柿本人麻呂が草壁皇子(日並皇子)の殯宮のときに詠んだ挽歌は、宮廷歌人としての人麻呂が公の儀礼のために詠んだ挽歌
草壁皇子は天武天皇と持統天皇(皇后)の間に生まれ、皇太子として天武天皇の後継を嘱望されたものの、皇位に就くことなく息子の軽皇子(後の文武天皇)を残して28歳で薨去
日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌
天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天の河原(あまのかはら)に
八百万(やほよろづ) 千万(ちよろず)神の 神集ひ 集ひ座(いま)して
神分(かむはか)り 分りし時に 天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の命
天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を
天地の 寄り合ひの極 知らしめ柿本朝臣人麻呂す 神の命と
天雲の 八重かき別(わ)けて 神下(かむくだ)し 座(いま)せまつりし
高照(たかて)らす 日の皇子(みこ)は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に
神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と
天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ
吾が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知らしめしせば
春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと
天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて
天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し
御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問(みことと)はさず
日月 数多(まね)くなりぬる そこ故に 皇子の宮人(みやひと)行方知らずも
反歌二首
ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも
あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の 夜渡る月の 隠らく惜しも
安騎野遊猟歌
軽皇子は、天武天皇と持統皇后(天皇)の間に生まれた皇太子草壁皇子の子である。父の草壁皇子は皇位に就く前に若くして亡くなったので、軽皇子は早くから後継として期待されていた。この安騎野遊猟歌は、軽皇子が父の死の3年後10歳のときに安騎野に狩りに出かけたときのものである
東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ
東野炎 立所見而 反見為者 月西渡
(万葉集1・48)
この歌は「軽皇子の安騎の野に宿りましし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」と題された長歌・短歌4首の組み歌、いわゆる「安騎野遊猟歌」(万葉集1・45~49)の中の一つである。
安騎野は現在の奈良県宇陀市旧大宇陀町一帯の小さな盆地で、古くから狩猟地として知られる。
輕皇子宿 于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌
軽皇子、安騎あきの野のに宿やどります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌
(長歌)
45 八 隅知之 吾大王 高照 日之皇 子 神長柄 神佐備世須登 太 敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬 山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉 限 夕去来者 三雪落 阿 騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎 押靡 草枕 多日夜取世須 古 昔念而
やすみしし 我わが大君おほきみ 高たか照てらす 日ひの御子みこ 神かむながら 神かむさびせすと 太ふと敷しかす 都みやこを置おきて こもりくの 泊はつ瀬せの山やまは 真木まき立たつ 荒あらき山やま道ぢを 石いはが根ね 禁さへ樹き押おしなべ 坂鳥さかとりの 朝あさ越こえまして 玉たまかぎる 夕ゆふさり来くれば み雪ゆき降ふる 安騎あきの大おほ野のに 旗はたすすき 小し竹のを押しなべ 草くさ枕まくら 旅たび宿やどりせす いにしへ思おもひて
万葉集巻一にも、舒明 天皇(在位629~641)が伊予の湯宮(道後温泉)へ海路で行幸した帰りに讃岐の安益郡(綾歌郡)に立ち寄ったとき、その従者の軍王が山を見て作ったという歌が載っています。
霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらぎも)の 心を痛み 鵼子鳥(ぬえこどり)うらなげ居れば 玉襷懸(たまだすきかけ)のよろしく 遠つ神 わご大君の 行幸(いでまし)の 山越す風の 独(ひとり)居る 吾が衣手に 朝夕に 還らひぬれば 大夫(ますらお)と 思へる吾も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海処女(あまおとめ)らが 焼く塩の 思ぞ焼くる 吾がしたごころ
反歌
山越(やまごし)の 風を時じみ 寝(ね)る夜おちず 家なる妹(いも)を かけてしねびつ
「軍王」と称する人物が舒明天皇の行幸に供奉した際に作った和歌が収録されているが、この「軍王」を「こにきしのおおきみ」と読み、豊璋のことではないかと見る説がある。