百済

東夷傳百済 「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。」
その地の者は新羅及び渤海や靺鞨へ逃げ、遂に百済の種は絶滅した。

唐の歴史では、はっきりと百済の種は滅したと書かれ、百済は滅亡時、
燃やせる物は全て燃やし燃やせない物は海に捨て敵に捕まる状況になると集団自殺したと伝わっている。 皇子時代の天智天皇が全員連れ帰ると言って頑張ったので大量の百済人が日本に亡命した。

百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余=徐族による国家(346年 – 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

『三国史記』巻第 二十八百済本記の義慈王条には、
百済末の義慈王のときのある日、鬼神が宮中に入ってきて、「百済は亡びる。百済は亡びる」と 大声で叫んでから土の中に入るものがいた。王は不思議に思って人に地面を掘らせてみると、そこ には一匹の亀がいた。その通り百済は新羅に滅ぼされた」

「旧唐書百済伝」に
「百済国、本亦扶餘之別種、嘗為馬韓故地、在京師東六千二百里、拠大海之北、小海之南。東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭国、北渡海高麗。其王所居有東西爾城。」と記載されています。

「新唐書百済伝」 に
「百済、本亦扶餘之別種。直京師東六千里而 、濱海之陽、西界越州、南倭、北高麗、皆 海乃至、其東、新羅也。王居東・西二城、・・・」と記載されています。

意訳すれば
「百済国は、扶餘の別種、古の馬韓の地で建国し、唐国の都長安から東に2,480キロメートル、太陽が昇る位置にあり、建国の地は黄海の北、渤海の南にある。唐時代の百済国は、東界は新羅と接し、西界は黄海を渡った現上海の越州に至、南の方角へ海を渡ると倭国に至、渤海を北の方角に渡ると高句麗に至。王の居所は、東西にある二城である。」
大国ですね
さらに、 「旧唐書百済伝」に拠りますと、660年の百済討伐後「其国 分為五部、統郡三十七、城二百、戸七十六萬。」と記載されています。
ちなみに、当時大国とされていた高句麗について「旧唐書高句麗伝」には、「高麗国 分為五部、有城百七十六、戸六十九萬七千。」と記載されています。
百済が、現韓国の全羅南北道と忠清南北道辺りに、位置していたという従来の定説は、間違i???

百済は、国を五部に分ち37郡で統治して、国内に城は200城、戸は76万であった。唐の皇帝は、百済の首都に熊津都督府、他の五部にも都督府を置き、その都督府においてはもとの部の酋長を都督、吏使とした。

■前期 漢城時期( – 475年)
 中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。

■中期 熊津時代(475年 – 538年)
 長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ

東城王の宴会場「公山城・臨流閣」公州 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。
 第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
 武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南のサビ( 泗● :さんずいに「比」・しび)、今の扶余へ遷都しました。

■後期 サビ時代(538年 – 660年)
 サビに遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが

滅亡の傷跡を残す 定林寺・五重塔 、その名は定着しなかったようです。
 551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。

「古事記」に依れば、3世紀末、百済から卓素という韓鍛冶(からかぬち)他工人の渡来が記されている。
隋書 原文 「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、共に日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」

 475年王都漢城が高句麗によって滅ぼされた時、新羅に滞在していて難を逃れた文周(ムンジュ)王は都を熊津(現公州市、ソウルの南120Km)に遷都したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。また漢城が落とされるとすぐ倭王武(雄略天皇)が南宋に高句麗の無道を訴えたり、第24代東城(トンソン)王や第25代武寧(ムニョン)王が人質としての倭国から戻って王となると日本との関係が強化された。その武寧王は、南方に領土の拡大をはかり、一応王権が安定した。第26代聖明(ソン)王は、倭に仏教を伝えたように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。
 一方、日本書紀によれば、『475年高句麗によって滅ぼされた百済は、477年に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って再興させた』とある。また山口県の大内氏は百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子の後裔とも言われている。
 ここ熊津は、周囲を山に囲まれ、北に白村江が流れるために防御には優れているが、生産性に劣っていたので、538年第26代聖明王は5代63年続いた熊津城から泗びの扶余城へ遷都した。

百済記
 366年 百済王の使者三人が日本に来て朝貢した。新羅の使いも、ともに来た。百済の貢ぎ品が、途中新羅によって、破損又は盗まれ事が判ったので、朝廷は千龍長彦を新羅に遣わした。

 369年 荒田別鹿我別を将軍として、百済の使者とともに渡海させ、新羅を撃とうとしたが兵が少ないと思い、さらに使いを日本(4世紀日本の国名はない。春野註)に送って軍士を増加するよう請うた。
朝廷は更に木羅斤資らを遣わした。そしてそれら大兵力をもって新羅を襲って破った。これによって海岸沿いの新羅の国が倭国の軍門に下り、百済に近い何カ国かを百済に与えた。

 370年 百済の使いが始めて日本に渡った。百済は倭国に臣従することを誓った。

 371年 十月 百済肖古王は太子(貴須王)とともに、兵三万をもって高句麗に進入し、平壤城を攻めた。高句麗故國原王は、これに抗戦し流れ矢にあたって死んだ。百済はこの勝利に乗じて、直ちに都を熯山に移した。

 372年 百済王は、日本への貢物の永久なるべきを内外に誓った。

 375年 百済の肖古王が薨じた。

 376年 百済の貴須王が即位した。

 百済の実際の歴史は、313年楽浪郡滅亡後まもなく馬韓の一国である、伯済国が馬韓の北部を統一し、更に北上して、帯方郡の故地をも併せたというのが真実である。そうであるなら、百済の建国は、高句麗に大進撃した371年をさかのぼる事、半世紀に満たないもので、百済国王というものも肖古王以前に一代か二代が想定されるにすぎないのである。

武寧王(ぶねいおう、462年 – 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 – 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。

木刕満致
父の死で帰国した百済の直支とき王の死(420年)ののち、久爾辛くにしんがあとをついだが、この王は幼少であったので木刕満致が国政をとった。ところが満致は、久爾辛の母(直支王の妃八須夫人) と「相婬けて多に無礼を行」なったので、「(応神)天皇、聞しめして、召す。」とある。また百済記には、かれは「其の父の功を以って任那に専たくめなり。我が国(=百済)に来入て、貴国(=ヤマト、日本)に往還ふ。制を天朝(ヤマト朝廷)に承りて、我が国の政を執る。権重いきおい、世に当たれり。然るを天朝、其の暴を聞こしめして召すといふ」とある。(カッコは何れも引用者)。このように、満致は「合婬」したり、「暴」であったと記されているが、これらは日本書紀によくある表現で、ヤマト朝廷の王族内部や豪族の抗争あるいは戦闘の原因としてさえしばしば記されていることである。しかし、三国史記には、このようなことは書いていない。それどころか、久爾辛王の孫、蓋鹵王21年(475)年の記事には、王が高句麗長寿王の放ったスパイ道琳の計にひっかかり高句麗の攻撃に直面したとき、子の文周を避難させたが、そのとき「文周、すなわち木刕満致と祖弥桀取と南に行けり。」とあるだけである。そしてこの後にふたたび満致のことは出てこないのである。

『日本書紀』の記述
武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(牟太,東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。

継体天皇6年(513年)に、任那の上哆唎(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下哆唎(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)に己汶(コモム、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。

武寧王陵編集

1971年に忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。

誌石には

 斯麻しま王六十二歳癸卯みずのと・う年(523年)五月崩御(以下略)

 と、刻まれていたのだ。斯麻王とは武寧王の事であるが、亡くなった年が、ここに六十二歳と明記してあり、これは日本書紀雄略五年(461年)六月一日の条に「倭国の各羅島で誕生した」と言う記事と見事に整合して、書記の記事が嘘ばかりではないことを示している。
 この点から言えば武寧王の出自も、三国史記・百済新撰(失われた百済史書、日本書紀にその名が上げられている。百済本紀の記事の多くは、この書から材を取っていると思われる)・日本書記それぞれ異なり、誰が父王なのか判然としないが、ここでの書記の正確さから推測すると、書記の書く、蓋鹵王こうろおうが父で王の子を孕んだ王女と一緒に倭国に来た昆支王の弟で、斯麻王子にとっては叔父に当たると言うのが正解と考えられる

百済王として即位した武寧王は、倭国に育った、彼は、独立のプライドも高く高句麗の横暴に我慢することなく、高句麗にたいして猛烈な強硬な姿勢で臨んだ。この武力の背後には、当然ながら倭国王の軍力が控えていることが想像される。いままで、さして強くなかった百済軍は、急に高句麗を蹴散らすように強くなったのである。

 河内国丹比郡 大津神社三座 とある式内社。
 近鉄南大阪線・高鷲駅の南約200m
※由緒
 「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」
とある。

 葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に 「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
とある。この上表文によれば、その系譜は
   始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-
                              -塩君(午定君)-|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
                                         |-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
                                         |-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部として朝廷に仕えたという。
正史上における津史(ツノフヒト)の初見は、書紀・敏達3年(573)に記す、
 「冬十月十一日、船史王辰爾の弟、牛に詔して、姓を賜って津史とされた」
の記事で、その後、淳仁朝・天平法字2年(758)に連(ムラジ)の姓を賜り、桓武朝・延歴9年(790)、勅により菅野朝臣の姓を賜っている(続日本紀)。
 新撰姓氏禄には、これら3氏について、
 ・右京諸蕃(百済) 葛井宿禰  菅野朝臣同祖  塩君男味散君之後也
 ・右京諸蕃(百済) 船連     菅野朝臣同祖  大阿郎王三世孫智仁君之後也
 ・右京諸蕃(百済) 津宿禰    菅野朝臣同祖  塩君男麻呂君之後也
とある。なお、本貫が右京諸蕃となっているのは、清和天皇・貞観5年(863)、その本拠を河内国から右京に移したことによる(三代実録)。
これら3氏が当地一帯に勢力を張っていたことは、日本後紀(841)・延歴18年(799)3月条に記す、菅野朝臣真道等から出された
 「己等の先祖、葛井・船・津3氏の墓地は、河内国丹比郡の野中寺の南にありて寺山と曰ふ。・・・」
との上表文からみて確かのようで(野中寺とは、当社の南東約1.3kmにある古寺で、聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとの伝承をもつ)、日本の神々3(大津神社の項・2000)には、
「当社の創建年代は不明であるが、津連(菅野朝臣と改姓)の氏神として、古くから丹比郡丹下郷の台地上に存在していたものと考えられる」
とあり、諸資料とも異論はみえない。

 その後の経緯として、由緒略記には、
「大津神社は津氏一族の守護神として創祀されたが、津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏族制度が衰退していくと、中世以降には、この地方9ヶ村の人々の氏神として受け継がれ、“河内の大宮”と称えられた」
とある。

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「雄略紀」二三年(四七九)四月条には、昆支の子の東城王が倭国から百済に帰って即位。東城王の後には、五〇一年に弟の武寧王が即位したと記されている。昆支の子が二人も百済王となっており、昆支の弟継体は武寧王の叔父であったわけである。五〇三年(葵未年)に武寧王(斯麻王)が継体(男弟王)に隅田八幡鏡を贈って、継体の長寿を願ったものか?

 478年(雄略22年にあたる年)、倭王武は宋に使者を派遣します。
 有名な「昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。云々」の上表分を副えたものですが、高句麗を共通の敵と考えられますので、倭としては百済救援の要請を含んだ使者であったと思われます。

 『日本書紀』雄略紀
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。是歳、百済調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以撃高麗。
(百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。・・・・)

『日本書紀』の天智8年(669)に有名な一節がある。
”この年、佐平(さへい)余自信(よじしん)・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた”
佐平とは百済国の十六品の官位の最高位である。その百済の最高位にいた亡命貴族2人を筆頭に700余人を蒲生郡に移住させたというのである。今から1335年前のことである。

江戸時代に、近江国蒲生郡小野村(現在の滋賀県日野町小野)の西宮という神社で、石の八角柱が見つかった。「鬼室集斯墓」と記した面が正面で、その右の面に「朱鳥三年戊子十一月八日殂」、左には「庶孫美成造」と書かれていた。朱鳥3年は、持統天皇2年(688年)にあたるが、ただしこの墓石は11世紀以降のものである。

鬼室集斯は、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)を復興すべく、ゲリラ軍を組織して戦った鬼室福信(きしつふくしん)の子供である。おそらく父と共に山城に立てこもり、唐軍を悩ましたこともあったであろう。だが、天智2年(663)8月、我が国が派遣した水軍が唐の水軍と白村江で戦い大敗を喫したことで、百済復興運動は終始符を打った。

百済王 伝説
 7世紀、滅亡した百済の王族は日本の奈良地方に逃れ、その後の動乱から更に九州方面を目指した。
途中、瀬戸内海で時化に遭い、日向の国の二つの浜(日向市金が浜、高鍋町蚊口浜)に漂着後、父は南郷村神門、王子は木城町に移住した。

神門神社

 神門神社は宮崎県の中央部、九州山地の東麓、美郷町南郷区神門にあります。主祭神に大山祀命(おおやまずみのみこと)と百済国伯智王(禎嘉帝)を奉る神社です

銅鏡33面の謎(有形文化財:昭和40年8月17日指定)

 神門神社に伝えられる銅鏡は伝世品と認められ、古墳時代のもの4面、奈良時代の唐式鏡17面、藤原時代の品3面、室町時代以降のもの9面です。
 その中には正倉院の御物(右の写真)、東大寺大仏台座下出土鏡、長屋王邸跡出土鏡、見瀬丸山古墳出土鏡、飛鳥坂田寺跡出土鏡、三重県八代神社、千葉県香取神宮の鏡などに同范鏡(同じ鋳型で造られた銅鏡)を持つことで知られています。右の写真は現在西の正倉院に保管され正倉院の御物と同じ鏡と見なされている「唐花六花鏡」
 いずれも倣製鏡(日本で造られた銅鏡)ですが、これほどまとまった数の鏡が1箇所の神社に伝えられていることは、全国的に珍しく、しかもこの鏡を含む全国的な分布状況には特別な事情が想像できます。この地に伝わる「百済王族の伝説」や当時の文化を考える上で貴重な手がかりとされています。

 ところが南郷地区には、これとは別の百済人の“その後”が描かれている。
 百済から難を逃れてきた人々は安芸の厳島に上陸し、畿内にコミュニティを作った。が、大和政権の動乱に巻き込まれて、畿内を脱出し筑紫の地を目指した。が、瀬戸内海でシケに遭い、百済王族の禎嘉王(ていかおう)は金ヶ浜(日向市)、息子・福智王(ふくちおう)は蚊口浦(高鍋町)に漂着。その後、禎嘉王は美郷町南郷区へ、福智王は木城町に定住することとなった。
 父子はそれぞれの地で亡くなり、神として祀られる。南郷区の神門(みかど)神社の祭神は禎嘉王(ていかおう)である。一方息子の福智王(ふくちおう)は木城町比木神社に祀られた。引き離された父子の魂は毎年12月に行われる「師走祭り」で、再会する。千年以上も続く祭りであるという。

敏達天皇や舒明天皇は、奈良県北葛城郡広陵町百済という地に宮を置いている

 「百済が唐、新羅連合軍に敗れた後、百済王主従が油津に漂着。かなたに五色の雲がたなびく峰を認め、あの地こそ住むところと目指し、鰐塚山のふもとに落ち着いた」
 田野町役場のすぐ近く、田野天建神社に伝わる巻物「大宮大明神縁起」はこう記す。一六九〇(元禄三年)年に書き写され、作者・鵜戸先別当実仙、伝者・清武先大将川崎宮内祐栄、筆写・円智房勢賢。傷みが激しく、現在は公開を控えている。
 百済王主従伝説の裏付けとして、町内には、王が八人の田野の衆と出会った岩屋。月毛の愛馬もろとも墜落死したという井戸の跡がある。以来、この地では井戸を掘らず月毛の馬を養わないという。道中の北郷町にも「小姓の坂」「宿野」などゆかりの地名が残っていた

 田野の百済王主従は、油津から広渡川沿いに北郷へとさかのぼる。再び地図を開き、愕然とした。広渡川は鰐塚山系に源を発していたのだ。五色の雲に導かれた主従は、ようやく鰐塚に至る。

百済の言語は、支配階層と被支配階層によって別れており、支配階層は満州にいた扶 余系の言語であったという。被支配階層は百済の前身馬韓の言語であっただろう。王の ことを支配階層は於羅瑕(オラク?)、被支配階層は鞬吉支(コニキシ)と言ったとあ る。白村江で敗れて百済から倭へ逃げ落ちたのは支配階層が大半であったと思われるが、 その王の呼称がヤマト王権では於羅瑕(オラク?)でなく鞬吉支(コニキシ)であった のはなぜだろうか。受け入れ側のヤマト王権の内部に、百済の被支配階層の末裔が一定 の勢力を持っていたということだろう。ではその被支配階層は何時倭へ渡来したかとい うと、扶余族が馬韓を支配し百済となったころ、まとまりを持って逃げてきたのではな いかと思う。西暦300年代の前半と思われる。百済滅亡の300年以上前のことであ るが、ちょうどこの頃ヤマト王権は奈良盆地から伸展し始めたのである。朝鮮半島との 交易も開始している。
『周書』百済伝 王姓は扶余氏、号は於羅瑕、民は鞬吉支と呼ぶ、どちらも中華で言う王である。妻は於陸と号し、中華で言う妃である。

 神門神社には伝説ばかりではなく、多くの宝物も残されていた。銅鏡三十三面、馬鈴、馬鐸(ばたく)、鉄剣、師走祭りに用いられる銅矛1006本など。特に銅鏡は、逸品が多い。唐花六花鏡は、本家正倉院と同一品。ただし正倉院蔵のものは東大寺大仏殿から出土した品で、神門神社蔵のそれは大切に保管された伝世品。そのほかの鏡も、巨大寺院跡や皇族の屋敷跡から発掘された貴重な品が多い。
 北部九州では新羅系の土器が多く出土していることを合わせると、日向と百済には独自の交易ルートがあったのではないだろうか。