「磐井の乱」継体21年(527)
筑紫の国で一大勢力を誇っていた豪族「筑紫国造磐井」(ちくしのくにのみやつこ・いわい)は継体天皇21年(527年)、大和王権に対して国内最大の内乱を起こします。
翌22年(528年)には、鎮圧されますが、磐井の子「葛子」は、糟屋の屯倉を献上し、死罪免れたと記されています。
日本書紀の磐井
継体天皇21年の夏、6月3日に、近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。
この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井は、密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。
新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野の臣の軍勢を防ぎ止めてほい。」と。
そこで、磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。
(略)
22年の冬、11月11日に、大将軍、物部の大連・アラカヒは自ら、賊軍の磐井と筑紫の三井郡で交戦しました。軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵のあげる砂ぼこりが入り乱れました。この戦いがすべてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをしました。物部のアラカヒはついに、磐井を斬って、ついにその境を定めました。
12月に、筑紫の君、葛子(くずこ)は、父の罪に連座して殺される事を恐れて、粕屋(かすや)の屯倉(みやけ)を献上して、死罪を逃れるように願い出ました。
筑紫の君の自国の治水事業
『儺の国の星拾遺』(眞鍋大覺)より(一部書替)
「水城」は筑紫国造・磐井が雄略帝17(473)年から
継体帝17(523)年の間に、築堤工事を開始したと伝えられる。
この水が、現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して、百姓を潤す目的であった。
その頃、神功皇后の治世(201~269)の間に作った用水路の裂田溝(さくたのうなで)の勢いは新開の那珂・板付あたりにおよぶべき水勢が減少していた。
これを補給して、あの雄略帝17年(473)年の大洪水大氾濫よって、干潟が想像を絶して広がっていくのに対処すべく、水城が着工されたことになっている。
しかし、万民の期待を集めた水城は敏達帝2年(573)年夏、五月の大風で徹底的に壊滅した。
筥崎の砂浜の下に今も厚く堆積している博多の家屋、並びに調度の破片から推定すると、最小限で2万戸、最大限で10万戸が大水の犠牲となって、玄界灘に漂没したものと推定される。