欽明2(541)年
当時、新羅と百済は加羅取りを狙い、高句麗に警戒しつつ倭を利用した。
欽明16年(555年)
・2月、百済王子・惠(ケイ=余昌の弟)が渡来し、聖明王の戦死を告げる。蘇我稲目は惠に次のように述べた。
「昔、雄略天皇の時代に、百済は高句麗に攻められ危うく滅びるところだったが、天皇は神祇を重んじ<国を建てた神>を勧請して救援したので、ようやく社稷が安定し、平穏になった。その神とは天地が開けたときに天から降り、国家を造り立てなさった神で、聞く所では百済はその神を祭るのを疎んじているとか。悔い改めて神を宮に祭りなさい。そうすれば国は栄えるのです…」
・7月、蘇我稲目、吉備の五郡に白猪屯倉を置く。
17年(556年)
・正月、百済王子・惠を百済に送るため、阿部臣・佐伯連・播磨直らを派遣し、筑紫の水軍を徴収した。中でも筑紫の火君は勇士千人を率い、百済まで惠を護送した。
・7月、蘇我稲目らを備前の児嶋郡に派遣し、屯倉を置かせた。
・10月、蘇我稲目らを遣わし、大和の高市郡に韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉を、また紀の国に海部屯倉を置かせた。 ・火君…肥君のこと。本源は肥後・肥前をカバーする大族。
18年(557年)
・3月、百済の王子・余(餘)昌が聖明王の後継となった。威徳王である。 ・威徳王は第27代。『百済本紀』では554年に継ぐとしてある。
21年(560年)
・9月、新羅がミシコチナマを遣わして朝貢して来た。
22年(561年)
・新羅がクレシクホッカンを遣わして朝貢して来たが、待遇は前年のミシコチマナより劣っていたので、クレシクは恨みに思った。また、ヌテタサを遣わして来たが、百済の使者よりも劣る序列となった。帰る際に穴門に館を造っていたのでヌテタサが問うと、「礼無き新羅の使者の宿泊する館だ」と言わたので、それを本国に帰って告げると、本国では新たに城塞を構えて日本に備えた。
23年(562年)
・正月、新羅が任那を滅ぼした。
・7月、大将軍・紀男麻呂、副将・河邊臣瓊缶を遣わし、任那の状況を検分させた。河邊臣瓊缶は新羅軍が降伏の白旗を挙げたのに、自分も白旗を掲げて新羅陣中に入って却って囚われる。
・8月、大将軍・大伴狭手彦に数万の兵を率いらせ、高句麗を攻める。
欽明23(562)年
新羅は任那の宮家を滅ぼした。総称を任那といい10国からなる。
「三国史記」、新羅の真興王23年(562年)、加羅がそむいたので異斯夫将軍に加羅を打たせた。
※ 当時、高霊加羅(大加耶ともいう。)が指導的地位を得ていたらしい。
加羅国 安羅国 斯二岐国しにき 多羅国たら 卒麻国そちま 古嵯国こさ
子他国した 散半下国さんはんげ 乞食#国こちさん 稔礼国にむれ
任那(伽耶)滅亡の状況
朝鮮史料『三国史記』の「新羅本紀」第四・第24代真興王・23年条では次のように記す。
<〔真興王23年=562年〕9月、加耶が反乱を起こした。王は異斯夫(イシフ)に命じてこれを討伐させ、斯多含(シタガン)を副将とした。シタガンは五千騎を率いて先鋒隊となり、〔加耶城の〕栴檀門に押し入り、白旗を立てた。城中では恐れおののいて為すすべを知らなかった。イシフが軍隊を率いてやってくると〔加耶軍は〕一度にすべて降服してきた。・・・・・>
26年(565年)
・高句麗人ツムリヤへら、筑紫に亡命してきたので、山背国に置く。
31年(570年)
・3月、大臣・蘇我稲目が死亡する。
・7月、越の海岸に漂着した高句麗の使者を、新たに造った山城の相楽館に入れてねぎらう。
32年(571年)
・3月、坂田耳子郎君を新羅に遣わし、任那滅亡の理由を尋問させた。
・4月、天皇の病は重く、皇太子を呼んで遺言である「任那の再興」を直接話した。この月、天皇は崩御した。御年は若干であった。
・8月、新羅から弔問使がやって来た。
・9月、亡骸を檜隈坂合陵に葬った。
任那四県の割譲・・・任那西部に属する上多利(オコシタリ)・下多利(アルシタリ)・娑陀(サダ)・牟婁(ムロ)の四県を百済が乞うたのを、大伴金村が賛成し、結局その通りになった。翌年は以上の四県より内陸にある己紋(コモン)・帯沙(タイサ)まで百済に譲っている。
任那は加羅、百済、新羅とともにかの「高句麗広開土王碑」(4世紀末建立)に記載されている古い実在名称で
、魏志倭人伝の時代には「弁韓」と呼ばれていた地域とほぼ重なる。安羅・加羅・卒麻・散半渓・多羅・斯二岐・子他(23年の正月条の割注にはこれらに加えて古嵯国・乞サン(にすいに食)国・稔禮国の3国がある)の諸国にはそれぞれ首長が居る。安羅は今のカンアン、加羅は今の金海、卒麻は密陽、などと比定されているが、いずれも確証は得られていない。
紀臣奈率ミマサ・・・百済の倭系官僚。このほか巨勢氏や物部氏などの出自で百済の高級官僚になっている者がいる。奈率は百済の官僚では上位から6番目である。
因みに百済の官制は16等制で、最高位は佐平(王族)で、達率、恩率、徳率、扞率、奈率・・・と続く。敏達天皇の時に百済に居た火の国葦北の国造アリシトの子・日羅は佐平に次ぐ達率の地位にいた。
河内直・イナシ・マツ・・・河内直、イナシ(移那斯)、マツ(麻都)は当時、安羅日本(倭人)府を支配していたが、新羅に通じていた。新羅は彼らを通じて任那全体を日本本土の勢力から切り離し、新羅への属国化を図っていた。