釈迦三尊像の光背銘文、

釈迦三尊像の光背銘文
廐戸皇子の病気平癒と供養の為に造られた

原文
「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼、前太后崩。明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並著於床時、王后王子等及与諸臣深懐愁毒、共相発願。仰依三宝、当造釈像尺寸王身。蒙此願力転病延寿安住世間。若是定業以背世者、往登浄土早昇妙果。二月廿一日癸酉王后即世、翌日法皇登遐。癸未年三月中如願敬造釈迦尊像竝俠侍及荘厳具竟。乗斯微福、信道知識現在安隠、出生入死随奉三主、紹隆三宝、遂共彼岸。普遍六道法界含識得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利仏師造。」

これら法隆寺系史料を『日本書紀』は全く参照していない。
そのために皇子の崩日も一年以上食い違っているのである。『日本書紀』は621(推古29)年2月5日薨去と記し、釈迦三尊像光背銘や天寿国繍帳、『上宮聖徳法王帝説』などの法隆寺系史料は、翌年622(推古30)年2月22日を崩日だとしているのである。古田武彦はこの食い違いを重大視して、廐戸皇子と上宮法皇を別人と解釈しているのである。

疑問の第一は、文中(薬師像銘)の天皇号である。天皇号の成立については、かつては薬師像銘や天寿国繍帳銘などの法隆寺系史料によって、推古朝に聖徳太子がはじめて使用したと考えられていたが???

日本国天皇!!!
「推古天皇十六年隋煬帝、文林郎裵世清を倭国に遣しむ書に曰く、皇帝倭王に問う云々、天智天皇十年唐客郭務悰来聘し、書に曰く、大唐帝敬して日本国天皇に問う云々」

天智天皇10年は天皇崩御の年であるが、書紀に郭務悰来朝の記事はない。これは書紀では10春1月13日に「百済にある鎮将劉仁願が、李守真らを遣わして、上表文を奉った」という記事に当る。
倭国王を「大唐帝敬して日本国天皇に問う云々」のような表現になったというのである。

森田はさらに「野中寺弥勒像銘」をとりあげ、やはり天智朝に「天皇」号が使用されていた例証としている。

「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、楢寺智識之等、詣二中宮天皇大御身労坐之時一、誓三願之奉二弥勒御像一也、友等人数一百十八、是依六道四生人等、此教可相之也」

□丙寅年四月大旧八日癸卯は元嘉暦で天智五年四月八日にあたり、中宮天皇は斉明天皇を指すというのが森田の解釈である。森田は天皇号の使用開始を推古朝に求めつつ、その正式採用を天智朝に求めている。とはいえ天智五年はまだ称制期(即位前)なので、そんな中途半端な時期に天皇号を採用したとは考えにくいような気もする。