聖武天皇、桓武天皇

聖武天皇、称徳天皇
769年5月に称徳呪詛事件が起きる。聖武の娘・不破内親王は安積親王や井上内親王(白壁王妃)の同母妹であり、称徳の異母妹である。その不破内親王が、称徳の女官・県犬養姉女に称徳を呪詛させ、自分の子・氷上志計志麻呂の天皇擁立を図ったというものだ。結果、京外追放、配流などに処された。しかし、後にこれは誣告(ブコク)であると判り、不破内親王は元に復している。但し、782年もう一人の子・氷上川継の謀反事件に連座し淡路に配流された。これらは、道鏡即位の障害にとなる皇位継承候補者・志計志麻呂を狙って、母共々排除しようとした事件だった。
190  770年、称徳は3月病に倒れ8月4日、平城宮西宮寝殿で死去。この頃既に道鏡はその政治的地位を失っていた。議政官たちは即日、贋の遺詔により、白壁王を立太子し、道鏡を下野薬師寺別当に左遷、弟浄人も土佐に配流し、一気に政治体制立て直しを図った。
光仁天皇
 10月には白壁王が即位し、光仁天皇となり、初めて天武を始祖としない天皇が出現した。これは聖武の娘・井上内親王を妻とし、又既に他子(オサベ)親王が生まれており、聖武の血が維持されるからであった。
 しかし、771年2月温厚な左大臣藤原永手の急死により、再び政変が起こる。772年皇后井上内親王が光仁を呪詛したとして廃され、5月には他戸親王が皇太子の地位を追われる。772年10月光仁の姉・難波内親王の死去にかこつけて、井上・他戸母子が呪詛したとして幽閉され、775年4月同日死去した。
桓武天皇
 変わって773年立体子したのは他戸の兄・山部親王である。母は渡来人の血を引く高野新笠で、出自・経歴共に異例中の異例だった。この筋書きは藤原良継・百川兄弟の作と言われ、良継の娘・乙牟漏は山部の妃となり、平城・嵯峨両天皇を生む。
 781年山部は病気の光仁から譲位を受け、桓武天皇として即位する。桓武は二大政策として、「造都」と「征夷」を掲げた。こうして平城京の奈良時代は終った。
 7世紀以来構築してきた律令国家の諸システムが円滑な機能を果たし始め、日本型律令制を築き上げる過程に入った。