武内宿禰の末裔
竹内宿禰の子に、葛城氏の祖、葛城ソツヒコや蘇我氏の祖、蘇我石川宿禰がいる。本貫の地名を名前に入れている。葛城系氏族のすべてが特に顕著にそうである。蘇我と名乗る前は石川で、これも大和川支流のある石川を名乗ったもの。蘇我倉の倉は大蔵・内蔵を管理したという職称である。
蘇我臣氏の「そが」も、 奈良県橿原市曾我の地名である「宗我」に入ったことからの名乗りであろう。
今、曾我町には宗我坐宗我津彦神社があるが、ここが蘇我氏が建立したという社伝がある。それ以前から宗我地域の宮であった可能性は否定できない。
宗我坐宗我都比古神社
奈良県橿原市曾我町
宗我都比古神・宗我都日売神
近鉄大阪線・真菅駅の西約100mの市街地の中に鎮座する。
由緒「曾我は古名を蘇我と記し、8代孝元天皇の御子・彦太忍信命(ヒコフトオシマコト)の孫に当たる武内宿禰の第三子・石川宿禰が大家を賜って、大阪河内から移り住み、このために宿禰がここに社殿を改めたという。
33代推古天皇の御世(592–628)になって、石川宿禰五世・蘇我馬子宿禰がここに社殿を造って、始祖・石川宿禰夫妻をお祀りしたと伝えられ、凡そ千三百数十年前で、当神社の起源とされる。
蘇我氏の氏神を祀る当社は、古くから曾我の近郊の人たちから『曾我さん』という愛称で広く親しまれている」
室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(略称・五郡神社記、1446)には
帳に云 宗我坐宗我都比古神社一座 久迷(久米)郷宗我村石川辺に在り。
社家宗我宿禰曰く 蘇我都彦神社二座 大臣武内宿禰・石川宿禰也
推古天皇の御世 石川宿禰五世孫蘇我馬子宿禰 神殿を蘇我村に造営し、之を奉祀す
宗我大神伝記(成立時期不明、宮座・井上氏所蔵という)には
「持統天皇(686–97)が蘇我一門の滅亡を憐れんで、倉山田石川麻呂の次男・徳永内供に蘇我氏の一支族・紀氏を継がせ、内供の子・永末に祖神を祀るための土地を賜い、社務と耕作を行わせたことに始まる。徳永内供は持統天皇の伯父に当る」
とあるという(式内社調査報告・1982)。
葛城地域は葛城氏滅亡以後、大王の直轄地であった。だから蘇我氏は葛城高尾山山麓の石川を出自とする葛城氏の一派から出ると、一般にはされてきた。
しかし馬背(高麗)以前の系譜にある韓子と満智にはほとんど何も記録がなく、高麗の子、稲目からである。
蘇我氏宗家の系図
8代孝元天皇-彦太忍信命-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-(3男)石川麻呂-満智-韓子-高麗-稲目-馬子-馬子-蝦夷-入鹿(大化改新で本宗家滅亡)
蘇我氏発祥の地は
・大阪河内の石川流域
・大和の高市郡蘇我里(橿原市曾我町辺り)葛城郡蘇我邑とする資料があるが、現曾我町は高市郡に属し葛城郡ではない
との2説がある
経緯から見て、石川の津あたりで発生し、大臣となって、旧高市郡曾我邑一帯が蘇我氏の大和における根拠地としたことは確かと思われ、その地に祖神を祀る神社として創建したのが宗我都比古神社であろう。
蘇我韓子
継体天皇の記に
「大日本人娶蕃女所生為韓子 也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす」)
『日本書紀』継体天皇24年秋9月条・注
渡来人かと言う説もあるが、そうではなかろう。
蘇我韓子と穂積押山
『日本書紀』継体天皇6年(512年?)4月6日条によると、穗積押山は百済に遣わされ、筑紫国の馬40頭を贈った。同年12月条では、百済が使者を派遣して朝貢し任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県割譲を要求した際、哆唎国守の押山は百済に近く日本から遠いことから是とする旨を上奏し、大伴金村に賛同を受けた。そして任那4県は割譲されたが、のちに大伴金村と押山は百済から賂を受けたとの流言が立ったという。
また継体天皇23年(529年?)3月条によると、下哆唎国守の押山は、百済が朝貢の津路を加羅の多沙津に変更したがっている旨を奏上した。このときに朝廷は加羅王の反対を押して多沙を与えたため、加羅は新羅と結び日本を恨むこととなったという。
系図によると、穂積押山の妻は蘇我韓子の娘の弟名子媛で、子に穂積磐弓・穂積巴提がいるという。系図によると穂積押山の父は穂積鎌子、母は阪尾姫(尾治臣勝雄の娘)とされる。
穂積押山は物部の宗家であり、韓半島の任那の幾つかの国の国守であった。その縁から、蘇我韓子は韓半島に渡り、韓子と名づけられ、任那の妻を娶ったのであろうか。(記録はないが)
紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰を新羅へ
原文
三月、天皇欲親伐新羅、神戒天皇曰「無往也。」天皇由是、不果行、乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連(談、此云箇陀利)・小鹿火宿禰等曰「新羅、自居西土、累葉稱臣、朝聘無違、貢職允濟。逮乎朕之王天下、投身對馬之外、竄跡匝羅之表、阻高麗之貢、呑百濟之城。況復朝聘既闕、貢職莫脩。狼子野心、飽飛、飢附。以汝四卿、拜爲大將、宜以王師薄伐、天罰龔行。」
『日本書紀』によると、蘇我韓子は、465年3月、雄略天皇の命で紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰とともに大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害しはじめたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。新羅王を一時敗走させるほど奮戦した中で小弓は同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の息子紀大磐だが、大磐は父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めて、小鹿火宿禰と対立した。小鹿火宿禰は、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると韓子に警告し、彼も大磐と対立するようになった。それを知った百済の王は、二人の仲を保とうと、大磐と韓子を百済との国境まで呼び出した。その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、とっさに大磐が射返したところ、その矢が当たった韓子は落馬して河でおぼれ死んだ、とされる。
葛城氏
大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族。武内宿禰の後裔とされる蘇津彦の後裔である。6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。
葛城襲津彦は、朝鮮半島でも活躍しその記録が、朝鮮の古書に記されてある。
5世紀前半倭の五王の時代の人物とされている。記紀にも詳しく記されている。
その娘「磐之姫」は、仁徳天皇の皇后となって多くの天皇を産んだ。
「磐之姫」は、奈良時代藤原不比等の娘「光明子」が、聖武天皇の皇后になる時、皇族以外で皇后(単なる妃には過去多くの皇族以外の出身の娘がなったが、皇后になったのは、磐之姫しかなかった。)になった先例にされた女性である。
この一族は、「葛城王朝」と言われる程強大で、天皇家と並び立つ存在であった。おおくの天皇を輩出そている。
ところが雄略天皇の時(5世紀後半)、一族主流は、完全に滅ぼされた。その後の日本の歴史に陰に陽に影響を及ぼす種を蒔いた豪族であった。
葛城蘇津彦の系図
倭の五王の時代:河内王朝
仁徳天皇から雄略天皇までの時代と比定して、河内王朝と呼ぶ説がある。
この時代の特徴は
1.河内の巨大古墳の時代であり、残虐な王がでたり、王族の反乱伝承も多い。
2.王族と葛城氏に権力が集中して、多くの氏族が衰退している。大臣も少ない。
3.韓半島との交易や交戦の記事も多い。弓月君など半島からの渡来人も多かった。
4世紀末のヤマト政権の内部分裂により誉田別皇子(のちの応神天皇)が忍熊王を打倒して成立した経緯がある。 応神天皇は別として、 仁徳天皇以降の、いわゆる河内王朝から出た皇別氏族が、 実質「いない」と言っていいほど希薄である。
宇治、宇智と内
武内宿禰は、「武・建」は美称であるから、これを取り去ると「内宿祢」となる。「宇治(宇智、宇遅)」が「内」に通じるのは、六国史における内真人という姓氏の表記が宇治真人・宇智真人ともされることからも分かる。武内宿祢は、孝元天皇の孫の屋主忍男武雄心命が紀国造の祖・菟道彦(ウチヒコ。宇遅彦)の娘を娶って生んだ子という系譜が伝えられるが、大和国葛城郡の南隣で、紀伊国に接して宇智郡(現五條市全域)があり、式内社の宇智神社(五條市今井)が吉野川北岸に鎮座する。宇智野を貫流する川は宇智川と呼ばれ、于智川・内川とも記される。
武内宿祢はこの宇智郡に因んで名乗られたとみられ、北隣の葛城地方の雄族・葛城国造家(葛城直祖の荒田彦の娘・葛比売)と通婚し、その地に入ってその子・襲津彦を生み、襲津彦の代には葛城地方の大豪族となって葛城を氏の名前としたとみるのが自然である。
なお、山城国には、『和名抄』の地名を北方から見ると、紀伊郡紀伊郷や宇治郡宇治郷があり、綴喜郡には有智郷があった。ウチの地名の起源が紀伊国にあったとしたら、南方から紀伊、大和、山城と地名が移された可能性も考えられ、その場合、山城では宇治の元が綴喜郡の有智すなわち内だったことになる。『姓氏録』には、大和皇別の内臣・山公が見えて、これら諸氏が味内(ウマシウチ)宿祢の後と記されるが、『古事記』孝元段には味師内宿祢は山代の内臣の祖と記されており、綴喜郡有智郷より起った氏とみられている(『姓氏家系大辞典』ウチ条など)。綴喜郡の式内社に内神社(京都府八幡市内里内に鎮座)があげられるが、上記の諸事情から、この氏は葛城臣の分流としてよいか。欽明紀十四年条には、内臣(欠名)が百済に派遣された記事が見えるが、これも先祖の事績を踏まえてのものか。
年代記
(応神天皇)
7年〔396〕9月、高麗人、百済人、任那人、新羅人がそろって来朝。武内宿禰に命じて韓人に池(韓人池)をつくる。
8年〔397〕3月、百済人が来朝した。(『百済記』には「阿花王が立ったが貴国に無礼だったので、貴国は枕弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪った。百済は王子直支を天朝に遣り先王の好を修めた」とある。)
14年〔403〕2月、百済王が縫衣工女を献じた。弓月君が百済より帰化したが、新羅人に拒まれ加羅国に留まっていた。襲津彦を派遣したが3年たっても帰ってこなかった。
15年〔404〕8月、百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を貢上した。
16年〔405〕この年、百済阿花王が亡くなった。天皇は直支王に国に帰り王位を継ぐようにいい、東韓の地を賜った。8月、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し新羅を討った。弓月の人夫と襲津彦を連れて帰ってきた。
25年(31)〔414(420)〕直支王が亡くなり、久爾辛が立ち王となった。王が幼かったので木満致が国政を執ったが、無礼な行いが多かったので召還した。(『百済記』には、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときその国の婦をめとり生まれた子であり、任那にいて百済に入り貴国と往き来し、天朝の命をうけ百済の国政を執った、とある。)
28年〔423〕9月、高麗王が遣使し朝貢した。上表文が無礼だったので菟道稚郎子は表を破った。
31(25)年〔426(420)〕8月、新羅の調使が武庫の水門で失火し船を焼いてしまった。新羅王は匠者を貢上した。
39年〔428〕2月、百済直支王が妹の新斉都媛を天皇に仕えさせた。媛は七人の婦女とともに帰化した。
(仁徳天皇)
11年この年、新羅人が朝貢した。
12年7月、高麗国が鉄の盾と鉄の的を貢上した。
17年9月、新羅が朝貢しなかったので、的臣の祖の砥田宿禰と小泊瀨造の祖の賢遺臣を派遣してその理由を訊くと、新羅人はすぐに貢献した。
53年5月、新羅が朝貢しなかったので、上毛野君の祖の竹葉瀨を派遣してその理由を訊いた。重ねて竹葉瀨の弟の田道を派遣し、新羅軍を潰した。
58年10月、呉国と高麗国がともに朝貢した。
(允恭天皇)
3年正月、新羅に遣使して良医を求めた。
42年正月、新羅王は天皇が亡くなったと聞き、調船80艘・楽人80人を貢上した。対馬に泊まって哭き、筑紫に着いて哭き、難波の港に泊まり素服を着けた。難波から京に至るまで哭き、あるいは舞い歌い、ついに殯の宮に参会した。
(雄略天皇)
2年〔458〕7月、百済の池津媛は天皇にそむき石川楯と密通した。天皇は怒り夫婦を焼き殺した。(『百済新撰』には「己巳年〔429〕に蓋鹵王(455~475年)が立った。天皇は阿礼奴跪を派遣し女郎を求めた。百済は慕尼夫人女・適稽女郎を天皇に貢進した」とある。)
5年〔461〕4月、百済加須利君は適稽女郎が殺されたので、女ではなく弟の軍君を日本へ送ることにした。軍君は孕んでいる加須利君の婦を妻に求め許された。6月、孕んだ婦が筑紫の各羅嶋で児を産んだので嶋君といった。すぐに船で百済に送らせた。これが武寧王である。7月、軍君が入京した。(『百済新撰』には「辛丑年〔461〕に蓋鹵王は弟の昆支君を派遣し、大倭に向い、天王に侍し、先王の好を修めた」とある。)
7年〔463〕この年、天皇は吉備上道臣田狭の妻を手に入れるため田狭を任那国司にした。田狭は新羅に助けを求めた。このとき新羅が朝貢しなかった。天皇は田狭の子弟君を百済に派遣し、新羅を討とうとするが、弟君は新羅への道が遠いのを思い、新羅を伐たずに帰国した。田狭はそれを喜び、百済に人を派遣し、弟君に百済に依拠して日本に通じないように、自身は任那に依拠して日本に通じない、といった。
8年〔464〕2月、新羅は天皇に背き、高麗と好を修めていたが、ようやく新羅王は高麗の偽りを知り、任那王に日本府の救援を頼んだ。任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子に勧めて新羅を救いに往かせた。膳臣らは高麗軍を大破した。高麗と新羅の怨みはこの時始まった。膳臣らは新羅に対し、以後決して天朝に背いてはならないと戒めた。
9年〔465〕3月、天皇は紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに、新羅は歴代臣を称し朝貢してきたが、対馬の外に身をおき、匝羅の向こうに形跡をかくし、高麗の質を阻み、百済の城を併呑し、貢賦も納めない、新羅に天罰をおこなうようにと命じた。紀小弓宿禰らはすぐ新羅に入った。大伴談連らは戦死し、紀小弓宿禰は病死した。5月、紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰は新羅に行き威命をふるった。
20年〔476〕冬、高麗王が大軍をもって百済を討ち滅ぼした。高麗王は、百済国は日本国の官家として久しく仕えているので逐除はできない、といった。
21年〔477〕3月、天皇は百済が高麗に破られたと聞き、久麻那利を汶洲王に賜り、国を救い復興した。(『日本旧記』には「久麻那利を末多王に賜った。しかしこれは誤りであろう。久麻那利は任那国の下哆呼唎県の別邑である」とある。)
23年〔479〕4月、百済文斤王が亡くなった。天王は末多王を百済国の王とした。筑紫国の兵士500人を派遣し、国に護送した。これが東城王となった。この年、百済の調賦はいつもより多かった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが水軍を率いて高麗を撃った。
継体天皇の即位前記、仲哀帝五世孫倭彦王説話
武烈八年、武烈帝は皇子女がないまま崩御し、「継嗣絶ゆべし」の状況になる。
そこでまず白羽の矢が立ったのが仲哀帝の五世孫の倭彦王である。丹波国桑田郡に住んでいた。許勢男人大臣、大伴金村大連等は挙って迎えに行った。
迎えに来た集団を見て、
「倭彦王 遥望迎兵 懼然失色 仍遁山壑 不知所詣」
倭彦王は遠くから迎えに来た兵を見て、恐れをなして顔が青ざめ、一目散に山中に逃げ込んで行方知らずになってしまったと記されている。
丹波国は日子坐王が支配していた国である。
日子坐王は開化帝と丸邇氏の間にできた皇子であり、和邇氏の系統か。
葛城氏のあと大伴氏の隆盛
継体天皇天皇以降は、大伴氏、物部氏、蘇我氏の時代が始まる。
5世紀後半に現れた大伴室屋が雄略朝で大連となり、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。
武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期で、その後継体・安閑・宣化・欽明まで5代にわたって大連を務める。この間、金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績により、ヤマト王権内に確固たる地位を築いた。しかし、任那の運営を任されていたところ、欽明朝における任那4県の百済への割譲策について、同じ大連の物部氏から失政として咎められて失脚し、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引退した。以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入る。
紀氏
武内宿禰の子である紀角宿禰を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。具体的には、雄略天皇朝の小弓、顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したと伝わる。葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない。
天智天皇の時代から桓武天皇の時代に隆盛する。
応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。
武烈天皇以降、平群氏も没落
平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した