百済王から倭の王に贈られたという『七支刀(ナナツサヤノタチ)』が現在石上神社に保管されています。
その刀には文字が彫られています。
表・・泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王
裏・・先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故(異体字、尸二大)王旨造■■■世
表の銘文を意訳すると「泰和4年11月16日、丙午の正午に、よく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀は多く災厄を避けることが出来、倭王が持つにふさわしい・・」
裏の銘文は「先の世以来、このような立派な刀はなかった。百済王の世子・奇生が、西晋のもとで共に生きている同じ立場にある倭王に供するにふさわしいものとして造った。後世に伝え示されたい」となる
この銘文は、まず彫られた場所からして「表は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれた」などの説があり、その内容も「百済王が倭王に献上した」、あるいは「百済王が臣下たる倭王に渡した」などとさまざまに解釈されています。
銘文の冒頭には「秦■四年」の文字が確認できます。
これを「秦和四年」のこととして、東晋の太和四年(369年)に鋳造されたと解釈するのが通説とされています。
銘文の中で、369年は近肖古王(クンチョコワン)在位24年目になり、「百済王世(子)」は太子貴須(キス)を指していて、太子の名貴須を一字の奇で表しています。
書紀神功紀五十二年条に
「治世52年秋9月10日、久氏等は千熊長彦に従ってやって来た。そして七枝刀一口、七子鏡(ナナツコノカガミ)一面、及び種々の重宝を奉った。」
と記されています。
七支刀は現在奈良県の石上神社に所蔵されているが、本来は九州の倭国王に渡されていたものであって、6世紀527年に起きた筑紫磐井の乱によって九州の筑紫国が敗北したときに、ヤマト大倭国の総大将物部麁鹿火(モノノベアラカイ)の手で九州から大和の石上神宮に移されたものと考えられます。
七支刀の3年後
刀に長文の銘文を彫る流行は中国から日本列島にまで及んでいて、埼玉県の稲荷山古墳から鉄刀が発見されていますが、これにも長文が彫られています。
文中に穫加多支歯王(ワカタケルオウ=雄略天皇)の辛亥年とあるから471年で、七支刀の3年後のことです。