丹後伊根町
丹後半島の東側,日本海や若狭湾に面した,伊根,朝妻,本庄,筒川の4つの村が合併して昭和29年11月に伊根町となった。
伊根は舟屋といって全国でも珍しく下に船のガレージ,上に住居がある建物が並んでいます。満潮時はまるで海に浮かんで見え,観光名所ともなっている。
徐福上陸の伝承
日本海を対馬海流にのって北上した徐福の船は丹後半島にたどり着きました。
丹後半島 日本三景の一つ「天橋立」から北へ,「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に徐福にかかわる伝説が残っています。
冠島
海上に浮かんでいるように見える冠島は常世島(とこよしま)とも呼ばれています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ,丹後半島へ上陸したようです。徐福の求めた不老不死の仙薬とは,この島に生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)です。冠島は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれています。「天火明命」は宮津市にあり伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社の祭神ともなっています。
ハコ岩と新井崎神社
丹後半島では岩が浸食されてできた地形が至るところで見られます。徐福は「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着しました。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って,ここに住みついたと伝えられているのです。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)とも呼びますが,徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われます。ご神体は高さ30㎝ほどの男女二体の木像です。
浦の嶋子の伝承、浦嶋(宇良)神社
新井崎神社から北西に行ったところに浦嶋(宇良)神社があります。淳和(じゅんな)天皇の天長2年(825年)に浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀った神社です。浦嶋子は龍宮城で有名な浦島太郎で,各地にその伝説がありますが,この地の伝承が元になっています。
淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。
別名 宇良神社
浦島大明神 筒川大明神主祭神 浦嶋子
相殿神 月読命
月読神の子孫、浦島太郎
浦嶋子の祖先は月読命の子孫で,月読命の姉は天照大神,弟は素戔嗚尊(須佐之男命)。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国からもどり御祓をして目を洗っていたら右目から生まれたといいます。
日子坐王と丹後
四道将軍(丹後国風土記)の日子坐王は、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治のために丹波に派遣されたとあります。 また、別の四道将軍の吉備津彦は、温羅を攻めました。
陸耳御笠と匹女
第十代崇神天皇の御代、陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛が丹後国の青葉山中に棲みつき、人々を苦しめていました。
朝廷は土蜘蛛を討伐すべく日子坐王(ヒコイマスノキミ)率いる官軍を派遣しました。
敗走を続ける陸耳御笠ら土蜘蛛と日子坐王率いる官軍は、由良川水域で再び激突しました。
この戦闘で匹女が討ち取られ、その血は辺り一面を赤く染めた事から当地は血原と呼ばれるようになりました。
一度は降伏を考えた陸耳御笠でしたが、退路を断つべく川下から日本得魂命(加佐郡一帯の領主)の軍勢が攻めてきた為、一か八かの勝負に出ます。すなはち、河を越えて対岸の日子坐王の本陣を強行突破すべく総攻撃を開始しました。不意を突かれた官軍でしたが、河原に楯をズラリと並べて防備を固めると、蝗(いなご)が飛ぶ如く矢を射掛けました。この戦闘で土蜘蛛の党はほぼ壊滅しましたが、首領である陸耳御笠は行方知れずとなりました。
本陣跡には今でも河守(コウモリ)、楯原の地名が残っています。
駆逐すれども討ち取れず
日子坐王は由良の港で礫を拾い、陸耳御笠の行方を占ったところ、与謝の大山に登った事が解りました。
丹後風土記残缺の記録は、ここで終わっています。
すなはち日子坐王は、青葉山から土蜘蛛を追い払ったものの、首領である陸耳御笠を討ち取る事には失敗している様です。与謝の大山とは現・大江山連邦と思われます。
土蜘蛛の最期
日子坐王と陸耳御笠の戦闘の模様は、以後「但馬世継記」に受け継がれます。
但馬世継記によると、陸耳御笠は海岸伝いに丹後から但馬に敗走し、最期但馬海岸の鎧浦にて日子坐王に討ち取られたとの記録が残っているそうです。
陸耳御笠
丹後風土記残缺では、「笠郡」と記して「ウケノコオリ」と読ませている部位がある事から、陸耳御笠は正しくは「クガミミノミウケ」なのかも知れません。
谷川健一氏は著書『神と青銅の間』の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習を持ち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」とされています。
高三潴の『月読神社』
内に、『高良廟』と刻まれた『額』の鳥居と『塚』は『玉垂命の墳墓』と謂われている
『大善寺玉垂宮』に祀られています玉垂命は、千木は外削ぎの『男神』となっていますが、口伝では、本当の祭神は『女神である』とされており、『謎』の女神となっております。
「高良山には元々高木神(高御産巣日神、)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)とも呼ばれていましたが、玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座した」
大善寺のあたりの月読神
高三瀦廟院 三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とす(略)鳥居に高良廟とあり
大善寺から少し離れた高三瀦の廟院、それは小さな塚で、おそらくは仁徳五五年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥 生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。廟の横には月読神社があった。月読神を「たかがみ」とし、九州王朝の祖神と幻視した室伏氏の仮説 (『伊勢神宮の向こう側』)がある。
『日本の神々5』によれば、築後国の高良大社の祭神について「月神の垂迹」とあり、住吉神とともに神功皇后の船を先導したと云う。 神功皇后渡韓の真偽はともかく、この際に武内宿禰は何をしていたのだろう。お供したようには記されていないが、わざわざ記すとこもない程あたりまえのことだった。 住吉神とともに神功皇后の船を先導した神とは、武内宿禰(住吉神そのものの説もある)、また『播磨国風土記』では御船前伊太氏命、大山祇命など多くの神々の名があげられるのであるが、 月読神は海の支配神でもあり、誕生の支配神とも言えるので、神功皇后の守護に当たる神としてはふさわしい。
山城国葛野郡の葛野坐月読神社
創建の由緒が『日本書紀』に記されている。
顕宗天皇三年(487年)
阿閉臣事代、命を衝けて、出でて任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく。 「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に環りて具に奏す。 奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は。山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。
とある。
壱岐郡の式内の名神大社に月讀神社が鎮座、(名神大)、祭神は中月夜見尊、左月弓尊、右月讀尊とあり、 対馬の古族が日神、壱岐は月神を祀ったのは亀卜と関係しているとのことである。 壱岐の豪族であった安倍氏は後に中臣氏と祖先を共通としたようである。
松尾大社に壱岐から勧請された月読宮社家は伊吉(いき)氏で、卜部氏・中臣氏の 支族。つまり烏賊津使主の子孫 ..伊福部氏は、尾張氏系と物部氏系と大伴 氏系の3系統ある。饒速日尊を祖としている
出雲の月読神
出雲国風土記の嶋根郡の条には、伊佐奈枳命の 御子とされる「都久豆美命」が登場する。
爾佐神社 にさじんじゃ
島根県松江市美保関町千酌
式内社 出雲國嶋根郡 尓佐神社
御祭神 都久津美神 伊弉諾神 伊弉册神
相殿 天忍日命 大山咋命 宇賀命
島根県美保関から松江へ向かう途中の分岐点で、日本海側へ抜ける。北浦で左折し千酌の町。日本海に面した港に鎮座。
創祀年代は不詳。式内社・尓佐神社に比定されている古社で、出雲国風土記に「爾佐社」とあり、爾佐三社と呼ばれている神社。
三社というのは、三柱の祭神を祀るためだろうか。 祭神について出雲国風土記、嶋根郡千酌駅の由来に、「伊差奈枳の命の御子、都久豆美の命が、この地で生まれなさった。そうだから当然ツクツミというべきであるが、今の人は従来どおり千酌(チクミ)と名づけている」とある。
都久津美神に関しての事績は不詳。一説には、音の類似からか月読命とする。
相殿の神々は、氏賀神社の天忍日命、松尾神社の大山咋命、竹生島神社の宇賀命。
境内はきれいに整理され、となりが学校(幼稚園)。『神社名鑑』に神紋は扇とあるが、正確には地紙(扇の骨なし)。
本殿の左右に境内社が二つずつ。左手に、惣御前神社と日吉神社。右手に、日御碕神社と加茂・新宮神社。
大伴氏の祖、天忍日命 あめのおしひのみこと
別名 神狭日命:かむさひのみこと
天押日命:あめのおしひのみこと
邇邇芸命の天孫降臨において、天津久米命と共に天之石靫を取り負い、頭椎の太刀を取り佩き、天のはじ弓を取り持ち、 天の真鹿児矢を手挟んで先導した神。
『古語拾遺』では、高皇産霊神の娘・栲幡千千姫の子で、また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟とある。
信濃國佐久郡 大伴神社
御祭神
天忍日命(大伴氏祖神) 天道根命 月読命
合祀 御嶽社
素盞嗚尊 大己貴命 少名彦命 他 明治合祀十数柱
中山道、「望月の宿」にある。望月城の南、歴史資料館のそば。役場などの並ぶ通りに入口があり、階段上が境内。
社伝によると、景行天皇四十年の鎮座。式内社・大伴神社に比定されている古社で、大伴宮、樋口宮とも称された神社。もとは現在地の北数百mの「椀ノ木」に鎮座していたと云い、現在、古宮などの地名が残っている。
大宝年間、諸国に牧場が設置されたが、当地は、高原台地にあり牧草地に適した場所。
祭神・天忍日命は大伴氏の祖神で、大伴武日命とも呼ばれている。祭神が馬に乗ってこの地へ来られ、鎮座。乗って来た馬を種馬として駒の改良繁殖をはかリ、この地は、多数の馬を産する地となって、信濃国最大の望月牧へと発展したという。
社伝によれば、景行天皇四○年の鎮座と言い伝えられている。大宝年間(七○一~四)諸国に牧場(官牧)が設定され、千曲川・鹿曲川に境した七○○メートル乃至 八○○メートルの高原台地に牧草に適した草が繁茂し、そ の広さ三○○○余町歩、これが朝廷直轄の牧場となり、 所謂望月牧である。これを維持、管理する牧監が即ち早く この地に土着して一大豪族となった大伴氏を祖とする望月氏が朝庭より任命され、長倉牧・塩野牧の長官をも望月氏 が兼任した。