膳臣とは古来宮廷において食膳の調理を司った氏で、遠祖の磐鹿六雁いわかむつかりが、景行天皇の 東国巡狩りに同行したとき、上総国から淡水門あわのみなとを渡ろうとしたときに白蛤をナマスに作って 進めたところ、その功によって膳大伴部を賜ったことに起因するという(書紀)
新撰姓氏録」によれば、天武13年八色の姓の朝臣を賜ってころから高橋朝臣に改姓した。阿倍朝臣と同祖。
高橋朝臣については、 奈良時代に御食国みけつくにといわれた志摩国の国守を世襲していたこと、阿曇氏とともに天皇の 食膳の調理を担当する内膳司の長官を独占していたことはよく知られている。しかし、膳臣には任那日本府の将として高句麗と戦った 膳臣斑鳩(雄略8年条)や、新羅・任那の使人が京に来たとき荘馬の長となって任那客を迎えた膳臣大伴(推古18年条)も書紀に名をとどめている。従って、加多夫古の経歴を見るまでもなく、単なる宮廷の食膳担当以外にも、半島との関わりも深く軍事・外交にも関係した氏族であったと思われる。
膳臣加多夫古 (かしわでのおみかたぶこ) 【生没年】 不詳
欽明31年(570年)、越の国に遣わされ、高句麗使を餐した。(書紀)
用明2年(587年)、物部守屋討伐軍に加わり、軍旅を率いて大連を撃った。(書紀)
応神天皇
8年〔397〕3月、百済人が来朝した。(『百済記』には「阿花王が立ったが貴国に無礼だったので、貴国は枕弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪った。百済は王子直支を天朝に遣り先王の好を修めた」とある。)
14年〔403〕2月、百済王が縫衣工女を献じた。この年、弓月君が百済より帰化したが、新羅人に拒まれ加羅国に留まっていた。襲津彦を派遣したが3年たっても帰ってこなかった。
16年〔405〕この年、百済阿花王が亡くなった。天皇は直支王に国に帰り王位を継ぐようにいい、東韓の地を賜った。8月、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し新羅を討った。弓月の人夫と襲津彦を連れて帰ってきた。
25年(31)〔414(420)〕直支王が亡くなり、久爾辛が立ち王となった。王が幼かったので木満致が国政を執ったが、無礼な行いが多かったので召還した。(『百済記』には、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときその国の婦をめとり生まれた子であり、任那にいて百済に入り貴国と往き来し、天朝の命をうけ百済の国政を執った、とある。)
雄略天皇
2年〔458〕7月、百済の池津媛は天皇にそむき石川楯と密通した。天皇は怒り夫婦を焼き殺した。(『百済新撰』には「己巳年〔429〕に蓋鹵王(455~475年)が立った。天皇は阿礼奴跪を派遣し女郎を求めた。百済は慕尼夫人女・適稽女郎を天皇に貢進した」とある。)
5年〔461〕4月、百済加須利君は適稽女郎が殺されたので、女ではなく弟の軍君を日本へ送ることにした。軍君は孕んでいる加須利君の婦を妻に求め許された。6月、孕んだ婦が筑紫の各羅嶋で児を産んだので嶋君といった。すぐに船で百済に送らせた。これが武寧王である。7月、軍君が入京した。(『百済新撰』には「辛丑年〔461〕に蓋鹵王は弟の昆支君を派遣し、大倭に向い、天王に侍し、先王の好を修めた」とある。)
7年〔463〕この年、天皇は吉備上道臣田狭の妻を手に入れるため田狭を任那国司にした。田狭は新羅に助けを求めた。このとき新羅が朝貢しなかった。天皇は田狭の子弟君を百済に派遣し、新羅を討とうとするが、弟君は新羅への道が遠いのを思い、新羅を伐たずに帰国した。田狭はそれを喜び、百済に人を派遣し、弟君に百済に依拠して日本に通じないように、自身は任那に依拠して日本に通じない、といった。
8年〔464〕2月、新羅は天皇に背き、高麗と好を修めていたが、ようやく新羅王は高麗の偽りを知り、任那王に日本府の救援を頼んだ。任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子に勧めて新羅を救いに往かせた。膳臣らは高麗軍を大破した。高麗と新羅の怨みはこの時始まった。膳臣らは新羅に対し、以後決して天朝に背いてはならないと戒めた。
9年〔465〕3月、天皇は紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに、新羅は歴代臣を称し朝貢してきたが、対馬の外に身をおき、匝羅の向こうに形跡をかくし、高麗の質を阻み、百済の城を併呑し、貢賦も納めない、新羅に天罰をおこなうようにと命じた。紀小弓宿禰らはすぐ新羅に入った。大伴談連らは戦死し、紀小弓宿禰は病死した。5月、紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰は新羅に行き威命をふるった。
20年〔476〕冬、高麗王が大軍をもって百済を討ち滅ぼした。高麗王は、百済国は日本国の官家として久しく仕えているので逐除はできない、といった。(『百済記』には、蓋鹵王乙卯年〔475〕冬、狛の大軍が来襲し王城は陥落し、国王・太后・王子らは皆敵の手におちて死んだ、とある。)
21年〔477〕3月、天皇は百済が高麗に破られたと聞き、久麻那利を汶洲王に賜り、国を救い復興した。(『日本旧記』には「久麻那利を末多王に賜った。しかしこれは誤りであろう。久麻那利は任那国の下哆呼唎県の別邑である」とある。)
23年〔479〕4月、百済文斤王が亡くなった。天王は末多王を百済国の王とした。筑紫国の兵士500人を派遣し、国に護送した。これが東城王となった。この年、百済の調賦はいつもより多かった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが水軍を率いて高麗を撃った。(顕宗天皇)
3年〔486〕2月、阿閉臣事代は命をうけ、使いとして任那に行った。この年、紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した。任那の左魯・那奇他甲背らの計を用いて百済の適莫爾解を爾林で殺した。百済王は怒り、帯山に出向き攻めた。紀生磐はことのならないのを知り任那から帰った。百済国は任那の左魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。
武烈天皇
7年〔504〕4月、百済王が斯我君を派遣して進調した。
継体天皇
6年〔512〕4月、穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。
7年〔513〕6月、百済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己汶の地の奪還を要請した。11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を派遣し、珍宝を献上し己汶の地を乞うたが、承知しなかった。
8年〔514〕3月、伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧庫を置き、日本に備えた。新羅を攻め村邑を略奪した。
9年〔515〕2月、百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙都島に着くと伴跛人が残虐をほしいままにしているというので、物部連は水軍五百を率いて帯沙江に向った。4月、物部連は帯沙江に泊まること6日、伴跛が軍をおこして攻めてきた。物部連らは恐れおののき、命からがら逃げ汶慕羅に泊まった。
10年〔516〕5月、百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え労をねぎらい、国に導いて入った。9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地を賜ったことに感謝の意を表した。14日、百済が高麗使安定らに副えて灼莫古将軍と日本斯那奴阿比多を派遣し、来朝して好を結んだ。
21年〔527〕6月、近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[口彔]己呑を復興し任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が火豐二国を拠りどころとし、高麗・百済・新羅・任那の年貢職船を誘致し、また毛野臣軍を遮った。8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
22年〔528〕11月、物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。
23年〔529〕3月、百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。
552年
コノ年、百済、漢城と平壌を棄てる。新羅、これによりて漢城に入る。(日本書紀)
4月、箭田珠勝(やたのたまかつ)大兄王子薨じる。
5月、百済、任那の大加耶、安羅が使者を使わして、新羅が高句麗と結び、百済と任那を滅ぼそうとしていることを訴え、緊急の援助を求める。
10月、百済の聖王、西部姫氏達率・怒利斯致契(ぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干巻を献上する。
570年
3月1日、蘇我稲目逝去。(紀)(元興寺縁起には稲目の死は欽明30年とある。扶桑略記には稲目は65歳で死んだとあるが疑わしい)
4月、高句麗の使人、越の国に漂着。(紀)
5月、膳臣傾子を越の国に遣わし、高句麗の使を饗応する。(紀)
7月1日、高句麗の使者、近江に至る。(紀)
571年
三月五日、坂田耳子郎君(サカタノミミコノイラツキミ)を新羅に派遣して、任那を滅ぼした理由を問わしめる。(紀)
四月十五日、欽明発病、皇太子に任那復興を遺勅す。この月、崩御。享年不明。(紀)(注:皇代記などでは63,一代要記では62、神皇正統記では81を享年としている)
五月、河内の古市に殯す。(紀)
八月、新羅、弔使を遣わして殯に哀悼を奉る。(紀)
九月、敏達帝を檜隈坂合陵に葬る。(紀)
572年
四月三日、敏達即位。物部弓削守屋を大連、蘇我馬子を大臣となす。(紀)(注:馬子の死は推古34年(626)。扶桑略記に76歳とある。逆算すれば馬子はこの年22歳)
五月、高句麗の使者が奉った国書を、船史の祖・王辰爾が解読す。(紀)
七月、高句麗の使者、帰国。(紀)
573年
五月三日、再び高句麗の使の船が越に漂着す。(紀)
七月、朝廷、饗応せずに放還す。吉備難波(きびのなにわ)を送使の長に任ずる。(紀)
八月、吉備難波、二人の高句麗の水夫を海に投げ入れ、復命す。(紀)
574年
五月五日、高句麗の使人、越の海に来る。(紀)
七月、高句麗の使人、京に入り、二人の水夫の行方を質問す。吉備難波を罰す。(紀)
十月九日、蘇我馬子を吉備の国に使わして、白猪屯倉と田部を益さしむ。(紀)
十月十一日、船史王辰爾の弟・牛に津史の姓を賜う。(紀)
十一月、新羅、使を遣わして貢ぎを進める。(紀)
この年、厩戸皇子(のちの聖徳太子)誕生(帝説、補闕記による)。 (注:異説も多い。伝暦は572年説、法隆寺旧記は573年説。没年についても帝説、補闕記は622年とするが、 伝暦、書記は621年としている。
575年
一月九日、息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘・広姫を立てて皇后とす。(紀)
二月、馬子、京に帰還し、屯倉のことを復命す。(紀)
二月、百済、使を遣わして貢を献上す。(紀) 四月六日、吉士金子を新羅に、吉士木連子(きしのいたび)を任那に、吉士訳語彦(きびのおさひこ)を百済に遣わす。(紀)
六月、新羅、遣使朝貢。合わせて、任那の四つの邑の貢を献上す。(紀)
十一月、皇后広姫、薨去。(紀)
576年
三月十日、群臣、皇后を立てることを奏す。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を立てて皇后とす。(紀)
577年
二月、詔して、日祀部(ひのまつりべ)と私部(きさいちべ)を置く。(紀)
五月五日、大別王と小黒吉士とを使わして、百済国に宰(みこともち)とす。(紀)
十一月、百済王、大別王らの帰国に際し、経論若干巻、あわせて律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の六人を献上す。難波の大別王の寺に安置す。(紀)
579年
十月、新羅、キシサ奈麻を遣わして貢ぎを進める。あわせて仏像を送る。
581年
二月、蝦夷数千、辺境を冦す。その首領の綾糟(あやかす)などを召して詔す(紀)
582年
十月、新羅、安刀奈麻・失消奈麻を遣わせて調を進める。納めずして返す。(紀)(新羅→倭)
この年、司馬達等、一家を連れて来朝(?)
敏達一二年(五八三)七月
- 七月、任那復興のため百済にいる火葦北国造・阿利斯登(ありしと)の子・達卒・日羅(にちら)を召還すべく紀国造押勝と吉備海部直羽島(あまのあたいはじま)を派遣す。(紀)
十月、紀国造押勝ら、日羅を伴わずに帰国。(紀)
十二月の晦日、徳爾ら難波の館にて日羅を殺害す。日羅を難波の小郡(上町台地の西側)に葬る。(その後、日羅を葦北に移葬す)(紀)
この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣す。日羅、恩率の徳爾(とくに)、余怒(よぬ)、奇奴知(がぬち)、参官(さんかん)、柁師徳率次干徳(かじとりとくそちかんそく)、水手など若干人を伴って来る。(紀)
百済に使していた日羅は、敏達一二年(五八三)七月に帰国し、半島の経営にっいて献策した。そのとき日羅が武人の姿で描かれるのは、彼が大伴氏に率いられる靱部であるからである。芦北に靱部負部が置かれ、中央の大伴氏との関係が確立したのは、六世紀初であろう。
芦北国造刑部靱部阿利斯等は、継体天皇のころに任那王を兼ねていたが、その子日羅は、大伴狭手彦らとともに松浦(佐賀県)より発船し、任那に渡って統治した。その後、日羅は百済を救い、達率の位に就いた。敏達天皇のころ任那復興問題についての対策を講じられるために、百済にいる刑都日羅を召還されるために勅使として紀国造押勝と吉備海部直羽島(日羅の同族)を百済へ派遣させられた。しかし百済の威徳王は曰羅を帰国させず、このため天皇は再び海部直羽島を派遣し、奇計をもって百済王を説得したため、日羅の帰国も許された。しかし日羅帰朝に対しては、恩率・徳爾・余怒・冊奴知・参官・権師・徳率・次千徳・水手等若干人を伴って朝鮮海峡から瀬戸内海に入り、吉備の児島の屯倉に到着した。朝廷からは大伴糠手子連を派遣して労をねぎらった。更に難波の館に入り、天皇から派遣された蘇我馬子大臣・物部守屋大連等の訪問を受けた。このとき、日羅は甲胃を身につけ馬にまたがっていたが、禁門のほとりで馬より下り、天皇を跪拝し、涙を流して叡慮の賢さに謹んで今日百済から帰朝したことを報告し、身につけてきた甲胃を天皇に捧呈した。天皇は呵斗桑市という所に館を新築して日羅を住まわせた。そして諸大臣を遣わして国策を諮詢させられた。日羅の館を訪間した天皇の使者には、阿倍目臣・物部贅子連・大伴糠手子連等であった。日羅は、国民の生活安定と外交政策の重要性と国強兵の計を進言した 日羅の帰朝は、蘇我・物部・大伴その他諸氏が歓迎し、また期待もかげられた。ところが、日羅が同伴してきた百済の恩率・参官等を中心にした徳爾などという者どもは、日羅が百済を減ほそうという密計を朝廷に奏上していることと疑い、ひそかに日羅を殺害する機会をうかがっていた。日羅は阿斗桑市の館より難波館へ移り住んだ。徳爾等は、昼夜日羅を襲う機会をねらったが、日羅の身から火焔のような光りが出るので恐れて中々思うように殺すことができたかった。しかし敏達天皇十一年一二月晦目、火炎の消えるのを待って日羅を暗殺した。
推古天皇一七年(六〇九)
『日本書紀』によると、推古天皇一七年(六〇九)に筑紫大宰の名が初めて登場し、肥後国の葦北津に百済僧道欣・恵弥ら僧俗八五人が来舶していることを奏上している。筑紫太宰の奏上にこたえて朝廷は、難波吉士徳摩呂と船史竜を遺わし、葦北に来た百済の人々について事情を聴取した。それによると、百済の人々は王命により隋へ行ったが、乱が起っていたので入国できず百済に帰る途中、暴風にあって漂流し、薩摩沖から長島と天草との問より、この葦北津に漂着した。これら百済の人々は約二箇月滞在したようで、この事情を徳摩呂らは朝廷に報告し、朝廷はこれに基いて百済の人々を本国へ送還することを決定し、徳摩呂と竜らを遣わして百済の人々を送り届げることを命じた。
このようた百済人の本国送還の決定をしたのは、筑紫太宰の判断でなく、朝廷の判断であった。おそらく意識的に葦北津に来たのは、日羅との関係ある場所であるところから選んだものと考えられる。これら百済人の中で帰国を拒否した僧は、大和の元興寺に連れていかれた。葦北に留まることは朝廷が認めなかった。