吉備系の国造
吉備一族で国造として残ったものには、本国吉備地方の下道国造(備中国下道郡)、上道国造(備前国上道郡)、加夜国造(備中国賀夜郡)、三野国造(備前国御野郡)、笠国造(備中国小田郡)のほか、盧原国造(駿河国盧原郡。系譜に疑問あり,和邇氏族の出かその影響がある)、角鹿国造(越前国敦賀郡)、伊弥頭国造(越中国射水郡)である。吉備地方の国造は本来、吉備国造一つ(ないし吉備上道・吉備下道の二つ)であったのが、数次の叛乱などで分割されたのではないかとみられる。盧原・角鹿・伊弥頭の諸国造など東国の吉備一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれて始められたと伝える。
九州の国前国造(豊後国国埼郡)、葦分国造(肥後国葦北郡)も吉備一族とされる
安房の国造 伊許保止命
先代旧事本紀によると、成務朝に伊許保止命が阿波国造(房総半島)に任じられたという。またその孫は、伊甚国造となっている。
成務朝に阿波国造の祖伊許保止命の孫の伊己侶止命が伊甚国造に任じられたという。
大多喜町と埼玉稲荷山の古墳、同范鏡
夷隅川流域も高塚古墳の分布はきわめて希薄な地域であるが、上流の大多喜町には、前方後円墳1基、円墳11基からなる台古墳群があり、その中の径15mの小円墳(大宮氏旧宅裏山古墳)から半円方格帯神獣鏡、馬具などが出土している。
この白銅製の鏡は「辛亥年在銘」の鉄剣が出土した埼玉県稲荷山古墳出土の鏡と同范(同じ鋳型で造られた)鏡で注目される遺物である。6世紀前半頃の古墳であろう。
成武天皇の世に、伊己侶止直が国造となった。伊甚国造は、夷隅川及び一宮川流域を支配していた。のちに夷隅川流域は夷隅郡、一宮川流域は長生郡となる。
六世紀前半の上毛野・下毛野・武蔵の前方後円墳からは鈴鏡(れいきょう)という、上毛野を分布の中心とみることもできる銅鏡が出土している。上毛野の君が武蔵の豪族になどに下賜した可能性が高い。上毛野小熊は武蔵にとって上級権力者の地位にあった。
国造伊甚直稚子と伊甚屯倉
『日本書紀』によれば、安閑元年(534)に、この地を支配していた国造伊甚直稚子がアワビの中にある珠(真珠)を献上するのが遅くなり、その罪を逃れるため春日皇后の寝殿に逃げ隠れた。皇后は驚き失神したため、より罪が重くなり、その免罪のために伊甚国造は、大和朝廷の直轄地となる伊甚屯倉を献上したという屯倉設置の記述がある。
伊許保止命は、新撰姓氏録では穂日命の末裔とされる。伊許保止命は、神名帳考証によると、群馬県渋川市(上野国群馬郡)にある伊香保神であると言う。伊香保神社の祭祀を行ったと考えられるのは、上毛野氏の阿利真毛野氏でその元となる毛野氏は、系譜研究家の宝賀寿男氏によると、事代主の後裔である磯城県主の系譜であると言う。
その証拠に、上野国の式内社には、磯城県主・事代主の一族を祀った神社が数多くある。
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上毛野氏
有馬の里は、遠く奈良時代以前に已に上毛野氏の名族阿利真の公の拠所として、古代文化の花が開いた地であり、また、官立牧場有馬の牧の所在地として富み栄えた所である。榛名山麓に開拓の鍬を進めた古い歴史の曙から、父祖何十代にわたり守護し来った産土神が、大名牟遅命、少彦名命を併せ祀る若伊香保神社である。
若伊香保神社
渋川市有馬1549(平成22年7月10日)
御祭神:大名牟遅命、少彦名命、建御名方命
中世には、「上野国五の宮」と証され、県下神社中の第五位に置かれ、惣社明神相殿十柱の一となり、正一位を与えられた
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三宮神社 (吉岡町)
創建は天平勝宝2年(750年)の勧請と伝えるが、詳らかでない。
『神道集』では、「伊香保大明神」について「女体ハ里ヘ下セ給テ三宮渋河保ニ立セ御在ス、本地ハ十一面也」と見えることから、当社は伊香保神社(湯前神、渋川市伊香保町伊香保)の里宮にあたると考えられている。「伊香保」とは噴火の激しい榛名山を「厳つ峰(いかつほ)」と称したことによるとされるが、山宮の鎮座地は噴火に伴う堆積層のため耕作には不向きで、6世紀中葉頃の最後の噴火後数百年を経て湧出した温泉で発展した地になる。そのため、温泉湧出以前は里宮の三宮神社が祭祀中心地であったと見られる。
『上野国神名帳』では、いずれも鎮守十社のうちで、総社本では3番目に「正一位伊賀保大明神」、一宮本では2番目に「正一位伊賀保大明神」、群書類従本では3番目に「正一位伊香保大明神」と記されている。同帳では、関連神名として「若伊賀保神」「伊賀保若御子明神」「伊賀保木戸明神」の記載も見える。
南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に記述が見える。これらによると、伊香保神は貫前神(一宮)・赤城神(二宮)に次ぐ上野国三宮であるほか、湯前にある男体(本地仏:薬師如来)と、渋川保三宮の里宮にある女体(本地仏:十一面観音)とから成るという。
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宝賀寿男氏は、吉備族や能登国造もルーツは磯城県主であるとする。
上野には孝霊天皇(太瓊)の子である彦狭嶋命を祀る三島神社も多い。また新川臣(吉備族)の石碑(「上野三碑」と呼ばれる石碑の一つである「山ノ上碑」)もある。
実は、能登にも阿波国造の祖である伊許保止命が祀られている。
七尾市の大地主神社
伊許保止命が祀られている。
宮司氏の話によると、近江の日吉神を養老二年に勧請したそうで、その前までは、式内社の加夫比古神社として、伊許保止命を祀っていたという。
能登国の式内社には、加夫刀比古の神名と近い神社が他に2社あり、
能登國羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古神社(小熊甲)
能登國能登郡 加夫刀比古神社(曽良甲)
能登國能登郡 阿良加志比古神社
このような呼称があったと言う。能登国の開拓者として数カ所に亘って祀られていたと考えられる。
こうして見てくると、能登国、毛野国、阿波国の開拓者として、神門臣の伊許保止命と磯城県主~吉備族が浮かび上がってくる。
富家の伝承では、吉備族は孝霊天皇の時代に、物部連が倭に移住してきたため、吉備国に移住し、更に同族であった出雲族に対して出雲国西部(仁多郡と飯石郡)の鉄を欲して攻撃を仕掛けたと言う。
出雲国西部を支配していた神門臣家は、吉備に破れたが、東出雲側の戦は膠着状態になり、吉備と出雲は和平を結んだと言う。
出雲国風土記を見ると、仁多郡には吉備系(丹比部臣)の人が郡司になっており、また神門郡には、式内社の加夜神社があって、吉備津神社社家と同族の-賀夜氏の居住が認められる。
吉備と神門臣は戦の後、和平を結び同化したと見られ、垂仁・景行の時代に朝廷の軍事に協力するようになったと言う。その証拠に、神門臣と吉備氏から建部臣の姓が出ている。出雲国出雲郡建部郷には、伊甚神社があり阿波国造と同祖の伊甚国造はこの伊甚神社に由来すると考えられる。
阿波国は、徳島であった粟国から忌部の集団が移住したと古語拾遺にある。古語拾遺を裏付ける事情として、阿波国(徳島)には、天佐自能和氣神社 があって日子刺肩別尊(彦狭嶋命)を祀る。
毛野氏後裔の佐自努公に関わる神社と見るのが自然で、吉備氏の彦狭嶋命が神社で祀られるのは、毛野氏と吉備氏が同族である事が理由と考えられる。またこの神社の近傍には、多祁御奈刀弥神社があって、出雲国大原郡から移住した神門臣が当初は祀ったと考えられる。
吉備氏が四国(粟)から東国(阿波)へ移住したという事になる。
茨城の佐自能神社
佐自能神社は、新治国であった茨城にもあり、ここでも磯城県主と関係する神が祀られている。新治国内には、吉備氏の後裔の加茂部氏が神主を務める鴨大神御子神主玉神社があって、磯城県主の太田田根子命を祀る。
予章記において、彦狭嶋命の後裔である越智氏が庵原国に移住し、庵原国造となり、三宅島に三島明神を遷し、神津島に阿波神を祀っている。
大山祇神社は伊予国越智郡の大社であるが、摂社に774年に祀られたという阿奈波神社がある。
阿奈波神は、周防大嶋でも祀られ穴波神社として存在する。
大嶋国造は神門臣家の分家で、その祖を穴波神社(穴倭古命)として祀ったもので、伊予の海域も大嶋国造の影響下にあった事が考えられる。
大山祇神社の鎮座する地域の近傍には宗像氏にまつわる宗方と言う地名と宗方八幡もある。
武蔵国造族笠原直 笠原・笠間・風間等の笠族を支配管掌し笠原直を名乗る。古代氏族系譜集成に「兄多毛比命(武蔵国造、奉祭氷川神)―荒田比乃宿祢―宇志足尼―筑麻古―蚊手―加志―波留古―使主(武蔵国造、笠原直)―兄麻呂(物部直)、波留古の弟碓古―小杵(従兄使主と争ふ)」と見ゆ。日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見ゆ。また、大里郡神社誌・相上村(大里町)吉見神社条に「末社に東宮社、天神社あり。東宮社は祭神建夷鳥命の子建豫斯味命(吉見命)にして牟刺国造の始祖なり。又天神社は天穂日命・建夷鳥命を祭神とす。吉見郷は建豫斯味命・伊豆毛国より入間郡に遷り坐す故に吉見と云ふ。和銅六年五月奉勅・外従三位下牟刺国造笠原豊庭と宝物あり」と見ゆ。宝物は後世の造立であろう。
武蔵国造の地位を争ったものとして「笠原直」の名が『日本書紀』安閑元年に見える。武蔵国造が笠原氏だったことがあった。その笠原氏も葦北国造と同じように備中に縁があったのか、あるいは御笠持ちだったのだろう。
- 肥後葦北国造アリシトの息子である百済官僚・日羅は、帰国後、吉備にあった白猪屯倉をわざわざ訪問している。おそらく父・祖先の故地を子孫として表敬訪問したのだろう。
ちなみに白猪史という書記官は渡来人で、兄弟には船首(ふねのおびと)などがある。
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吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)
21雄略天皇の時、天皇と自分に見立てた鶏や女を戦わせたとして、不敬の罪で誅殺されている。この時、同族70人も連座させられている。
吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)
御友別の曾孫。稚媛という美しい妻があり二人の男子をもうけていたが、21代雄略天皇がその美貌を聞き及んで、田狭を任那の国司に赴任させた上、稚媛を召してしまった。それを知った田狭は、任那から日本と仲の悪い新羅へ亡命しようとするが、雄略は更に意地の悪いことに、田狭と稚媛の息子の弟君を征新羅将軍に任命してしまう。出撃したものの困った弟君は、風待ちと称して大島に留まって月日を重ねた。そこへ父の使いが来、謀叛の計画を伝えるが、発覚を恐れた妻樟媛によって殺されてしまう。
稚媛は雄略との間に磐城皇子と星川稚宮皇子を産んだが、天皇を憎んでいたのだろう、雄略が死ぬと、息子星川皇子に帝位を狙う様に諭し、大蔵の役所を占拠させるが、力及ばす包囲され、稚媛、異父兄の兄君(田狭の長男)と共に焼死してしまう。吉備上津道臣らは、星川皇子を救おうと軍船四十艘を率いて海上をやって来たが、間に合わなかったという。
雄略天皇は吉備臣を目の仇にしている。
関東の鴨神社
東国では相模に鴨居・鴨沢、武蔵に鴨志田・鴨下・鴨田、常陸に鴨志田、上総に鴨根くらいであり、式内社としては常陸国新治郡の鴨大神御子神主玉神社(新治郡加茂部村、現茨城県西茨城郡岩瀬町大字加茂部)が注目されます。
この鴨氏族は、物部信太連や久自国造などを出した物部氏族と同族であり、武蔵や相模の国造を出した出雲氏族とも同族ですから、これらの古族一族の領域に上記の「鴨」の着く地名・苗字を発生させやすい環境にあったものでしょう。
なお、物部信太連は物部懐大連の子の小事連の後で、久自国造は大売布命の後という系統の違いはありますが、同じ常陸国内にある物部一族として両者間にかなり密接な交渉があったことも推されます。
絹の生産
関東においては、絹は、弥生時代の遺跡からは出土していない。絹は、古墳時代中期になると群馬・栃木・東京、古墳時代後期には茨城・千葉の遺跡から出土している(布目順郎『絹の東伝』、一九八八)。
絹の東伝については、常陸国風土記久慈郡の条に長幡部神社(常陸太田市幡町、延喜式内社)の創立説話がある。天孫降臨に従って天降った綺日女命は、筑紫国日向二折峰(注 福岡県糸島郡高祖山)から三野国引津根丘に至ったが、美麻貴天皇の世に、長幡部の遠祖多弖(たて)命が三野国を避けて久慈に遷り、機殿を造立し初めて施*を織ったという。施*は、あしぎぬ=粗い絹織物である。
施*は、方の代わりに糸。
埼玉県児玉郡上里村に延喜式内社・長幡部神社がある。現在の祭神は、天羽槌命・埴山姫命ほか四柱であるが、古くは、日子坐王の子大根王または綺日女命を祭ったともいわれている(井上善治郎『まゆの国』、一九七七)。
常陸国長幡部の絹は、天(あま)国(注)→筑紫国→美濃国→武蔵国の地を経てきたのであろう。また、常陸国には、欽明天皇の御宇、豊浦湊(日立市)に天竺国から金色姫が着き、死後、蚕になったという伝説があり、金色姫を蚕神様として祀る寺社は多い。
佐原
佐原市を流れる小野川流域は古墳の数は少なく,仁井宿浅間神社古墳や変電所裏古墳など中規模の前方後円墳がかろうじて知られる。また,又見神社境内の本殿脇には雲母片岩製石室が残っている又見古墳があり,香取神宮から利根川(香取浦)に向かう台地上には神道山古墳群がある。
小見川町から東庄町にかけては,本地域唯一で最古の前方後方墳,4世紀後半の阿玉台北A-7号墳(全長25.5m)が調査されている。しかしこれに続く古墳は現在のところ不明である。
利根川右岸の富田地区一之分から三之分にかけての河岸段丘上には5世紀から6世紀の豊浦古墳群がある。特に,三之分大塚山古墳から出土した埴輪は,対岸の常陸国最大の船塚山古墳(全長186m)と共通する特徴をもち,下海上国と常陸国が海上交通を通じて強く結ばれていたことをうかがわせる。
また,小見川高校,中学校のある城山公園には,6世紀後半の城山古墳群がある。城山1号墳(全長68m)からは,大量の副葬品が出土し,特に中国製の三角縁三神五獣鏡は下総で唯一の出土例である。
いずれにしてもこの地域は三角縁神獣鏡を配布されるほど畿内王権勢力と強く結びついた有力首長層が,三之分大塚山古墳,富田古墳群,城山古墳群と継続的に築造された地域として注目される。
九十九里平野の北東にある椿海西岸地域には,前方後円墳9基を含む鏑木古墳群がある。鏑木大神古墳(全長37.2m)やこの地域最大の古墳・御前鬼塚古墳(全長105m)など6世紀後半から末にかけての築造と考えられる。また軟砂岩(飯岡石)の丸石を積んだ横穴式石室の関向古墳,飯塚雉ノ台古墳群などがあった。
栗山川流域には,上流に柏熊古墳群がある。柏熊8号墳からは有段口縁の壷と埴輪が出土しており,埴輪は房総最古のひとつである。中流域には,多古台古墳群,坂並白貝古墳群がある。栗山川下流域左岸の光町には前方後円墳6基を含む小川台古墳群がある。
応神天皇の世に久都伎直を国造に定めたとある。東下総の海上・匝瑳・香取三郡と常陸鹿島郡の南部とを包括する地域を管轄したのであろう。
海上国造
『古事記』によると建比良鳥命。別名は武夷鳥命・天夷鳥命・天日照命など。天穂日命の子。『国造本紀』その7世孫忍立化多比が成務朝に上海上国造になり、その孫久都伎直が応神朝に下海上国造になったという。
敏達天皇の孫百済王の末裔。
下総国海上郡・匝瑳郡・香取郡・・・現在の千葉県銚子市・旭市・匝瑳市・香取市・香取郡
雷神社(らいじんじゃ)
千葉県旭市見広(下総国海上郡)にある神社。
天穂日命を主祭神とし、別雷命を配祀する。
景行天皇が、伊勢国の能褒野で崩御した皇子日本武尊を追慕して東国巡幸をした折、椿海の東端に一社を造営東海の鎮護としたことが当社の始まりとされ、その後下海上国造に任じられた久都伎直が、自らの祖神である天穂日命を奉祀したものと伝えられている。延暦12年(793年)には、賀茂別雷神社より「別雷命」を勧請して配祀し、桓武天皇より「雷大神」の称号を賜ったといわれている