温祚百済、沸流百済、朱蒙の子

  1. 扶余王の朱蒙の二人の子供、兄の佛流、弟の温祚が、百済の始祖である。また、仇台が始祖とも一説にある。
  2. 「百済本紀」は後世改ざんされているようで、沸流百済、温祚百済、仇台(クデ)百済の3つの歴史を1つの歴史にまとめてしまっています。別の国の可能性もある。
  3. 成帝の鴻嘉三年(前18年)、温祚は河南の慰禮城を都と定め、十臣が補佐したことで、国号を十済とした。沸流はその民を分け、これを彌鄒忽(仁川)で暮らした。沸流は慙悔に耐えず死んだ。その臣民は皆、慰禮に帰参した。後に百姓が喜んで従ってくれたことを感謝して国号を「百済」と改めた。
  4. その先祖は高句麗と同じ扶余の出自ゆえ、扶余を氏姓とした。
  5. 北史や隋書が言うには「東明の後に仇台があり、仁信が篤く、初め帯方郡の故地に立国。漢の遼東太守公孫度は娘を彼の妻とし、遂に東夷の強国となる」。未だこれが誰かを知らず。
  6.  二十七年(10年)夏四月、馬韓を併合し遂に滅亡させた。

『三国史記』百済本紀

百済の始祖は温祚(オンソ)王。その父は鄒牟、あるいは朱蒙という。

北扶余より難を逃れて卒本扶余に至る。扶余王に嗣子がなく、三人の娘しかいなかった。朱蒙を観て、常人ではないと感知し、次女を朱蒙の妻とした。間もなく扶余王が崩じ、朱蒙が嗣位した。二人の子が生まれた。長男は沸流、次男は温祚という(あるいは朱蒙は卒本に至って越郡の娘を娶り、二子が生まれたと言う)。

朱蒙は北扶余で生まれた子を太子として来た。沸流と温祚は太子に排除されるのを恐れ、烏干や馬黎など十人の臣下とともに南に奔った。多くの百姓が従ってきた。漢山(広州)に至り、負兒嶽に登って展望すると、この地に居を構えるべきだが、沸流は海浜で暮らすことを求めた。十臣は「この河南の地は北に漢水(漢江)を帯び、東は高岳に拠り、南は沃沢を望み、西は大海(黄海)が阻み、天険の地の利がある得がたい地勢です。ここに都を創るになんの不都合がありましょうや」と諌めた

沸流は聴く耳を持たなかった。その民を分け、これを彌鄒忽(仁川)で暮らさせた。温祚は河南の慰禮城を都と定め、十臣が補佐したことで、国号を十済とした。これは成帝の鴻嘉三年(前18年)のことである。

沸流の彌鄒忽は湿気が多く、水捌けが悪く、水は塩分を含み、安心して暮らせない。慰禮城はと見れば、都邑は整然としており、人々は安泰に暮らしている。沸流は慙悔に耐えず死んだ。その臣民は皆、慰禮に帰参した。後に百姓が喜んで従ってくれたことを感謝して国号を「百済」と改めた。

その先祖は高句麗と同じ扶余の出自ゆえ、扶余を氏姓とした。

一伝には、始祖は沸流王。その父は優台。北扶余王の解夫婁の庶孫。母は召西奴、卒本の人、延勃の娘。初め優台に嫁ぎ、二人の子を生んだ。長子は沸流、次子は温祚という。

優台が死ぬと、卒本で寡婦として暮らしていた。後に朱蒙が扶余に受け容れられず、前漢の建昭二年(前37年)春二月、南に逃走して卒本に到り、都を立て高句麗と号し、召西奴を娶って妃とした。その開国の創業に甚だ内助の功があり、朱蒙は彼女を特に寵愛して沸流らを自分の子のように厚遇した。

朱蒙が扶余に在ったとき禮氏が生んだ子の孺留が到来すると、彼を立太子したことで、王位が継承されることになった。

ここに於いて沸流が弟の温祚に告げて言うには「初め大王(朱蒙)は扶余の難を避けて、ここに逃げ来り、我が母の家系は家財を傾けて、国造りを助成した。その勤労は多とする。大王が厭世に及ぶと、国家は孺留に属することになった。吾らはここに在って臣徒となり、疣(いぼ)ができたように鬱陶(うっとう)しく、母の家系を奉じることもできない。南に流れて居住すべき土地を求め、別に国都を立てよう」。

遂に弟と一族を率いて、浿水と奄帯水を渡り、彌鄒忽(ミツホル=買召忽県。仁川の昔の地名)に至ってここに居を構えた

北史や隋書が言う「東明の後に仇台があり、仁信が篤く、初め帯方郡の故地に立国。漢の遼東太守公孫度は娘を彼の妻とし、遂に東夷の強国となる」。未だこれが誰かを知らず。

 三年(前16年)秋九月、靺鞨が北境に侵入。王は強兵を指揮して、これを激しく攻撃して大敗させた。賊の生還者は十人に一~二人

四年(前15年)春から夏に旱魃。飢餓で疫病が発生した。秋八月、使者を楽浪郡に遣わして修好(国交)した。

八年(前11年)春二月、靺鞨の賊兵三千人が来襲、慰禮城を包囲した。王は城門を閉ざして出撃せず。十日を経て、賊は食糧が尽きて帰還した。王は精鋭を選抜して追撃し、大斧峴で一戦して勝利した。殺傷、捕獲した者は五百余人。

秋七月、馬首城を築き、甁山に柵を立てた。楽浪太守の使者が曰く「近頃は、国交を結び使者を行き来させ、一家と同様だと意識をしていたが、今、我が領土の近くに城を築き、柵を立てているが、あるいは貴国に(楽浪郡)蚕食の陰謀があるのか。もし旧交に変化がなければ、城や柵を破壊し、猜疑をなくすことである。そうしないのであれば、一戦を以て勝負を決したい」。

王が応えて曰く「要塞を設けて国を守るのは、古今の常道であり、なぜ敢えてこのことで通好を変じるのか、どうか執事はこんなことに疑念を抱かないことである。もし執事が強大な兵力を恃んで派兵すれば、小国もまた待ち受けることになる」。

このことで、楽浪との和睦を失った。

十年(前9年)秋九月、王が狩猟に出て、神鹿を捕獲したので、馬韓に送った。

冬十月、靺鞨が北の国境を侵略した。王は兵二百を派遣して、昆彌川の岸辺で防戦したが、我が軍は敗れ、靑木山に拠って防衛した。王は自ら精鋭の騎兵一百を率いて烽峴に出撃し、孤立した味方を救った。賊軍はこれをみて、すぐに退却した。

十一年(前7年)夏四月、楽浪は靺鞨に甁山柵を撃破させ、殺傷し、あるいは掠奪した者一百余人。秋七月、禿山と拘川に柵を設置し、楽浪の通路を塞いだ。

十三年(前5年)春二月、王都の老婆が男に変わった。五匹の虎が入城した。王母が薨じた。年齢は六十一歳。

夏五月、王は臣下に「國家の東に樂浪、北に靺鞨がおり、わが領域を侵している。安寧な日は少なく、近頃は不吉な兆しがみられ、王母は死去し、国の勢力は不安であり、必ずや遷都すべきであろう。予は先頃、漢水の南を巡視したが、土地は肥沃であった。宜しくここに都を遷し、恒久の安定を図る」と言った。

秋七月、漢山の麓に柵を立て、慰禮城の民戸を移住させた。

八月、使者を馬韓に派遣し、遷都を告げた。そこで領土を確定した、北は浿 水に至り、南は熊川を限りとし、西は大海につき、東は走壤に極まる。九月、城を立てた。

十七年(前1年)春、樂浪が侵入して来て、慰禮城を焼いた。夏四月、廟を建てて國母を祀った。

十八年(西暦1年)冬十月、靺鞨が急襲してきた。王は軍を率いて七重河で迎え撃ち、酋長の素牟を捕らえて捕虜とし、馬韓に送った。その余の賊は全て生き埋めにした。

十一月、王は樂浪郡の牛頭山城を襲撃しようとしたが、臼谷に至ったとき、大雪に遭遇したので帰還した。

二十二年(5年)秋八月、石頭・高木の二城を築いた。九月、王は騎兵隊一千を率いて斧峴の東で狩りをしていたが、靺鞨に遭遇、一戦してこれを破り、捕らえた奴隷を将兵に分け与えた。

 二十四年(7年)秋七月、王が熊川柵を作ると、馬韓王が使者を派遣し「王が初めて河を渡ったとき、足を踏み入れる場所もなかった。吾が東北の一百里の地を割譲して安んじさせた。その待遇は厚かったといえる。宜しくこれに報いる思いがあるべきであろう。今は国家を完成させ、国民も集まり、自分に敵するものはいないと、大々的に城郭を設け、わが国の領土を侵犯している。どういうつもりなのか」と責めた。王は恥じて、その柵を壊した。

二十五年(8年)春二月、王宮の井戸の水が突然溢れ、漢城の人の家で馬が牛を生んだが一首二身だった。占い師が言うには「井戸の水が突然溢れたのは、大王が勃興する兆であり、牛が一首二身なのは、大王が隣国を併呑することに他なりません」。王はこれを聞いて喜び、辰韓と馬韓を併呑する気になった。

二十六年(9年)秋七月、王は「馬韓は次第に弱くなり、上下の心が離れ、その勢いは永くはない。もし他国が併合すれば、唇がなくなれば歯が寒いように、後悔しても遅すぎる。人に先んじてこれを取り、後難を免れるべきであろう」と言った。

冬十月、王は軍を率いて狩りをすると虚言し、秘かに馬韓を襲撃し、其国を併合した。ただ、圓山と錦峴の二城は固く守って降伏しなかった。

 二十七年(10年)夏四月、二城が降った。その民を漢山の北に移住させた。馬韓は遂に滅亡した

三十四年(17年)冬十月、馬韓の旧將の周勤が牛谷城に拠って謀反した。王みずから五千の兵を率いてこれを討った。周勤は自經(首吊り自殺)したが、その遺体を腰斬にして、その妻子も誅殺した。

三十七年(20年)、六月になってやっと雨が降った。漢水の東北の部落が飢饉で荒れて、高句麗に逃亡する者が一千余戸。浿河と帯河の間は住民がいなくなった。

四十年(23年)秋九月、靺鞨が述川城に来寇した。冬十一月、また斧城を襲い、百余人を殺したり、掠め取ったりした。王は強力な騎馬兵二百に命じて、これを撃退させた。

四十六年(29年)春二月、王が薨じた。
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別伝は兄弟で彌鄒忽(仁川)に暮らしたとあり、本伝では彌鄒忽(仁川)ではなく、河南の慰禮城(漢江南岸)に温祚が新天地を拓いたとある。

中国正史は百済の祖は「扶余王の尉仇台」と記しており、内容的にも信頼性が高いことから、温祚はあくまでも三国史記の想像上の人物だと思われる。

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好太王の頃
好太王(こうたいおう、374年 – 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 – 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており[1]、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。また、中国史書(『北史』など)では句麗王安として現れる。

高句麗と前燕が遼東の争奪戦を繰り広げたのは好太王(在位391–413年)の頃で、それが最終的に高句麗の手に落ちたのは404年のこととみられている。ところが、この時期の百済は高句麗との戦争に敗北して58個の城を奪われており、遼西に進出する余力はなかったと考えられるため、それ以前に高句麗が385年に一時的に遼東を占有した時に百済の遼西進出があったと見る学者もいる。これに対し金庠基・金哲埈・日本の井上秀雄らは百済の近肖古王が371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配したと推測している。また申采浩は近仇首王の時、鄭寅普は責稽王・汾西王の時と見る。また遼西計略説の出典である中国の史書は共通して百済伝の冒頭においてその建国・起源・発祥とのかかわりで述べており、解釈によっては夫余王の尉仇台が百済の創設者とも読めることから、遼西を経略したのは百済ではなく夫余であり、遼西経略も帯方における百済建国もともに、公孫氏との同盟下で同時期になされた夫余の対外発展の一環とみる説がある。以上のべたこれらすべての諸説はみな遼西経略時期を404年以前に想定している。ただしこれら以外にも実に多様な数多くの説が存在する