○百済.任那関連主要歴史事実
武寧王即位 五〇一年
聖明王即位 五二三年
聖明王敗死 五五四年
任那滅亡 五六二年
百済滅亡 六六一年(義慈王)
六六四年(扶余豊璋)
高句麗滅亡 六六八年
6世紀中頃、火の国造と同じ先祖をもつ速瓶玉命が阿蘇の国造(阿蘇の君)になる。(旧事本紀)
『日本書紀』宣化天皇元(536)年、天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前那の津まで運ばせた
「姓氏録」 茨田宿禰 多朝臣同祖 彦八耳命之後也。 茨田勝ハ呉国王孫皓ノ後、意富加牟枳君より出ず。
531年 天皇以下全員死亡と記される
梁の『梁職貢図』には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときは倭に属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。
- 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉
537年、新羅が任那を侵略したため、大和朝廷は任那救援軍を派遣した。そのときの将軍が、時の大連(おおむらじ)・大伴金村(かなむら)の息子の大伴狭手彦(さでひこ)だった。狭手彦は兵を率いて半島に渡り、任那の地を鎮め、さらに百済を高句麗からの侵略から救った。
その狭手彦出兵の際、阿利斯登は本家筋にあたる大伴氏から招集をかけられ、手勢を率いて参戦した。そして、任那から百済へと転戦しながら百済の女性と知り合い、現地で生まれたのが日羅だったと推測されている。
ちなみに、出征前に狭手彦が停泊した松浦の長者の娘・佐用姫(さよひめ)との恋物語は、”松浦佐用姫伝説”として今も佐賀県の唐津地方で語り伝えられている
百済の王子恵は帰国を申し出た。そこで倭国は兵器、良馬などを多数与えることにした。また多くの賞を授与した。人々は(恵の人柄を)褒め称えた。
帰路には阿倍臣、佐伯臣、播磨直を同行させて
筑紫国の舟師を引率し、前後を守って百済国まで送り届けた。
それとは別に筑紫火君(百済本記に云はく、筑紫君の児、火中君の弟なりといふ)
を派遣し、勇士1000人で守衛して弥弖港(みてこう、慶尚南道南海島)まで送らせた。筑紫火君には港へ続く道の要害の地を守らせた。
「宣化紀」の屯倉の記事(五三六年)から各地の豪族の様子を見よう
この記事は各地の屯倉から「筑紫」に「穀」を運ぶよう詔勅を出したという記事です。
「夏五月辛丑朔条」「詔曰、食者天下之本也。黄金万貫不可療飢、白玉千箱何能救冷。夫筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢。自胎中之帝泪于朕身収蔵穀稼蓄積儲糧遥設凶年。厚饗良客安国之方更無過此故「朕遣阿蘇仍君未詳也加運河内国茨田郡屯倉之穀」「蘇我大臣稲目宿禰宜遣尾張連運尾張国屯倉之穀」「物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀」「阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永為民命早下郡県令知朕心」
この詔勅の中では、実際に「穀」を運んでいるのはそこを直接支配している豪族です。「尾張連運尾張国屯倉之穀」であり、「新家連運新家屯倉之穀」であり、「伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」です。すると「朕」が指名した「阿蘇の君」の直接支配領域が指定されていて然るべきですが、そこが「河内国茨田郡屯倉之穀」となっています。支配関係が成立していません。
「阿蘇の君」は「未詳なり」と書かれていますが、明らかに「阿蘇の国」を支配している豪族であり、「河内の国」ではありません。
確かに「河内の国」からも「屯倉の穀」を筑紫に運んだのでしょう。そしてそれは「近畿王権」の王(「河内の君」と呼ばれたものかと思われます)が行ったことと思われます。
そして「朕」が運ばせたのが「阿蘇の君」だったのですから、「阿蘇の君」は彼の支配領域である「阿蘇」を含む「肥後」の国から「穀」を「筑紫」に運んだのだと思われます。「肥後」にある屯倉というのは、該当するのは「火国春日部屯倉」だと思われます。
「朕」(倭国王)は彼(阿蘇の君)を使役して「穀」を筑紫に運んでいるのです。なぜ「朕」が「阿蘇の君」を使役するのでしょうか。それは「阿蘇の君」が「朕」に直結する人物(豪族)だったからと考えるのが普通というものです。すると「朕」はどこにいたのか、ということが問題になります。
当然「阿蘇の君」と関係が密接な「火の国」にいたというものです。
『日本書紀』では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。
近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られてい
新羅が高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。
欽明23(562)年
新羅は任那の宮家を滅ぼした。総称を任那といい10国からなる。
「三国史記」、新羅の真興王23年(562年)、加羅がそむいたので異斯夫将軍に加羅を打たせた。
※ 当時、高霊加羅(大加耶ともいう。)が指導的地位を得ていたらしい。
加羅国 安羅国 斯二岐国しにき 多羅国たら 卒麻国そちま 古嵯国こさ
子他国した 散半下国さんはんげ 乞食#国こちさん 稔礼国にむれ
任那(伽耶)滅亡の状況
朝鮮史料『三国史記』の「新羅本紀」第四・第24代真興王・23年条では次のように記す。
<〔真興王23年=562年〕9月、加耶が反乱を起こした。王は異斯夫(イシフ)に命じてこれを討伐させ、斯多含(シタガン)を副将とした。シタガンは五千騎を率いて先鋒隊となり、〔加耶城の〕栴檀門に押し入り、白旗を立てた。城中では恐れおののいて為すすべを知らなかった。イシフが軍隊を率いてやってくると〔加耶軍は〕一度にすべて降服してきた。・・・・・>
その新羅が、561年には大伽揶連合諸国を併合してしまう。威徳王はその年の7月、兵を派遣して新羅の辺境を略奪したが、新羅軍に反撃され一千余名の死者を出した。577年10月にも、威徳王は新羅の西変の州や郡を侵略させた。このときも新羅軍に撃退されている。以後、武王が602年8月に兵を派遣して新羅の阿莫山城を包囲するまで、『三国史記』には百済と新羅の交戦記録はない。
26年(565年)
・高句麗人ツムリヤへら、筑紫に亡命してきたので、山背国に置く。
31年(570年)
・3月、大臣・蘇我稲目が死亡する。
・7月、越の海岸に漂着した高句麗の使者を、新たに造った山城の相楽館に入れてねぎらう。
32年
(571年)
・3月、坂田耳子郎君を新羅に遣わし、任那滅亡の理由を尋問させた。
・4月、天皇の病は重く、皇太子を呼んで遺言である「任那の再興」を直接話した。この月、天皇は崩御した。御年は若干であった。
・8月、新羅から弔問使がやって来た。
・9月、亡骸を檜隈坂合陵に葬った。
敏達天皇元年
(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
2年〔573〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷うのを疑い、吉備海部直難波に高麗使を送り還らせた。
3年〔574〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進調した。
4年〔575〕2月、百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天皇は皇子と大臣に任那のことを怠らないようにといった。4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼の四つの邑の調を進上した。
6年
〔577〕5月、大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月、百済国王は大別王らに経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工六人を献上した。
8年〔579〕10月、新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送った。
9年〔580〕6月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
11年〔582〕10月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
12年〔583〕7月、天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
百済の高官恩率(おんそち)・参官(さんかん)が、徳爾・余奴(よぬ)に「秘かに日羅を殺せば、国に帰ってお前達の働きを王に申し上げ、高い位を授かろう。そして、妻や子供たちを良いようにしてやろう」と言い残して日本を去った後、日羅は桑市村(くわのいちのむら)から難波の館へと移ります。
樟本神社(日羅寺)由来
ここ日羅寺は、物部守屋が籠もった稲城の跡に建てられました。名の由来は、「日羅上人」とも「日羅将軍」とも言われる百済生まれの倭人で、大伴金村大連に随伴して百済に渡った火葦北国造阿利斯登の子です。後に百済の都城の治安守
護にあたる将軍となり、文武両道に秀で信仰心厚く仏教への造詣の深い人物です。
西暦 583 年、敏達天皇勅令により、帰国した日羅の為に、この地(阿都)にわが国最古の寺院の一つとして日羅寺は建
立されました。同じく日羅開基寺院は、鹿児島の鳥羽上皇御命名一乗寺(末寺 65 ケ寺)を始め全国に百数十ケ寺あり、奈
良県の橘寺には国の文化財、木造日羅立像にそのお姿を見ることができます。明治の廃仏毀釈の中、樟本神社分社を境
内にお迎えすることで残されました。
「日本書紀」に
日羅と共に来日した百済の高官が、徳爾(とくに)という低い身分の百済人に、自分たちの船出のあと、日羅を殺すように命じます。
徳爾らは日夜日羅をねらい、殺そうとしますが、日羅には「身の光、火焔の如きもの」があり、恐れて殺すことが出来ませんでした。しかし、12月の晦(つごもり)に、「光失ふを候(うかがい)て」殺されてしまいます。殺された日羅は蘇り、「このこと(日羅を殺したこと)は、私と共に来た使者がやったことだ。新羅の者がしたことではない」と言い、言い終わると死んでしまいました。
天皇は物部贄子と大伴糠手子に、日羅を小郡(おごおり)の西の丘に埋葬させます。と同時に徳爾らを捕らえ、問いただすと、自分の罪を認めたので、朝廷は日羅の親戚にあたる葦北君らに徳爾らを引き渡し、好きなように処分して構わない、と言い渡しました。葦北君たちは、徳爾らを殺し、弥売嶋(みめしま)に捨て、日羅を葦北へと運び、埋葬し直しました。
敏達朝(五七二∫五八五)のことであるが、火葦北ありし国造阿利斯登の子である日羅は百済に仕え、その武官がとどろいていた。阿利斯登が百済の女性とのあいだにもうげた子が目羅であろう。と記されている。
13年〔584〕2月、難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。
敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
敏達天皇
14年(585年)、蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
疫病は更に激しくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上した。天皇は馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。ほどなくして、天皇は崩御した。殯宮で葬儀が行われ、馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。守屋は「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑った。守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。敏達天皇の次には馬子の推す用明天皇(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位した。守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)
同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。
用明天皇元年(586年)穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。
馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。
用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。
排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舍人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。
守屋は物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。
4月9日、用明天皇は崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、
6月7日、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。大阪府八尾市の大聖勝軍寺近くにある物部守屋墓
7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。
守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。この戦いを丁未の乱と称する。
厩戸皇子は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。
用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
元年〔588〕、百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利を献上した。飛鳥の衣縫造の祖樹葉之家を壊して、はじめて法興寺(※元興寺)をつくった。
年〔591〕8月、天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。
法興元世21年壬子(592年)2月18日に太子(聖徳)が妃と一緒に彼寺(長光寺)に御幸した記事がある。
崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
593年 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。
推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。
推古天皇5年〔597〕4月、百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
6年〔598〕8月、新羅が孔雀一羽を貢上した。推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
5年〔597〕4月、百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
6年〔598〕8月、新羅が孔雀一羽を貢上した。
7年〔599〕9月、百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
8年〔600〕2月、新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。
推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。
推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
推古10年〔602〕10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した
新羅は643年に善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。
13年〔605〕4月、高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三百両を貢上した。
推古天皇一七年(六〇九)
筑紫大宰の名が初めて登場し、肥後国の葦北津に百済僧道欣・恵弥ら僧俗八五人が来舶していることを奏上している。筑紫太宰の奏上にこたえて朝廷は、難波吉士徳摩呂と船史竜を遺わし、葦北に来た百済の人々について事情を聴取した。それによると、百済の人々は王命により隋へ行ったが、乱が起っていたので入国できず百済に帰る途中、暴風にあって漂流し、薩摩沖から長島と天草との問より、この葦北津に漂着した。これら百済の人々は約二箇月滞在したようで、この事情を徳摩呂らは朝廷に報告し、朝廷はこれに基いて百済の人々を本国へ送還することを決定し、徳摩呂と竜らを遣わして百済の人々を送り届げることを命じた。
このようた百済人の本国送還の決定をしたのは、筑紫太宰の判断でなく、朝廷の判断であった。おそらく意識的に葦北津に来たのは、日羅との関係ある場所であるところから選んだものと考えられる。これら百済人の中で帰国を拒否した僧は、大和の元興寺に連れていかれた。葦北に留まることは朝廷が認めなかった。
18年〔610〕3月、高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。
19年〔611〕8月、新羅は沙[口彔]部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。
23年〔615〕9月、百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
24年〔616〕7月、新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
26年〔618〕8月、高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万の兵を打ち破ったときに得たものだという。
29年〔621〕、新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
31年〔623〕7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智を派遣し、そろって来朝した。仏像一組・金塔・舎利を貢上した。この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣し、任那の事情を訊いた。しかし使いが帰国しないうちに新羅に軍を出し伐ってしまった。11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢上しようとしているときに攻めてしまったことを悔いた。
648年(大化4)年2月8日、四天王寺の完成
阿倍内麻呂は四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)を四天王寺に招き、大和飛鳥の反政府勢力からの孝徳政府の擁護を四天王に仰ぐべく、四天王像を塔内に安置したと伝える。このときをもって、寺号を正式に四天王寺と定め、四天王寺の造営が完成したという。