「後漢書倭伝」
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
江戸時代天明4年(1784年)将軍家治と重臣田村意次の時の3月16日(旧暦)春の息吹がふくいくとする頃、筑前の国、志賀島の百姓甚平が田んぼの椻せきに使っていたと思われる箱型に組まれた大きめの石の下から一寸(3センチ)ほどの金製と思える印を発見する。
調べると金印の材質は97%が金、2%が銀、1%が他のものであった。
金印に 倭委奴国王 と彫ってあった。
その寸法の形式から明らかに漢印であり、『史記』西南夷列伝の、武帝が元封2年(紀元前109年)に滇王へ王印を下賜したという記事に対応する
委奴国の読み方にも諸説ある。
(1)伊都国説、
(2)ワのナ国説
が代表的なものである。
金印における「委奴」を『漢書』の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆)、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じる説 – 落合直澄、三宅米吉など。
三宅は「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。教科書などでも一般的にはこの説が通説となっている。
「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説 – 藤貞幹、上田秋成、青柳種信、福岡藩、久米雅雄、柳田康雄など。
「委奴の国」を『三国志』「魏書東夷伝倭人の条」の伊都国に比定する。
制度
官の印は一定の制度があった。たとえば、大きさについても前漢初めの官印は1辺約二センチで漢の武帝以後は一辺二・三から二・五センチになった。つまり一寸の大きさにしたのだ。
だから、「漢委奴国王」印についても一辺二・三センチで、まさに後漢の一寸、だからこれは漢の官印であることが分かる。また、印面の文字についてもすべて白文、つまり陰刻であった。これらの印はまだ紙が普及していなかった漢代には封泥の上に押されたのである。封をするものの上に泥を置いて、それに印を押すのである。だから、白文の文字は泥上に押し付けると、突出して目立っていたことになる。白文は紙などに押すとあまり目立たないが、泥上だから必要であったのだ。
さらに、これらの官印はその官を辞める時には返却することになっていた。だから、多くは印を返すのに先立って私印を作ったという。官印は普通銅製である。御史大夫ら二千石以上の官は銀印、諸候王・丞相らは金印であった。さらに皇帝の印は玉を用いた。印の紐の形には亀紐、鼻紐、覆斗紐は最も多く、亀紐は千石以上の官が使ったという。少数民族や外国の君主の印にはラクダ紐や羊紐、蛇紐が多いようである。中国北方地帯では駱駝紐が多いようである。漢委奴国王印は蛇紐、そして、前漢のものであるが中国・雲南省の石賽山出土の同じ金印の「憤王之印」は蛇、南海島で出土した印は銀印であったがこれも蛇紐であった。このことは、中国の周辺部の諸国には蛇紐の印を贈ったということを証明している。
滇王之印との対応
1955年(昭和30年)より発掘調査が始まった中華人民共和国雲南省晋寧県の石寨(せきさい)山遺跡(石寨山古墓群遺跡)からは50基の土坑墓や、青銅器を主とする副葬品4000点あまりが出土した。このうち1956年(昭和31年)の第2次発掘で6号墓より「滇王之印」と書かれた金印などが発掘されており、古代の国家滇王の印とされている。またこの金印出土により、この古墳群が古代滇国の国王および王族の墓地(石寨山滇国王族墓)であることが判明した。滇王之印の外形は印面一辺2.4cmの方形。上面の鈕は蛇鈕である。印文は陰刻「滇王之印」の四字二行。
滇王之印と日本の福岡で出土した漢委奴国王印が形式的に同一で、両印ともに蛇鈕であり、その年代は紀元前109年と57年というおよそ166年の隔たりがあるが、外民族の王が漢王朝に冊封を受けたしるしであったとしている。
廣陵王璽との対応
1981年(昭和56年)、中華人民共和国江蘇省揚州市外の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。それは永平元年(58年)に光武帝の第9子で廣陵王だった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとされる。
廣陵王璽金印は箱彫りで漢委奴国王印は薬研彫りであること、志賀島の金印の綬色は紫綬であるのに対して、廣陵王璽は「印」でなく「璽」とある。
高倉洋彰は、漢委奴国王印と廣陵王璽は共に薬研彫りとしで、紐を飾る亀の甲羅の縁に魚子文の印刻がある点が共通し、これらは2つの金印を制作した工房の一致を窺わせるとする。
工芸文化研究所理事長の鈴木勉は、著書『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』で、
廣陵王璽は下書き通りの文字線を忠実に彫ることに適さない「線彫り」で作られている。
「漢委奴國王」金印の文字線は布置(印面のデザイン)を忠実に再現する技法である「浚い彫り」を採用している。
魚々子文様の各部寸法の測定結果では外形が異なることから、両印の魚々子文様に同じたがねは使用されていない。
ことを指摘し、同一時期の同一工房ではないとした。これにより「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」は兄弟印ではないとし、光武帝下賜説の論拠が失われたとしている。