遠の朝廷と万葉集

万葉集に8例が認められる。

「遠の朝廷」とは、大伴家持が「越」を詠んだ二首を除けば、すべて「筑紫」または「太宰府」に関係があるものとして使用されている。
「大王の遠の朝廷」を越に適用したのは大伴家持一人。他の人は誰も倣わなかった。

柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首
   大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ
  (巻3-304)

  大君の遠く離れた政庁へと、行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。

日本挽歌一首、また短歌(妻を失った大伴旅人に捧げた山上憶良の歌)
 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に
 泣く子なす 慕い来まして 息だにも いまだ休めず 
年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥(コ)やしぬれ
言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放(サ)け知らず 
家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 吾(アレ)をばも
いかにせよとか
にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ザカ)りいます

 (巻-794)
  都を遠く離れた 朝廷の政庁の 筑紫の国の 国庁へと
  妻は泣く子が 親を慕うように 息ついてやってきて 
休養をとる間もなく 筑紫に着いたばかりに 思いもかけず 
ぐったりと 臥せてしまった どう言っていいのか どうしていいのか
  せめて庭の岩木に 問いかけて心を晴らすと言うのか 
長旅をせずにクニにあればと 恨めしい
妻としても どうしたらよかったのか 
私としても どうしたらよかったのか
カイツブリのように 二人並んで 睦み語らっていたのに 
妻はあの世に行ってしまった。

 返し歌
  家に行きて 如何にか吾がせむ 枕付く 妻屋寂しく 思ほゆべしも 
(795番 山上憶良の歌)
奈良に帰れば 私はどうすればいいのか 枕を交わして寝た 妻屋にはもう妻はいなく独り寂しく 寝るのであろう。

  愛しきよし かくのみからに 慕ひ来(コ)し 妹が心の すべもすべなさ 
(796番 山上憶良の歌)
ああ 都はるかな筑紫で みまかる運命であったのに 妻は私を慕ってついて来た 妻のその心が 痛ましい 愛しい妻の心根よ。

 悔しかも かく知らませば 青丹よし 国内ことごと 見せましものを (797番 山上憶良の歌)
ああ悔しい こんなことになるのなら はるばると筑紫にまで連れて来ないで 奈良の国中(クンナカ)を 連れてまわってやればよかったのに。

 妹が見し 棟の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに 
(798番 山上憶良の歌)
妻が来がけに海辺に見た 栴檀(センダン)の花は もう散ってしまっているだろう だのに私の涙は まだ涸れはしない 再び逢うこともない 妻よ
(補:棟は栴檀の古名。瀬戸内では海近くの林内に生える。「栴檀は双葉より芳し」と言われて香木にするセンダンは、ビャクレン科のビャクレンのこと)

大野(オホヌ)山 霧立ち渡る 我が嘆く おきその風に 霧立ち渡る 
(799番 山上憶良の歌)
大野山に 霧立ち渡る 我が嘆く 溜め息が霧となって 霧が立ち渡っている 我が嘆きの霧で山も覆えとばかりに
(注・詞書:「神亀五年(728年)七月(フミツキ)の二十一日(ハツカマリヒトヒ)、筑前国の守山上憶良上る」)

天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御謌一首并せて短謌
食(ヲス)国の 遠の御朝庭に 汝等(イマシラ)が 是(カ)く退去(マカ)りなば
平けく 吾は遊ばむ 手抱(タムダ)きて 吾は在(イマ)さむ
天皇(スメ)と朕(ワレ) 宇頭(ウヅ)の御手もち 掻き撫でぞ 労(ネ)ぎ賜ふ 打ち撫でぞ 労ぎ賜ふ 
還(カヘ)り来(コ)む日 相飲まむ酒(キ)ぞ 此の豊御酒(トヨミキ)は
(巻6-973)

天皇が治める国の遠くの朝廷たる各地の府に、お前たちが節度使として赴いたら、平安に私は身を任そう自ら手を下すことなく私は居よう。天皇と私は。高貴な御手をもって、卿達の髪を撫で労をねぎらおう、頭を撫でて苦をねぎらおう。そなたたちが帰って来た日に、酌み交わす酒であるぞ、この神からの大切な酒は。
(補:前の歌に、「四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時に、高橋連虫麿の作る歌一首」があり、その次の歌が、「天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御謌一首并せて短謌」となっている。)

筑前国志麻郡の韓亭に到り、舟泊まりして三日を経ぬ…(略)(遣新羅大使 阿部継麿の歌)
   大君の 遠の朝廷と 思へれど 日(ケ)長くしあれば 恋にけるかも
(巻-3668)
(元暦校本:於保伎美能 等保能美可度登 於毛蔽礼杼 気奈我久之安礼婆 古非尓家流可母)

  大君の 遠い(朝庭(政庁)に派遣された)使者だなと 思ってはいるが 日数が積もると 家が恋しくなった。

壱岐の島に到りて、雪連宅満(ユキノムラジヤカマロ)の忽ち鬼病(エヤミ)遭ひて死去れる時に作りし歌一首、並びに短歌
天皇(スメロキ)の 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は 家人の 齋ひ待たねか ただ身かも あやまちしけむ
 秋さらば 帰りまさむ 垂乳根の 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに
遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離(サカ)りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君 

(巻-3688・柩を引くときの歌)
  天皇の 遠いお使いとして 韓国に 渡る貴君は 家人が 慎んで待たないからか
(補:雪連宅満が、筑紫から壱岐島に到りて、急病になって死んだので、それを悼んで作った歌。遠の朝廷=任那日本府?、天皇の都から遠く隔た
って政治を行う所=古い朝廷(?)の筑紫から韓国へ渡って行く我が背は、途中の壱岐島で死んだ…。)

防人の悲別(ワカレ)の心を追痛(イタ)みて、詠める歌一首、並びに短歌(大伴家持の歌)
   大王の 遠の朝庭と しらぬひ 筑紫の国は 賊守る 鎮への城ぞと
 聞こしめす 四方の国には 人多に 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 
出で向かひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍士と 労ぎたまひ 任のまにまに
たらちねの 母が目離(カ)れて 若草の 妻をも枕(マ)かず あらたまの 月日数(ヨ)みつつ 
葦が散る 難波の御津に 真櫂しじぬき 朝凪に 水手(カコ)ととのへ 夕潮に 楫引き撓(ヲ)り
率(アド)もひて 漕ぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ 真幸(マサキ)くも 早く到りて
大王の 命(ミコト)のまにま 大夫(マスラヲ)の 心をもちて ありめぐり 事し終はらば 恙(ツツ)まはず 還り来ませと
斎瓮(イハヒヘ)を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折りかへし ぬば玉の 黒髪しきて
長き日(ケ)を 待ちかも恋ひむ 愛(ハ)しき妻らは 

(巻-4331・755年)
(元暦校本:天皇乃 等保能朝庭等 之良奴日 筑紫国波 安多麻毛流 …)
オオキミの 遠く離れた砦として しらぬいの 筑紫の国は 外敵を抑える城
お治めになっている 四方の国々には 人は満ち満ちているが 朝日美しい 東国(アヅマオトコ)は勇んで 故郷を捨て 我が身をかえり見しない 勇猛な戦士であると オオキミはお誉めになるので オオキミの ご命令のままに慈しむ母と別れ 若草のような 妻と枕を交わせず 過ぎて行く 年月を指折り数えながら 葦の花散る 難波の軍港から 大船の両舷に 櫂を並べ 朝凪の海に 水手を整え 夕潮に 櫂を引き撓め かけ声に合わせて 漕ぎゆく君は 大波の間を 押し分けて進み 障(サワ)りなく 早々と築紫に到り オオキミの命令のままに おのこの心を持って 日々の見張りを続け 勤めが勤めが終わったら 恙(ツツガ)なく還って来てくださいと 神に捧げる瓶(ヘイ)を 床の間に据えて 白妙の着物の袖を折り返し 夜床に 黒髪を敷いて寝て
このさき 長い日々を 夫の帰還を 恋い焦がれて 待ち続けることであろう 愛しい その妻たちは。

返し歌
  ますらをの 靫(ユキ)取り負ひて 出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻 (4332番 大伴家持の歌)
雄々しい男たちが 矢筒を背負い弓を携え 出征してきたときには 妻たちは別れを惜しんで さぞかし嘆いたことであろう

  鶏が鳴く 東壮士(アヅマオトコ)の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み (4333番 大伴家持の歌)
崎守に出かける あづまの国の若者たちよ あなた方が妻と別れ故郷を後にして 還るまでの年月の長いことを思えば 悲しかったであろう。

放逸せる鷹を思ひて…作りし歌一首 (大伴家持が越の国の国司になって行ったとき作った歌
大君の 遠の朝廷そ み雪降る 越と名に負へる
天離る 鄙にしあれば 山高み 河とほしろし 野をひろみ 草こそしげき… 

(巻17-4011)
(元暦校本:大王乃 等保能美可度曾 美雪落 越登名尓於蔽流 安麻射可流 …)
ここ、天皇陛下の統治される遠境の政庁は、「神聖な雪の降る越」という名を持つ、空遠く隔たった鄙の地であるので、山は高く川は雄大で
ある。野は広々と草は深く繁っている…

庭中の花を眺めて作りし歌一首(原文:庭中花作歌一首) (大伴家持)
   大君の 遠の朝廷と 任(マ)き給ふ 官(ツカサ)のまにま み雪降る 越に下り来 … 

(巻-4113)
(元暦校本:於保支見能 等保能美可等々 末支太末不 官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来 …)