昆支王(こんきおう、? – 477年7月)は、百済の王族。『三国史記』によれば、第21代蓋鹵王の子で22代文周王の弟であり、24代東城王の父。『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で、東城王と武寧王の父である。昆伎王、昆枝、崑枝、崑支、軍君(こにきし)。『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)、日本に渡来した。
(崇神天皇)
65年7月、任那国が蘇那曷叱知を派遣し朝貢してきた(※任那国の初出)。
任那は筑紫国から二千余里離れ、北は海をへだて鷄林の西南にある。
(垂仁天皇)
2年、任那人蘇那曷叱知が帰国するというので、赤絹百匹を持たせ任那王に授けたが、新羅人がこれを奪った。二国(任那と新羅)の怨みはこのときはじまった。
別の書は次のようにいう。「崇神天皇の時代に意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が越国の笥飯浦に来て帰化した。このとき崇神天皇が亡くなり、垂仁天皇に三年仕えた。都怒我阿羅斯等が帰国するとき垂仁天皇は、道に迷わず来ていれば先皇(崇神天皇)に仕えていたはずだから、国名を改め御間城(崇神)天皇の名を負った国名にするようにと言った。その国の名を〔ミマナ国〕というのはこれによる。」
『雄略紀』五年(461)
「夏四月、百済の加須利君が、池津媛が焼き殺されたことを人伝に聞き、議って、『昔、女を貢って采女とした。しかるに礼に背きわが国の名をおとしめた。今後女を貢ってはならぬ』といった。弟の軍君に告げて、『お
前は日本に行って天皇に仕えよ』と。軍君は答えて、『君の命令に背くことはできません。願わくば君の婦を賜って、それから私を遣わして下さい』といった。加須利君は孕んだ女を軍君に与え、『わが孕める婦は、臨月に
なっている。もし途中で出産したら、どうか母子同じ船に乗せて、どこからででも速やかに国に送るように』といった。共に朝に遣わされた。
六月一日、身ごもった女は果たして筑紫の加羅島で出産した。そこでこの子を嶋君という。軍君は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を主島という。秋七月、軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。───『百済新撰』によると、辛牛年に蓋鹵王が弟の昆支君を遣わし、大倭に参向させ、
天王にお仕えさせた。そして兄王の好みを修めた。とある。」
「軍君」は『百済新撰』の「昆支君」と、同一人物である。また『百済記』の「木羅斤資」は「もくらこんし」と発音するらしい。「昆支」も「こんし」と読める。「筑紫」の加羅島とはいうものの、伽耶諸国の中の「加羅国」、それは「任那」かもしれない。
『武烈天皇』四年(501)の条に
「この年、百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。これが武寧王である。───百済新撰にいう。末多王は無道で、民に暴挙を加えた。国人はこれを捨てた。武寧王がたっ
た。いみ名は嶋王という。これは昆支王子の子である。即ち末多王の異母兄である。昆支は倭に向った。そのとき筑紫の島について島王を生んだ。島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのよう名づけた。
いま各羅の海中に主島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名づけて主島とした。今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない。」
武烈天皇7年〔504〕4月、百済王が斯我君を派遣して進調した。
東城王(末多王)が即位
「日本書紀」、雄略天皇二十三年(479年)四月の条
「雄略二十二年七月丹波の国の端江浦嶋子みずのえのうらしまのこ船に乗りて釣りをしていた。そして遂に大亀を捕らえてしまった。亀は捕らえられると、たちまち女になった。それで浦嶋子は、それを妻とした。二人は相伴って海に入っていった。そして遂に蓬莱山とこよのくに(東の大海底にあるという仙境)に至った。)
雄略二十三年四月
「百済文斤王もんこんおうが急死した。その時、日本に人質となっている百済の昆支王こんきおうとその五子がいた。第二子の末多王またおうが幼年であるのに聡明なので天王〔書紀原文である〕(雄略)は内裏に呼んで、天王みずから、末多王の頭をなで、ねんごろに言葉をかけて、百済の王とさせよう。よって武器を与え、あわせて筑紫の国の軍士五百人を遣わして、護衛して、百済の国に送らせると言った。これが、東城王なのである。この年は百済の国よりの貢ぎ物が例年より多かった。筑紫の臣たちは軍船を率いて高句麗を撃った。
『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)4月、兄の加須利君(蓋鹵王)により日本に遣わされた。その際、蓋鹵王の夫人を一人賜り、身籠っていたその夫人が6月に筑紫の各羅嶋(加唐島)で男児を産んだ。この男児は嶋君(斯麻)と名付けられて、母子ともに百済に送り返され、後の武寧王となった。7月宮廷に入ったが、この時既に5人の子があった。雄略天皇23年(479年)4月、百済の文斤王(三斤王)が急死したため、昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけた。これが東城王である、という。
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雄略天皇の時代
7年〔463〕この年、天皇は吉備上道臣田狭の妻を手に入れるため田狭を任那国司にした。田狭は新羅に助けを求めた。このとき新羅が朝貢しなかった。天皇は田狭の子弟君を百済に派遣し、新羅を討とうとするが、弟君は新羅への道が遠いのを思い、新羅を伐たずに帰国した。田狭はそれを喜び、百済に人を派遣し、弟君に百済に依拠して日本に通じないように、自身は任那に依拠して日本に通じない、といった。
8年〔464〕2月、新羅は天皇に背き、高麗と好を修めていたが、ようやく新羅王は高麗の偽りを知り、任那王に日本府の救援を頼んだ。任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子に勧めて新羅を救いに往かせた。膳臣らは高麗軍を大破した。高麗と新羅の怨みはこの時始まった。膳臣らは新羅に対し、以後決して天朝に背いてはならないと戒めた。
9年〔465〕3月、天皇は紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに、新羅は歴代臣を称し朝貢してきたが、対馬の外に身をおき、匝羅の向こうに形跡をかくし、高麗の質を阻み、百済の城を併呑し、貢賦も納めない、新羅に天罰をおこなうようにと命じた。紀小弓宿禰らはすぐ新羅に入った。大伴談連らは戦死し、紀小弓宿禰は病死した。5月、紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰は新羅に行き威命をふるった。
20年〔476〕冬、高麗王が大軍をもって百済を討ち滅ぼした。高麗王は、百済国は日本国の官家として久しく仕えているので逐除はできない、といった。(※注の『百済記』には、蓋鹵王乙卯年〔475〕冬、狛の大軍が来襲し王城は陥落し、国王・太后・王子らは皆敵の手におちて死んだ、とある。)
21年〔477〕3月、天皇は百済が高麗に破られたと聞き、久麻那利を汶洲王に賜り、国を救い復興した。(※注の『日本旧記』には「久麻那利を末多王に賜った。しかしこれは誤りであろう。久麻那利は任那国の下哆呼唎県の別邑である」とある。)
23年〔479〕4月、百済文斤王が亡くなった。天王は末多王を百済国の王とした。筑紫国の兵士500人を派遣し、国に護送した。これが東城王となった。この年、百済の調賦はいつもより多かった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが水軍を率いて高麗を撃った。
欽明天皇
欽明天皇五年(544年)三月に百済は奈卒なそち(百済官位16階の第6位)の阿屯得文あとくとくもん・許勢奇麻こせがま・物部奇非もののべがひなどを、朝廷に遣わして書を提出した。
「奈卒なそちの弥麻沙みまき・己連これんらが百済に戻ってきて天皇の書を読み上げました。『汝ら、任那の宮家と合議して良い計画を立て、すみやかに任那を立てなさい。ついては良く用心して新羅に欺かれるでないぞ』と。また、津村守連なども百済にやって来て、天皇の書を伝えるとともに、任那の復興策を尋ねました。百済はつつしんでお言葉を受け、早速協議しようと使いを任那と任那宮家に遣わして呼びました。しかしながら、両者は「正月過ぎてから」「神祭りの時であるから」と数度に渡って来ず、来たと思ったら話しにならない身分の低い者でした。任那が呼ぶに来ないのは任那の本意ではないのです。任那宮家宮人のなすところなのであります。そもそも任那は任那の安羅を以て兄とし、ただ、その意にのみ従います。安羅人は安羅在の任那宮家を天として頂いております。任那宮家の的臣いくはのおみ(任那宮家、最高位宮人)・吉備の臣・河内直などは皆、移那斯えなし・麻都まつが誘導する策に従っているに過ぎません。これらは小さな家の卑しい者ですが、任那宮家の政務をほしいままとして、任那を専制し、任那が百済に行かすのを遮ったのです。このため天皇にお答えする相談も持てませんでした。そこで津村連を百済に留めて、別に飛鳥のように速い使いを送って、天皇に、奏上いたしました。移那斯えなし・麻都まつが、このまま安羅で奸策を続行すれば、任那復興は難しいでありましょう。それでは海西の任那諸国は、これからも天皇にお仕えすることもできなくなります。伏してお願いするのは、この二人をもとの国に帰らして頂きたいと言うことです。それから任那宮家と任那復興の合議をなすべきでありますと。それで天皇からお言葉を頂きました。『的臣いくはのおみなどが新羅に接近するのは吾が心ではない。昔、任那が新羅に攻められて農作することができなくなった。百済は道遠く、急を救うことができなかったのだ。的臣いくはのおみが新羅と行き来し、ようやく農耕が可能になったのだ。そういう経緯があるのである。もし任那が充分な力を得るならば、的臣いくはのおみらは権力の根拠を失って没落するであろう』と。この言葉を聞いて、私どもは深く感動いたしました。新羅と日本の接近が、天皇のみ心から出たものでないことを知ったからです」
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1930年生まれで、ソウル大学法学部を卒業後米国に留学後、韓国の大使を歴任し、大学の教授となった蘇鎮轍そちんちょる氏はその著書「百済武寧王の世界 海洋王国・大百済」彩流社刊、2007年発行。の中で、武寧王は倭の五王の一人「武」であった。40代にして倭王の位を子に譲り、百済王家の危機を救おうと、渡海したという驚くべき説を出されている。
百済と倭国の濃厚な関係、新羅との強烈な敵対は、このような背景なしには考えられないことだと思う。
- 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
- 『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
- 『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 – 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。
- 『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。