4から6世紀末までの古墳分布
琵琶湖の湖北地方にはわかっているだけでも40基を超える前方後円墳があり、そのうちの過半が坂田郡に分布しているという。
長浜の坂田古墳群
姉川流域の「坂田古墳群」と言われる古墳群は4世紀後半築造と考えられる全長92mの前方後円墳である
茶臼山古墳を最古として時代を追って時計回りに、長浜市東部の伊吹山麓地域に12基あり、長屋敷古墳が最後で6世紀中頃築造と考えられている。
天野川流域の息長古墳群
天野川流域に分布する4基の前方後円墳は息長古墳群と言われている。
5世紀後半代に造墓をはじめ6世紀に盛期を迎えているという。
大橋氏は、
「坂田古墳群の被葬者は5世紀段階においては、圧倒的な勢力をもち、天野川流域の首長をも従属させていたとみられるが、6世紀代には、後者が前者に拮抗ないし凌駕する勢力を得たとみられる。」
と言っている。
大橋氏は古墳の分布と諸文献を照らして、
姉川流域の坂田古墳群の被葬者は坂田酒人氏であり、天野川流域の被葬者は息長氏であるとしている。
坂田古墳群の中の垣籠(かいごめ)古墳は5世紀初頭の築造とされていて、
「伝稚渟毛両岐王陵」とされる。
応神帝皇子の稚渟毛両岐王の墓に比定される。稚渟毛両岐王が母の息長真若中津比賣の実家ですごしたのだろうか。
また坂田古墳群の東南数百メートルの場所に、敏達妃で押坂彦人皇子の母である「広姫墓」がある。
天野川流域の息長古墳群の中には
神功皇后の父息長宿禰王の墓とされる
山津照神社古墳がある。
この古墳は6世紀前半代に築造されているので、残念ながら神功皇后の父親の墓にするのは無理がある。
後円部の横穴式石室からは鏡、金銅製装身具、馬具、鉄刀、鹿角製刀子、三輪玉などが出土し、被葬者が朝鮮半島との交流によって、急速に勢力を伸ばしたことがうかがわれるという。
坂田酒人氏から息長氏に権力が移ったと考えられる。
「伝稚渟毛両岐王陵」と「広姫陵」が姉川流域にあることから、両者と坂田酒人氏は所縁が深い存在だった可能性が強い。稚渟毛両岐王は記紀では応神帝の皇子なので、5世紀初頭築造の垣籠古墳と時代的には近い。
謎の息長氏
古事記から息長系譜は開化期の「日子坐王系」・景行期の「倭建命系」・継体期の「息長真手王系」の三系統に分かれ、この間約六百九十年間に息長姓の人物が八人しか登場しない。
日子坐王系の系譜では山代大筒真若王-迦邇米雷王(かにめいかづち)と山背国綴喜郡と京都府南部の地名をもつ人の子が息長宿禰王であり、ここで突然息長姓の人物が登場し、葛城高額比売と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)、虚空津比売、息長日子王(おきながひこのおう)を生んでいます。息長帯比売が応神天皇を生みこの天皇が景行期の「倭建命系」の息長田別(おきながたわけ)王が、杙俣長日子(くひまたながひこ)王を生みますが別王・長日子王ともに婚姻者不明です。また、別王は帯中津日子命(仲哀天皇)と異母兄弟になりますが別王の事績等についての記述は一切無い。
天武朝から「記」撰上の(712)和銅五年までに息長氏の人物といえば従四位上の息長真人老(おゆ)とその子で従五位下の子老(こおゆ)のみで、「続紀」和銅五年十月二十日、従四位上の息長真人老が卒した。この老が記録に残る息長氏としては最高位まで上がって人で、以後奈良時代の息長氏では720年代の息長真人麻呂の従五位上が最高です。
応神期で息長系譜は「記」から消えて次に19代允恭天皇期(412~453)になって突如復元します。それは神功摂政期(201~269)に誕生した忍坂大中津比売と妹の藤原琴節郎女が19代允恭天皇(412~453)の后妃になって登場する矛盾記述です。神功摂政期(201~269)でこの間に生まれた忍坂大中津比売と藤原琴節郎女が允恭天皇の后妃になるなど考えられない。
しかも同じ矛盾記述が継体期にもある。26代継体期(507~531)に先の允恭期以来途絶えていた息長系譜が突如復活して出自不明の息長真手王とその女(むすめ)麻績娘子(おくみのいらつめ)と妹、広姫(ひろひめ)が出現。姉の麻績娘は継体天皇の妃となり一女をもうけます。妹の広姫は30代敏達天皇(572~585)の皇后となり忍坂日子人太子(おさかのひこひとのひつぎのみこ)、坂騰(さかのぼり)王、宇遅(うぢ)王を生みます。「書紀」によると敏達四年一月九日、敏達天皇は息長真手王の女広姫を立てて皇后とし一男二女をもうけます押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)、逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)、菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)の皇子女です。 敏達四年冬十一月、皇后広姫が薨じられたと記されています。広姫の姉の麻績娘子が継体天皇(507~531)の妃で「書記」によると継体元年(507)三月十四日に麻績娘子を妃に迎えたと記されて居るので当年十八歳と仮定すると妹広姫の仮定年齢は十六歳、敏達即位572年の広姫は八十歳ということになります。敏達天皇の推定生没年が538~585年とされていますから六十七歳年上の皇后を迎えたことになります。
息長日子王(吉備品遅君、播磨阿宗君の祖先)
持統期の系図の再提出
「続紀」(693)持統天皇五年八月十三日、『十八の氏(大三輪・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原・石川・巨勢(こせ)・膳部(かしわで)・春日・上毛野(かみつけの)・大伴・紀伊・平群(へぐり)・羽田・阿倍・佐伯・采女(うねめ)・穂積・阿曇(あずみ)に詔して、その先祖の墓記を上進させた。』記述があります。ということは天武朝に「続紀」には『帝紀および上古の諸事を記し校定させられた 』「記」には『朕聞きたまへらく、諸家の?(もた)る帝紀及び本辞、既に正実に違(たが)い、多く虚偽を加ふ。といへり。今の時に当たりて、その失(あやまち)を改めずは末だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす……』記されており、この時点で諸家の系譜の提出を求め「記紀」編纂の資料にしたが、持統天皇五年に十八氏に再提出をもとめたのは、天武朝に提出された系譜に不備があったためでしょう。十八氏のなかに息長氏の名がないのは息長氏提出の系譜は再提出を求める要がなかった、ということでしょうか?
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。
この天之御影命の娘は、「息長水依比売」であり、日子坐の妻となった。