熊野国造、阿刀氏、伊予 越智氏、宇摩志麻治命

饒速日の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直(くまののあたえ)の姓(かばね)を賜ったという。

『新撰姓氏録』山城(神別・天神)には熊野連〔饒速日命孫味饒田命之後也〕と見える。

熊野祭祀の起源を考えれば、そこに物部氏族の熊野国造と穂積臣という奉斎者がいて、彼らが古代から奉仕し続けてきた事情がある。そもそも、熊野祭祀自体も、物部氏族と同族の出雲国造が奉斎した同国意宇郡にある熊野大社に源流をもつからでもある。

本宗氏は天武天皇13年(684年)の八色の姓制定にあたって「宿禰」を賜った

左京 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上同祖。
山城国 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
山城国 神別 天神 阿刀連 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
摂津国 神別 天神 阿刀連 – 神饒速日命の後。
和泉国 神別 天神 阿刀連 – 釆女臣同祖。
その氏名は物部守屋の別業があったと伝えられる阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づくとされる。また、人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある
安斗宿禰智徳 – 7世紀末の官人。壬申の乱において大海人皇子(天武天皇)の吉野脱出に従事
阿刀連酒主 – 8世紀中頃の下級官人。平城京の大溝遺構から、自筆と見られる木簡が出土した
阿刀宿禰大足 – 8世紀後半の侍講。大学入学前の空海に諸学を教えた
安都宿禰雄足 – 8世紀後半の下級官人。造東大寺司として活躍

国造
「和田氏系図」によると、熊野国が紀伊国に編入されてからは牟婁郡大領、また熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎したという。

熊野別当
三山を統括する役職としての熊野別当の名称は、「熊野別当代々記」によると、前述の宗教思想上の一体化にやや先行し、9世紀に初見される
この時期の熊野山は、依然として地方霊山の一つでしかなかったが、白河院の寛治4年(1090年)の熊野御幸後、事情は一変する。熊野御幸から帰還した後、白河院は、先達を務めた園城寺の僧侶・増誉を熊野三山検校に補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快を法橋に叙任した[4]。これにより、熊野三山の社僧達は中央の僧綱制に連なるようになった

阿刀宿禰大足 (あとのすくねおおたり)
空海の母方の叔父。
『続日本後紀』承和二年三月二十五日条に、空海は十五歳のとき讃岐国から上京し、大足のもとで学んだことが見える。従五位下だったという。

空海
809:京都高尾山寺(神護寺)に居を定め、最澄は経典の借覧並びに密教修行のため弟子入りを要請した。
812:高尾山寺で真言密教の法灯をかかげ、金剛界結縁灌頂を開壇。
816:高野山を下賜する太政官符が下がる。
818:初めて高野山に登る。
820:伝燈大法師位を授かる。
821:唐の先進土木技術の見聞により、香川県・満濃池(ため池)の修築別当に任ぜられた。
823:官符により東寺(教王護国寺)を下賜される。

跡部神社 (大阪府八尾市) – 河内国渋川郡の式内社。阿刀氏の氏名発祥地とみられる。
阿刀神社 (京都府京都市右京区) – 山城国葛野郡の式内社。阿刀氏の氏神社とされる

風琳堂主人さん(菊池展明氏)のHP
「熊野大神の原像─養老二年の祭祀伝承」
熊野神祭祀と陸奥との関係については、養老二年(七一八)に鎮守府将軍大野東人が熊野神の分霊を迎えたのが起源であり、瀬織津姫が熊野本宮神として、エミシ降伏の祈願神として陸奥にやってきたのだという。

岩手県一関市の室根町、旧室根村のHPには、室根神社の創祀伝承が記載されており、それらをふまえて概ね次のように書かれる。

養老二年(718)、大野東人は鎮守府将軍として宮城県の多賀城にいて、中央政権に服しない蝦夷征討の任についていた。蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征討ができなかったので、神の加護に頼み、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願い出て認められ、その結果、「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴」とその家臣が熊野神の神霊を奉じて紀州から船出して、五ヶ月後に陸奥の本吉郡に着いた。
瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸した地が宮城県の唐桑半島(同県気仙沼市〔旧本吉郡唐桑町〕)である。その舞根(もうね)地区に神を仮安置したのが今の舞根神社(瀬織津姫神社)だとされ、現在も瀬織津姫神社が鎮座する。熊野本宮神は、鎮守府将軍大野東人が受けた託宣により、磐井郡鬼首山、今の一関市室根町の室根山(標高八九五M)へと祭祀地が遷るが、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉[いざなみ]命で、中世に勧請された新宮神は速玉男命・事解男命とされており、瀬織津姫の神名は見られない。

神武天皇と吉野首の祖 井光

「古事記」
その八咫烏の後より幸行(い)でませば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚(な)を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝(いまし)は誰(たれ)ぞ」と問ひ給へば、「僕(あ)は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)といふ」と答へ申しき。 これは阿陀の鵜飼の祖(おや)。 そこより幸行でませば、尾ある人井戸より出で来たりき。その井に光あり。ここに「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(いひか)といふ」と答へ申しき。 これは吉野首(よしのおびと)らの祖なり。すなはちその山に入り給へば、また尾ある人に遇ひ給ひき。この人巖(いは)を押し分けて出でき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は石押分之子(いはおしわくのこ)といふ。天つ神の御子幸行でますと聞きしゆゑ参向(まゐむか)へつるにこそ」と答へ申しき。これは吉野の国栖の祖。 その地より踏み穿ち越へて、宇陀に幸行でましき。

金峰山寺や桜本坊に伝わる『日雄寺継統記』や、旧家に伝わる「吉野本族起立系譜」によれば、「敏達朝ノ頃、百済ノ王子落来テ部民首ニ頂ク」という記事があるという。また『書紀』には、天武十二年冬十月五日に、「吉野首(注九)など十四氏に姓を賜って連といった」という意味の記事がある。

吉野連の系譜

『新撰姓氏録』吉野連の項には、「加弥比加尼(かみひかね)の裔(すえ)で神武天皇が吉野で召して問い給うた白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むすめ)である。名は豊御富(とよみほ)と申していたが天皇は水光姫(みひかひめ)と名付けられた。今の吉野連が祭る水光神(みひかのかみ)これである」というようなことが記されている。
また、吉野眞人の項には、「大原眞人同祖」とあり、この大原眞人の項には「出自謚敏達孫百濟王也(おくりなはびたつのひこくだらのみこよりいづ)。續日本紀合(しょくにほんぎにあへり)。」とあり、「吉野本族起立系譜」の記事との関連が窺える。

丹後風土記残欠の一部に

『笠水訓字宇介美都 (笠水をウケミズと読む)一名、真名井、白雲山の北郊にあり(中略)傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。西は、笠水神即ち、笠水彦命笠水姫命、の二神。これは、即ち 海部直たちの斎きまつる祖神である』

『勘注系図』の倭宿禰は天村雲命の子であり、火明命の3世の孫
倭宿禰命について『勘注系図』は次のように記す。

『またの名御蔭命(みかげのみこと)、またの名天御蔭志楽別命(あめのみかげしらくわけのみこと)、母伊加里姫命(いかりひめのみこと)なり。神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇【神武】御宇參赴(まいりおもむき)、しこうして祖神より傳へ来る天津瑞神寶(あまつみずかんだから)(息津鏡・邊津鏡是也)を献じ、もって仕え奉る。彌加宜社(みかげしゃ)、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也
この命、大和國に遷坐(うつりいます)の時、白雲別(しらくもわけ)神の女、豐水富命(とよみずほのみこと)を娶り、笠水彦命を生、笠水訓宇介美都(かさみずよむうけみず)

海部氏の倭宿禰は、神武が大和王権を樹立した時、大和に赴き神宝を献じて神武に仕えたとする。その大和に居たとき娶ったのが、白雲別の娘、豊水富(とよ みずほ)または豊御富(とよみほ)である。そして『勘注系図』の注記は、豊水富の亦の名を井比鹿(いひか)とする。これは『日本書紀』神武記で、神武が吉野で名を問 うた時答えた「井光(いひか)」と同じである。
またこの白雲別と水光姫命を祭る神社が葛木にある。長尾神社である。

中世の熊野水軍、伊予水軍
政権を執った平氏は瀬戸内海を中心とした水軍を手中に収め、この力を持って対宋貿易の利益を独占するための水軍の取締を進めた。やがて源氏は、紀州の熊野水軍、伊予の河野、村上水軍を手中に収めて、平氏の松浦水軍と壇ノ浦で戦い平氏をことごとく海底に沈めた。

紀州方面に於いては別当氏に代表される熊野水軍が代表格であり、治承・寿永の乱に於いては湛増などが壇ノ浦などで活躍している。これらは後に、九鬼水軍へと引き継がれていく。

また、安芸の小早川氏、伊予の越智氏や河野氏、三浦半島の三浦氏、津軽の安東氏などは、陸の武士であると同時に支配下の沿海土豪からなる水軍を擁した海賊衆でもあった。

白村江 伊予の水軍も参戦
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした。

菴宜物部 (あんぎのもののべ)
「旧」天神本紀に、饒速日命に供奉して天降ったことがみえる。
ウヂ名の菴宜は伊勢国奄芸郡奄芸郷にちなむか。巷宜(そが)と読む場合は、大和国高市郡の曽賀、または筑前国早良郡曽我部郷に縁故のものと考えられる。

奄智蘊 (あんちのかづら)

連姓。奄智は大和国城下郡の奄知村の地名にもとづくか。また、雄略紀二十三年に筑紫安致臣某がみえ、筑紫に安致の地名があったことが考えられる。
宇摩志麻治命の九世孫・物部竺志連公の後裔

丹生酒殿神社  祭神 丹生都比賣命 配神 高野御子命 他  告門の庵太村石口
社記によれば、大和国丹生川上に天降った丹生都比売尊及び一族は崇神天皇の時代、その第一御子高野明神はじめ十二王子、百二十の眷属を従えて三谷の榊山と地に天降ったとある。
古文書には榊を手にして石口の御榊山の御瀧の地であったと記されている。

丹生官省符神社
祭神 丹生都比売大神、丹生高野御子大神、狩場明神
丹生大明神告門に「紀伊国伊都郡庵太村の石口に天降りまして、大御名を申さば恐し、申さねば恐し、イザナギ・イザナミのミコトの御児・天の御陰・日の御陰。ニウズヒメの大御神と大御名を顕わし給いて。川上の水方の峯に上りまして国かかし給い、下りまして・・」とある庵田村に当たる。

三国史記「外伝、金ユ信伝・中条」から。
大王( 新羅文武王、661~668)倭人に謂(かた)りて曰く、惟う(考えてみれば)に、我と爾(なんじ)の国とは、海隔てて、境を分かち来た。(国境が海だったから)かって、交戦*せず、但(ただ)好(友好)を結び、和を講じて、聘門(訪問)し、交通せり。
何が故に、今日、百済と共に悪を同じくして、以て我が国を謀らんとするや。(欺こうとするのか)
今、なんじの軍卒(兵隊)は、我が掌中の中にあり。之を殺すも忍びず。なんじ、其れ帰りて(国に帰って)なんじの王に告げよと。・・・その後 〔文武王は百済を〕降服させた。とあった。
これらの記事は「日本書紀」にない。

image