穴師坐兵主神社、相撲神社

大兵主神社

穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)
奈良県桜井市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。

元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
中殿 兵主神 境内表示「崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、天孫降臨の際の三体の鏡の一体を御神体とし、御食津神と申し上げる。」

 祭神については、御食津神・天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命・建御名方命、大己貴神の分身伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。祭神の重層化のようだ。

右社 若御魂神 境内表示「三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は匂玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられています。」また豊宇気毘売命の親の和久産巣日神とする説がある。 
左社 大兵主神 境内表示「纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。御神体は剣(ほこ)で武勇の神、従って相撲の祖神となった。」八千戈命、素盞嗚命、天鈿女命とする説がある。兵主の神であり、天日槍命と見る事が出来る。
摂社 相撲神社「野見宿彌命」

縁起
大和平野の開拓は、その周囲山麓地帯からはじまったと考えられ、当社のすぐ西には垂仁、景行両天皇皇居跡があり、また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある。さらに、日本最古の道路である「山の辺の道」は南方三輪海柘榴市からはじまって、その諸陵や皇居跡を通り、天理市を経て奈良市に通じている。またこの大和古道に、山間部から下りてくる道の交る地点らは古い市の発達がみられ、当社のすぐ西方も、いわゆる古の「大市」のあったところと考えられる。したがって、当社附近が、上代大和文化の一中心地域であったのはもちろん、最も早くひらけたところであって、こゝに大和一国の農耕信仰が集り、また、国土安穏の平和信仰が集るのは当然であった。とくに昔「福瀬路は畏き道」として、福瀬谷が大和から東国への一般通路とならなかった前、纏向川に添い、弓月嶽の麓を通って、大和高原の上に出て伊賀、伊勢に行く道は、大和と東国を結ぶ重要な交通路であった。これが重要であるだけに、同時にその大和平野への出口は、また東国の勢力から大和を渡る要点でもあった。これが当社がこの地に早く設けられ、国土繁栄(農耕乞雨信仰)、平和安全(鎮武信仰)の神として重要な国家の祭祀を受けるものであった。いわば、南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始った神社であるといえる。有名な野見宿彌の角力の説話が当社にあるのも、それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であったのである。

-『平成祭データ』-

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている。