崇神十年、孝元天皇皇子の武埴安彦命(タケハニヤスヒコ)が反乱した。
第8代孝元天皇の子の武埴安彦(たけはに・やすひこ)は妻の吾田姫とともに、
全国統一をすすめる祟神天皇に対抗して、木津川で大激戦を行いました。
タケハニヤスヒコは山背から、妻の吾田媛(アタヒメ)は大坂から、同時に大和に攻め込もうとした。このとき、実際に防戦した将軍は、春日王家ワニ氏の彦国葺(ヒコクニフク)と、孝霊天皇皇子の五十狭芹彦命(イサセリヒコ)であった。
山背にあった武埴安彦命は、河内にあった妻の吾田媛と蜂起。大和を挟撃しようと軍勢を興す。が、それを予見した倭迹迹日百襲媛命の進言により、四道将軍の大彦命と、和邇氏の祖、彦国葺命が山背へ向かい武埴安彦の軍勢を撃ち破る。河内へは同じく四道将軍の吉備津彦命が向かい、吉備津彦命は吾田媛を討ち、武埴安彦命の謀反は鎮圧された。
孝元天皇の子の武埴安彦は、結局政府軍に敗れ、兵隊は潰走し、石清水八幡宮あたりに辿り着きます。
八幡の地で甲(かぶと)を脱ぎすてて逃げたため、伽和羅(かわら)と日本書記で記載され、甲作郷とよばれます。
後に、その甲作郷で甲冑や武器の製作集団を掌握した
味師内宿禰 (うましうちのすくね)は、孝元天皇の孫にあたり、武内宿禰の異母弟とも言われます。
日本書紀に、この時、吾田媛が密かに天の香具山の土を取りに来て、「是、倭国の物實、」と言った、とある。
天の香具山に天神地祇を祀る土器を造る聖なる土があり、その土を吾田媛が盗みに来て、密かに呪いごとをしたという。武埴安彦命に埴安神との共通点「土」の逸話が拘わる。聖なる埴土で祭器を造り、その神威で国土を安らげることが「埴安」。その神格化が埴安神なのであろう。
武埴安彦命の妻、河内の吾田媛は「吾田の海人氏族」に拘わる媛であろうか。
吾田媛 あたひめ. 河内隼人の首領
「日本書紀」にみえる武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の妻。
崇神(すじん)天皇10年香具山(かぐやま)の土で天皇を呪詛(じゅそ)し,夫とともに挙兵したが敗れ,殺されたという。」
葛城系の孝元天皇が磯城系の穂積臣の内色許売命を娶って生んだのが開化天皇、河内の青玉の女波邇夜須毘売を娶って生んだのが健波邇夜須毘古(武埴安彦)である。皇位奪回の企てであるが、失敗に終わっている。
古事記・日本書紀共に、その孝元天皇の条に
「(孝元は)河内青玉(カワチアオタマ・書紀ではカワチアオタマカケ)の娘・ハニヤスヒメを娶ってタケハニヤスヒコを生んだ」
とある。父・河内青玉の出自は不明だが、河内を冠することから河内国と関係があるのかもしれない。因みに、崇神紀は、タケハニヤスヒコは崇神10年に反乱を起こし討伐されたが、その時、逃げる兵が追いつめられて屎をもらした。その袴から屎が落ちた処を屎袴(クソバカマ)といい、今の樟葉(楠葉・クズハ・枚方市)はこれが訛ったものである(大意)、との地名説話を記している。
葛城の穂積氏、その子の開花天皇系に対する河内の反乱か?
開花天皇は、孝元天皇の第二子であり、母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)。
同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。
妻子は次の通り。
皇后:伊香色謎命 (いかがしこめのみこと) – 元は孝元天皇の妃。
第二皇子:御間城入彦五十瓊殖尊 (みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) – 第10代崇神天皇。
皇女:御真津比売命 (みまつひめのみこと:古事記) – 日本書紀なし。
妃:丹波竹野媛 (たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘。
第一皇子:彦湯産隅命 (ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)
妃:姥津媛 (ははつひめ、意祁都比売命) – 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
第三皇子:彦坐王 (ひこいますのみこ、日子坐王)
妃:鸇比売 (わしひめ) – 葛城垂見宿禰の娘。
皇子:建豊波豆羅和気王 (たけとよはづらわけのみこ:古事記) – 日本書紀なし。
山城の國の風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮(應神天皇)に御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子(仁德天皇弟)、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。本の名は許乃國と曰ひき。
崇神天皇10年9月27日条によれば、四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟、阿倍臣祖)が北陸への派遣途中で不吉な歌を歌う少女に出会ったため、大彦命は引き返して天皇にこのことを報告した。そして倭迹迹日百襲媛命の占いによって武埴安彦とその妻の吾田媛の謀反が発覚する。
果たして武埴安彦は山背から、吾田媛は大坂(現・奈良県香芝市逢坂付近)から大和へと攻め入ったが、かえって吾田媛は五十狭芹彦命(吉備津彦命、四道将軍の1人)に、武埴安彦は大彦命と彦国葺(和珥臣祖)に討ち取られた。
その際に武埴安彦と彦国葺とによる矢の射ち合いとなったが、まず先に放った武埴安彦の矢は当らず、次に彦国葺の放った矢が武埴安彦の胸に当たったという。これによって武埴安彦の軍は崩れ、半数以上が斬られて鎮圧された。
タケハニヤス彦は京都の南山背の王である。
山背の地名は最古は「開木代」と表記してあり、木を切って山を切り開いたという地名である。南山背は、巨椋湖に流れ込む木津川の両側であろう
山城の國の風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮(應神天皇)に御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子(仁德天皇弟)、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。本の名は許乃國と曰ひき。
孝元天皇の庶子で、生母は埴安媛で河内青玉繋の女である。そういうわけで、幼い頃から、外戚の影響で河内と深い関係にあった。
大阪には武埴安彦ゆかりの史跡なども残っている。崇神天皇10年の武埴安彦の乱では、彼の妃の吾田媛が大坂から大和を攻めようとしたことからも理解できる。
山城の國の風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮(應神天皇)に御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子(仁德天皇弟)、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。本の名は許乃國と曰ひき。
祝園神社
(京都府・相楽郡・祝園・柞ノ森)
ご祭神:天児屋根命 建御雷命 経津主命
祝園神社(ほうその)は京都府の南東の端、奈良との県境にある式内社で、
相楽郡・祝園・柞ノ森(そうらく・ほうその・はそのもり)という難しい地名です。
崇神天皇の政府軍と対立した武埴安彦の軍はこの地で破れ、半数以上が斬られるなどの大惨事になりました。
この時、武埴安彦は祝園で斬首され、首が木津川対岸の涌出宮まで飛んだとも、
その逆とも伝わります。
この地で斬首された武埴安彦や兵士の魂が亡霊となって柞ノ森(ははそのもり)に留まり、人々に恐れられていました。
この怨念を鎮めるため、奈良時代の称徳天皇(718-770:孝謙天皇)の勅命により、春日大明神を勧請して創祀されたのが祝園神社であるといわれています。
当地方には宇治宿禰の一族が住んでいたといわれている。宇治宿禰は饒速日命(にぎはやひのみこと)六世の孫とされており、出雲族との繋がりを示している。更に三室戸寺の十八神社の由来に「初め三輪御諸山明神(大物主命)を祀った」とあることから、当地方には古く縄文時代から弥生時代にかけて渡来系の出雲族が進出していたようである。
「宇治部」は一般的には15応神天皇の皇子「宇治若郎子」の「御名代」である。
一般的であるが、宇治部を統括したのは、「宇治連」といい、ニギハヤヒの6世孫伊香我色雄の裔である物部氏だとされている。これが「天武13年」宇治宿禰姓を賜っている。
山城宇治に本拠地を有していたとされている。
また当地方は秦氏との係わりも強い。古代の山城地方は秦氏の居住地として名高い。正倉院に残る「山背国愛宕郡(おたぎぐん)出雲計帳」によれば、和銅元年(七〇八)頃の出雲郷は現在の下鴨神社、出雲路橋周辺であるが、神亀三年(七二六)には出雲郷雲上里、雲下里に分かれていた。郷主にも殆ど出雲臣がついていた。
三室戸にある新羅神社
京阪電車三室戸寺駅の近くに日本三名橋の一つである宇治橋がある。橋の遥か後方に見える明星山の中腹に三室戸寺がある。三室戸寺の参道は明星山の山裾にあるので、樹木が繁る登り道である。参道の入り口に小さな川がある。この川は明星山に発し寺の境内を流れ宇治川に注いでいる。小さな橋を渡るとすぐ左側に大きな石の明神鳥居がある。鳥居には石の扁額が掲げてあり「新羅大明神」と書かれている。文字も額の周囲も朱色である。石の鳥居の奥にもう一つ朱色の木造鳥居がある。その背後に石段が五段ほどあり、石垣で囲まれた台地に社殿がある。社殿は高さ二~三m、間口・奥行とも一・五mほどの切妻、平入りの建物。照り屋根、桁行一間、梁間二間社流造。柱と貫と屋根は鳥居と同じ朱塗りである。側面は白色の板壁になっている。社殿は下が高床式の箱型の台座になっており、神座は上壇にある。
森羅大明神の扁額鎮座地は宇治市菟道滋賀谷。祭神は素盞鳴命と五十猛命である。三室村の辺りは古来、神在ますところとして信仰されてきた。御室の里と言われ、三室戸寺も御室、御室堂といわれた。三室戸の戸の文字は堂の転化したものか、または場所・入り口を指し、神座を意味するといわれる。その神座は「みむろ山」と呼ばれた明星山を指している(『宇治市史』)。井上香都羅『みむろ物語』によれば、「みむろ」の意味は三室山にある岩室からきており、弥生時代に一族の長など首長級の者が死んだ場合、山の岩室に葬った。この死者の霊の宿る岩室を「み室」と呼び、子孫たちは祖霊の宿る山の正面を祭祀の場に定め、年に一度か二度祖霊の祭りを行った、という。現在この山の山頂付近には盤境らしい露岩の点在が見られ、この山を神の降臨する所として古代の住民の信仰の跡がうかがえる。またそこには康和年間(1099―1104)に三室戸寺を中興したと伝えられる三井寺の僧隆明の墓があるとされ、聖域となっている。