかしながら、別子・当平と糸平の代で「小槻宿禰」とさらに改姓し、両人も算博士を務めた。姓を朝臣から格下の宿禰に落とした理由は定かでなく、当平と糸平が今雄の実子ではなかったのではないかとする説もある。その後、史の重職と算博士は小槻氏に継承され、小槻氏は官務家として発展していく。
小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には下戸山古墳、栗太郡衙跡とされる岡遺跡が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は貞観15年(873年)に京に居を移し、のち小槻氏(官務家)として朝廷に仕えた。
小月山君(小槻山君) (おつきのやまのきみ)
近江国栗太郡(現・滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点としたとされる豪族。当地には、氏神として小槻神社や小槻大社が残っている。『新撰姓氏録』(815年)にある「小槻臣」もこの一族とされている。史書によれば、873年に拠点を京に移して「阿保朝臣(阿保氏)」のち「小槻宿禰(小槻氏)」と改姓し、官務家として活動した。
三川衣君 (みかわのころものきみ)
三河国賀茂郡挙母郷(現・愛知県豊田市)を拠点としたとされる豪族。当地には児ノ口社が残り、伝承を伝える。関連して、『古事記』では同じく垂仁天皇皇子の大中津日子命の子孫として「許呂母之別(ころものわけ)」の記載が見える。
伊賀國阿拝郡 敢國神社
旧國幣中社 伊賀國一宮
御祭神 大彦命 少彦名命 金山媛命
配祀 九所社 六所社
酒見神社
『続日本紀』の天応元年(781)五月条に、尾張国中嶋郡の裳咋モクイ臣船主フナヌシが次のように言上した記事がある。すなわち、「私たちは伊賀国の敢アエ朝臣と同祖であり、曾祖父の宇奈より以前はみな敢臣の姓であった。ところが庚午戸籍が造られた際、祖父の得麻呂が誤って母方の姓にしたがって裳咋臣とされてしまった。謹んで改姓してほしい。」
これを受けた朝廷は船主ら8名に「敢臣」の姓を賜った。
『続日本紀』を通読すると船主と似たような言上をして改姓を願い出た者たちの記事が散見さる。これらは自分の家柄に箔をつける目的で、名家の血統に自家のそれを擬制させようとしたものであり、したがって、こうした言上は必ずしも史実として受けとる必要はない。以下は『新編一宮市史・本文編(上)』からの引用である。
「阿部氏の一族で伊賀国阿拝郡の豪族阿閉氏=敢臣の勢力が尾張に及んでおり、その支配下の民衆、おそらくは敢石部(敢磯部)の首長の一人が裳咋臣であったのだろう。彼らは支配と従属の関係から進んで同族系譜で血縁を擬制するようになっていたはずであるが、奈良時代後期の改賜姓の盛行するなかで、裳咋臣が時流に乗って本宗家のの敢臣と氏姓の同一化をはかったというのが事実に近いのではあるまいか。」
酒見神社は倭姫命の巡行地の1つ、尾張国中嶋宮に比定され、ふきんには8世紀以前に遡る酒見御厨という伊勢神宮の神領があるなど、この地域は伊勢とのつながりはかなり古くからあった。
酒見神社のふきんに「目久井」という字があり、車塚古墳という古墳がある。この古墳とその被葬者は、立地や伝承面から推して、当社の祭祀に関係していた可能性がある。
『続日本紀』天応元年条の記事には、酒見神社と同じ尾張国中嶋郡にいた「裳咋モクイ臣船主」という首長が登場するが、彼の家柄はほんらい、伊賀国阿拝郡の豪族、阿閉氏の配下にあった磯部たち、すなわち敢磯部であった。「目久井」という地名もおそらく、上代のそのふきんに彼らが活動していたことを示すものだろう。
大村神社
現在大村神にあてられている息速別命は、古代史料に阿保地域との関わりが見られる人物である。まず『続日本紀』延暦3年(784年)11月21日条では、息速別命は伊賀国阿保村に住み、その四世孫の須禰都斗王(須珍都斗王)が「阿保君」姓を賜ったという。また『新撰姓氏録』右京皇別 阿保朝臣条においても、垂仁天皇により伊賀国阿保村に宮室が作られて息速別命に封邑として授けられ、その子孫が阿保朝臣(阿保氏)になる旨が記されている。大村神社付近には息速別命の宮内庁治定墓も存在するが、こちらは近年の考古学では6世紀に下ると見られているため、大村神社境内の古墳(宮山古墳群)の1つを息速別命の墓に比定する説がある。
久斯神社「三社大明神」
吉野町大字三茶屋集落の氏神様です
創祀年代など定かでは有りませんが、神社の前を通る道は伊勢街道と呼ばれ、伊勢参詣の人々が往来した古い街道です。
大井の大水上之神と笛吹の天照国照日子火明之命の二柱を合わせて祀り、俗に三社大明神と呼ばれています
祭神;久斯之大神、大水上之神、天照国照日子火明之命
久斯之神は少名毘古那神とも呼ばれ、大国主之神とともに国造りをした神とされています
九頭神と同義とされ、水神・河神です
また、古来より医薬の神・酒造りの神としても信仰されています
阿紀神社
宇陀川の支流本郷川(神戸川)の西岸に鎮座する社を、式内阿紀神社鍬靫にあてられている。「大和志」には神戸明神と称すとあり、「皇太神宮儀式帳」には、宇太阿貴宮というとあり、「倭姫命世紀考」には神戸大神宮と呼んでいる。
祭神は今、天照皇大神を主神に、天之手力男命・邇々芸命・秋昆売神・八意思兼命を配祀する外、天水分神・菅原道真公・金山彦神・金山姫神を合祀する。
この地は「大神宮詣雑事記」に大和国宇陀神戸十五戸」とある神戸の地とみられ、神戸村の名もここからおこり、阿紀神社を神戸大神宮と呼ばれるようになったと考えられる。創祀については、倭姫命の神幸伝承に求める説がある。「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世紀」によると、倭姫命が天照皇大神の御霊を奉じて、大和の美和の御諸宮から宇太の阿貴宮、佐々並多宮、伊賀の穴穂宮、阿閇拓殖宮、近江の坂田宮、美濃の伊久良賀波の宮、伊勢の桑名野代官、鈴鹿小山宮、壱志藤方片樋宮、飯野高宮、多気佐々牟宮、磯宮、宇治家田上宮等から五十鈴川上に斎き祀ったという。
特に「倭姫命世紀」(『大和志料』所収)には大和国宇多の秘志野宮に遷り4ケ年間奉斎とある。延宝9年(1681)開版林宗甫の「和州旧幽考」神戸に「当世宇陀の町より、4・5町坤の方に、俗に皇太神御鎮座の跡とて小社有り。其所の名を神戸といへり。天照太神宇陀の秋宮に四とせいはひ奉るの時、倭国造采女香刀比売地口の御田を奉れり」(倭姫命世紀)と記している。明治以前は、天照皇大神の本地仏である大日如来を安置の大日堂が当社境内にあったが、「神社調査書」によると、明治初年の神仏分離の時、大日堂は迫間の天香久山天益寺に移されたという。
崇神天皇の子の伊賀比売
皇后:御間城姫
(2)御間城姫の系譜における疑問
崇神の妃で垂仁の母なる御間城姫(記は御真津比売)を崇神の伯父大彦の娘としている。しかるに、古事記の孝元記は、大彦の子の中に彼女の名を記していない。後に帝母となる人物の名を書き落とすのは異常でる。それのみならず、開化記では彼女を崇神の同母妹と記している。これは、帝紀の部分の方に作為がある。それと云うのは、同母兄妹の名前はしばしば同じ語幹を持っている。欝色雄と欝色謎、伊香色雄と伊香色謎、豊城入彦と豊鋤入姫、狭穂彦と狭穂姫など例示には事欠かない。しかるに、崇神の名「ミマキイリヒコ」と、彼女の名「ミマツヒメ」は語幹を同じうしている。そうすると、垂仁は同母結婚の子である。同母結婚はタブーであるからあり得ない。
子供たち
活目入彦五十狭茅尊 (古事記では伊玖米入日子伊沙知命、垂仁天皇)
彦五十狭茅命 (古事記では伊邪能真若命)
国方姫命 (古事記では国片比売命)
千千衝倭姫命 (チチツクヤマト古事記では千千都久和比売命)
伊賀比売命 (古事記)
倭彦命 (、古事記では倭日子命)
五十日鶴彦命 (イカツルヒコ、日本書紀)
宇陀 墨坂神社
崇神天皇の御代、悪病流行し、人民死に絶えようとした時大物主神が(『日本書紀』では神人が)、天皇の夢に現れ墨坂の神に赤色の盾矛を、大阪の神に黒色の盾矛を以て祀れとの神託あり。教えに従ったところ、悪病が止んで民平穏となったとある。(大阪の神とは、大坂山口神社だと思う)
『日本書紀』雄略天皇七年七月三日、三諸の神は「此の山の神をば大物主神と為ふといふ。或いは云はく菟田の墨坂の神なりといふ」
とある。
「新抄勅格符抄」に、天応元年(781)信濃国に神戸一戸を賜うとあり信濃国に同名社が存在する。
もとは、伊勢街道の西峠付近の天の森に鎮座していたが文安六年(1445)、当地へ遷座し六所大権現と称した。(社伝では推古天皇十五年の遷座)
大和に向った神武天皇が、宇陀の高倉山に登って眺めると、八十梟師が、女坂には女軍を、男坂には男軍を、墨坂にはおこし炭を置いて、道を絶え塞いでいた。女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。
という記述が日本書紀にある
大和国十市郡安倍を本拠としたと言われているが、伊賀国阿拝郡から移動してきたようだ。伊賀国一宮は敢国(あへくに)神社。従って、阿倍氏は伊賀の出ではないかと言われている。つまり、大和国十市郡安倍をルーツとして阿倍氏ができたわけでは無く、阿倍氏が本拠地にしたことにより大和国十市郡安倍という地名ができた。