気比神宮

気比神宮(福井県敦賀市曙町) 越前国一宮
祭神 伊奢沙別命(気比大神・御食津神)
仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉妃命、武内宿禰
社家 気比氏
神祇伯大中臣意美麿がその祖とされているが、吉備氏の支族である角鹿氏・鶴岡氏も気比神宮の大神禰宜を勤めたものがあり、吉備氏系かもしれない。少なくとも、創建当初の社家は、吉備氏系の角鹿氏であったろ。

古代敦賀は朝鮮半島の交通の基点であると共に、若狭湾の海人の本拠地であった。「記」の応神天皇の段で、和邇氏の宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)に出会った時に天皇が歌った「角鹿の蟹」の歌謡や、武烈紀の「角鹿の塩は天皇の所食とし」の記事は、角鹿の海人が塩や魚介類を朝廷に献上していたことを物語っている。御饌津神という名はここから付いたものだと思われる。(「海人の藻塩」参照)
まだ太子だった応神天皇は武内宿禰に連れられて、禊をするために近江・若狭を巡り、越前の角鹿(敦賀)に仮宮を建てて暫らく住み、当地の伊奢沙和気(いざさわけ)大神と名前を交換したという。
伊奢沙和気大神はその徴の贈り物として、翌朝、鼻の傷ついた海豚で周辺の浦をいっぱいにしたという。そこで応神は、その神の名を称えて「御食津神」と名付けた。それで「気比大神」というのだそうである。御饌津神というのは豊宇気毘売神や保食神などの食物神のことで、いかにも海人系の名前だ。真名井神社(籠神社の奥宮)から勧請された、伊勢外宮の豊受大神とも関係あるように思う。
また、上記に述べた通り、創建当初の社家は吉備氏系の角鹿氏であったと思われるので、この「名替神事」は、吉備氏と息長氏の婚姻を示すものではないか? 吉備氏は息長氏と同じく「作金者」であり、当気比神宮の祭神の一人、日本武尊の一族である。

若狭彦神社(福井県小浜市、上社は龍前、下社は遠敷) 若狭国一の宮
祭神 上社:若狭彦神(彦火火出見尊)、下社:若狭姫神(豊玉毘売命)
    遠敷明神・白石大明神とも
祖神 鴨別命
社家 笠氏
社伝には和銅7(714)年9月、若狭彦神が下根来村の白石に影向せられたので、鵜瀬川のほとりに仮殿を営んで奉斎したのが始まりとあるが、東大寺と関係が深いことから考えると、大仏建立の為の水銀鉱脈を求めて、金工鍛冶の技術を持つ吉備氏系の笠氏が、若狭に入植したのがこの頃なのではないだろうか。因みに社務家の直接の祖となる笠節文の父で、陰陽博士の笠名高が没したのが貞観13(871)年という記録があるから、笠氏が正式に奉祀するのはもっと後である。
古代から御食国としての若狭を支配していたのは、阿倍氏系の膳氏であった。若狭姫神が豊玉毘売命とされるのは、その辺りに理由があるのではないか。しかし本来は、「若」の字と、下社が遠敷(おにゅう=丹生)の地に鎮座することから、別名が稚日女(わかひるめ)尊といわれる丹生都比売神だったのではないだろうか。
当地は遠敷川の辺にあり、奈良東大寺二月堂の若狭井に通じていると伝えられ、毎年3月2日のお水取には、遠敷川の鵜の瀬で「お水送り神事」が行われる。神事を司るのは、通称「お水送りの寺」といわれる若狭神宮寺(福井県小浜市神宮寺・本尊阿弥陀如来)の住職である。この寺は天台宗で延暦寺直末寺にあたり、和銅7(714)年に泰澄法師の弟子滑元の草創という。
詳しい神事の内容は省略するが、送水文を読み上げて、「香水」を川に流すのもこの住職であり、明らかに泰澄の霊水信仰と関係がある。その証拠にこの神事には、赤土を丸めたものを舐めるという風習があるからである。「丹土」に詳しく述べたが、これは辰砂つまり丹生が不老長寿の丹薬として服用されていた名残と考えられる。遠敷は古くは「小丹布」とも書かれ、丹生の産地であった。丹生は川や井戸から採取された為、水の信仰と結びついたものと思われる。
若狭は、人魚の肉を食べて不老不死となり、800年生きたといわれる白(八百)比丘尼の生誕&入定地として知られる。不老不死というのが、仙薬の材料である丹生との関係を窺わせる。実際、丹生都比売神社の境内にある鏡ガ池には、白比丘尼の伝説が残っていることからも、若狭姫・丹生都比売(稚日女尊)・白比丘尼には、なんらかの関係があったことが分かる。