菟原郡(うばらぐん)
兵庫県(摂津国)にあった郡であり、神戸市東灘区の全域、灘区の大部分(六甲山町の一部を除く)中央区の一部(生田川以東)である。
菟原郡がはじめて歴史に見えたのは769年(神護景雲3年)である(『続日本紀』)。菟原の名は『和名抄』では「宇波良」、『伊勢物語』では「むはら」、『延喜式』では「菟原」、『拾芥抄』では「兎原」とも書いた。地名の由来は「海原」が転じたという説と六甲山の野原に兎が多く駆け巡っていたからという説がある。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社は、以下の三社。
- 河内国魂神社 兵庫県神戸市灘区国玉通
大国主西神社 兵庫県西宮市社家町 西宮神社境内末社 (論)越木岩神社 兵庫県西宮市越木岩町
保久良神社保久良神社 兵庫県神戸市東灘区本山北町
本住吉神社 神戸市東灘区住吉宮町7-1-2
兎原住吉社とも称す。
社伝では当地は「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に記す神功皇后が住吉三柱神を鎭祭した大津停中倉長狭にあたり、のち住吉郡に鎮座される摂津住吉神社の本地という。
住吉三神は摂津国住吉郡の他、同国菟原郡・周防国・筑前国・壱岐国・対馬国に祭られ(『延喜式』神名)、また仲哀記では新羅国王の門に祭ったとするように、朝鮮半島への航路と深くかかわった神であるとわかる。底筒之男・中筒之男・上筒之男の住吉三神の出現は記紀では伊邪那岐命の日向の橘の小門の阿波岐原での禊祓条に、祭祀のことは紀神功皇后摂政元年2月に語られる。しかし、万葉集で住吉三神にかかわる表現がみえる歌は3首(石上乙麻呂卿土佐国配流の時の歌、733(天平5)年の遣唐使関連の歌)だけである。
住吉神社の旧地に、住吉宮町遺跡のなかに本住吉神社がある。同社が明治の旧県社であったものの、延喜の式内社ではなかったこともあって、上記「渟中倉の長峡」(『摂津国風土記』逸文の住吉条には「沼名椋の長岡の前」)はこの神社と考えられる。
三韓から帰国した神功皇の船団が、難波の近くまで来ると急にくるくると回って進まなくなった。そこで、いったん務古水門に船をつけ占いをしてみたところ、表筒男(うわつつお)・中筒男(なかつつお)・底筒男(そこつつお)の三柱の神が現れ「大津の渟名倉(なぬくら)の長峡(ながお)にわれをまつれ。さすれば船の旅行を守護しよう」と告げられた。
菟原処女の伝説
摂津西部の菟原(うはら)郡(芦屋市から神戸市東部辺りの沿岸地域)には、古くは『万葉集』に歌われ、奈良時代から語られてきた「菟原処女(宇奈比処女。うないおとめ)」の伝説がある。その概要は、次のようなものである。
「 葦屋に菟原処女という美しい娘がいて、多くの若者から思慕され、中でも同じ郡の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ。血沼壮士、信太壮士)という二人の男が彼女を深く愛して求婚し、激しく争った。処女が悩み悲しんで、「私のために立派な男たちが争うのを見ると、求婚に応じることなどできません、いっそあの世で待ちます」と母に語り、海に入水して自ら命を絶った。茅渟壮士はその夜、彼女の夢を見て、後を追い、残された菟原壮士も負けるものかと後を追って死んだ。その親族たちは、この話しを長く語り継ごうと、娘の墓を中央にして、二人の男の墓を両側に作ったという」
伝承の古墳
いま神戸市の東灘区御影塚町の処女塚古墳を真ん中にして、西方二キロほどに灘区都通の西求女塚古墳(菟原壮士)、東方二キロ弱に東灘区住吉宮町の東求女塚古墳(茅渟壮士)があって、海岸部にほぼ一直線で並んでおり、これらが彼ら三人の墓だと伝えられる。
菟原処女の話は伝承だから、まず史実ではなさそうであるが、それに関わる前期古墳が三基残されるというのは興味深い。古墳の規模は、現在墳形が崩れているものもあるが、西求女塚(全長九八M超)、東求女塚(全長約八〇Mと推定)、処女塚(全長約七〇M)の順とされており、神戸市東部あたりでもこれらより大きい古墳は数少ない。
出土品など
西求女は箸墓古墳同様のバチ形の前方後方墳にも注目され、三角縁神獣鏡七面、画文帯神獣鏡・獣帯鏡各二面 など合計十二面の銅鏡と紡錘車形石製品や各種鉄製品が出土した。三角縁神獣鏡は椿井大塚山・佐味田宝塚や福岡県の石塚山古墳、広島県の中小田一号墳などの出土鏡と同笵関係にあることが知られる。処女塚からの出土品は勾玉や壺形土器や鼓形器台くらいしか知られないが、東求女塚からは内行花文鏡・画文帯神獣鏡各一面及び三角縁神獣鏡四面、車輪石などが出土し、三角縁神獣鏡が福岡県原口古墳出土鏡と同范鏡の関係にあることが分かっている。処女塚の北方近隣にあるヘボソ塚古墳(全長約六〇Mの前方後円墳)からも、三角縁神獣鏡三面(京都府南原古墳などと同范鏡関係)・画文帯神獣鏡一面など合計六面の銅鏡や石釧・勾玉などが出土している。葦屋にも三角縁神獣鏡が出土した阿保親王古墳がある。
三古墳は、副葬品や墳形などからみて、前方後方墳二基が若干早いかほぼ同時期に築造されたとみられ(実際の築造時期はそれぞれ異なるとして、その場合には西求女塚が最古で、次が処女塚とされるようだが、あまり差がないか)、六甲山南麓の住吉川及び石屋川の河口部に近い要港(武庫港)を押さえた瀬戸内海の海上交通に影響をもつ首長の墳墓だとみる見解が多い。
東求女塚の北方近隣にある住吉宮町遺跡は、弥生時代から中世にかけての複合遺跡で住吉川が形成した扇状微高地にあり、合計七二基の古墳も発見されている。そのなかで出土した埴輪には、馬形埴輪、力士や顔に入れ墨をした男という人物埴輪もあるとされ(『続日本古墳大辞典』)、住吉という地名からみても、海神族に関係があったことが窺われる。菟原郡には東求女塚の後ではめぼしい古墳は殆ど築造されなかったようであり、これも、住吉神奉斎氏族が摂津国住吉郡のほうに遷った事情に因るものか?
神功皇后
『日本書紀』の神功皇后摂政元年二月条には、神功皇后の韓地征討に随行した津守連の祖・田裳見宿祢に関連する話が見える。そこでは、海神の筒男(住吉)三神の和魂が「大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡」、すなわち務古水門(武庫の泊)を押さえる摂津国兔原郡住吉郷に居て(『古事記伝』『本住吉神社誌』などの説)、往来する船を監視したことが記される。
保久良神社
東北近隣の東灘区本山には式内社の保久良神社があり、こちらは神武東征の際に神戸の和田岬あたりから難波への海上先導にあたったと伝える椎根津彦(珍彦)を主神とし、その後裔の倭国造一族の倉人氏(後に大和連を賜姓)が奉斎した。
保久良神社
祭 神:須佐之男命 大歳御祖命 大國主命 椎根津彦命
由緒
「昭和十三年(1938)社殿改築の時、神社境内外地は古代祭祀の遺跡地として認められました。それは、社殿を取り巻く多くの岩石群が岩座・岩境を作り、その辺りから発見された弥生式・中・後期(紀元前二百年~紀元後二百年くらい)土器石器が多数出土し、昭和十六年には銅戈(重美)が発見され、そのいずれもが実用を離れ、儀礼的用途を持つものと考証されますところから、当神社祭祀の由来も極めて古いものと証明されました。この事から推考しますと、椎根津彦命が倭国造となり大和一円の開発と共に、海上交 通の安全確保のために、茅渟の海(大阪湾)の良きところを求め海辺に突出した、六甲山系の神奈備型の金鳥山を目指し、青亀(青木)で着かれ、緑深き山頂に神を祭祀する磐座を設けられ、国土開発の主祭神を奉齋して広く開拓に意を尽くされ、海上交通御守護の大任を一族に託されたのが、御鎮座の一因ではなかろうかと思われます。社名起因の一つになった続日本紀の称徳紀に、『神護景雲三年六月(769)摂津菟原郡倉人水守等に大和連を賜う。』とあり、これは祖神の遺志を継承したその一族が活躍した記事であり、古くは社頭でかがり火を燃やし、中世の頃から燈篭に油で千古不滅の御神火を点じ続け、最初の灯台として『灘の一つ火』と多くの人々から親しまれ、現在は北畑天王講の人々に受け継がれております。他の祝部土器、又鎌倉期の青銅製懸仏も発見されました。 平安期の延喜式(927)には、社名・社格を登載し、建長二年(1250)重修の棟札を所持せしことが、摂津誌(1734)に記載されております。保久良社又天王宮とも称し、中古本庄・近古本庄荘(芦屋川西岸から天上川まで)九ケ村の総氏神として崇敬され、明治五年氏子分離あり、現在は北畑・田辺・小路・中野が氏子地域となっております。」
『日本の神々3』によると、吉井良隆氏は「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷の奥夷社の元宮」と推測されている。 ホクラ神社の名を持つ古社は和泉市に穂椋神社がある。ホクラとは秀座で、境内の楊梅林には磐鏡、磐座(神生石)が至る所に点在しているようだ。瀬戸内に多い高地性集落の後、祖神を祀った聖地であったのだろう。石器の石斧、石鏃、銅戈などが多数出土している。更に祝部土器、須恵器、玻璃製勾玉なども出ている。祭祀用であろうとされている。
長狭の地
長峡は細長い地形を表わした言葉
長峽國は 長くて狭い地形をした国になる。 書紀に この長峽という文字が出てくる箇所は全部で三ヶ所しかない。 その中で二ヶ所は ここで採り上げている 巻第9の神宮皇后の項にある 「・・・活田(生田)長峽國・・・」と 先述の「・・・大津渟中倉長峽・・・」であり 他の一ヶ所は 巻第7の景行天皇の項にある「・・・豊前長峡縣・・・」だ。
活田(生田)は現在の神戸市兵庫区の生田神社の位置だから 確かに山と海に挟まれた細長い地形である。 では 豊前県はどうだろうか 書紀では 景行天皇の一行が 現在の山口県から瀬戸内海沿いの福岡県に入り 北九州市 京都郡苅田町 行橋市 築上郡築城町などを通って 大分県に向う途中 長峡縣(福岡県行橋市長尾か)に行宮を立てて休みそこを京(京都郡)と名づけたとある。 また 「碩田国(オオキタノクニ) すなわち 現在の大分に着いたときは 「地形は大きく美しい」と表現されている。
②長峡は細長い地形を表わした言葉
もう一つ 「長峽(ナガオ)」という記述を文字通り解釈すると 長峽國は 長くて狭い地形をした国になるが はたしてどうだろうか。 書紀に この長峽という文字が出てくる箇所は全部で三ヶ所しかない。 その中で二ヶ所は ここで採り上げている 巻第9の神宮皇后の項にある 「・・・活田(生田)長峽國・・・」と 先述の「・・・大津渟中倉長峽・・・」であり 他の一ヶ所は 巻第7の景行天皇の項にある「・・・豊前長峡縣・・・」だ。
活田(生田)は現在の神戸市兵庫区の生田神社の位置だから 確かに山と海に挟まれた細長い地形である。 では 豊前県はどうだろうか 書紀では 景行天皇の一行が 現在の山口県から瀬戸内海沿いの福岡県に入り 北九州市 京都郡苅田町 行橋市 築上郡築城町などを通って 大分県に向う途中 長峡縣(福岡県行橋市長尾か)に行宮を立てて休みそこを京(京都郡)と名づけたとある。
「魚崎」という地名
天保七年(1836)の新改正摂津国名所旧跡細見大絵図之部分において、現在の魚崎は、 〔五百崎〕と書かれています。この「五百崎」の名の由来は
1つは、三韓出兵の際に神功皇后が諸国から軍船を集めたところ、この浜に500隻の船が集結したという伝説。
2つに、応神天皇の代に、伊豆の国から船が献上されたが、その後老朽化して使えなくなったため、その船材を燃料として浜辺で500籠の塩を焼き、諸国にその塩を分け与えるので船を造るよう命じたところ、この浜辺に500隻の船が集まった
住吉の得名津
五百船が責上され武庫の水門一帯に集結した
のをそのまま、受取れば、これだけの船が停泊できるとなれば、武庫川の河口でも無理でしょう。武庫の浦は、現在の武庫川河口から、西宮の湾の辺りまで、広い部分につけられた浜のことでしょう。その武庫の港より、まだ西に〔住吉の得名津〕があったのではないでしょうか? 現在の住吉川の河口となりますが、得名津という地名は見あたりません。
忍熊王の勢力図
忍熊王軍は 神功皇后の帰還を襲って討たんと播磨の明石に陣取る。 それに気づいた神功皇后軍は 明石海峡を避けて 鳴門の渦潮に手こずりながら 淡路島の南を通って武庫の港に帰還し 広田神社 生田神社 長田神社の位置に陣を設け 順次明石に向けて距離を縮めて 忍熊王軍に圧力をかける。 不利を覚った忍熊王軍は住吉に退却する。 すると 神功皇后軍は 今の和歌山県の日高・小竹と南からの攻撃態勢をとる。 忍熊王軍は宇治に退いて陣取る。 神功皇后軍は 武内宿禰と武振熊王が率いる兵が 山城方面から宇治川の北に出て 戦闘が始まる。 忍熊王は 近江の逢坂で追いつかれ 狭狭浪で斬られ瀬田の渡りで死亡する。
この忍熊王らの謀反の中に 明石から住吉に退却するとある。
住吉仲皇子、生年不詳 – 仁徳天皇87年1月頃)は、記紀に伝わる仁徳天皇皇子。
『日本書紀』では「住吉仲皇子」「仲皇子」、『古事記』では「墨江之中津王」「墨江中王」と表記される。生母は葛城襲津彦の娘の磐之姫命。同母兄弟に履中天皇・反正天皇・允恭天皇がいる。
『日本書紀』履中天皇即位前条によれば、仁徳天天皇が崩御したのち、皇太子で兄の去来穂別(いざほわけ:のちの履中天皇)が黒媛(羽田矢代宿禰の娘)を妃にしようと思ったが、仲皇子が去来穂別の名を騙って黒媛を犯してしまった。仲皇子は発覚を恐れ、天皇の宮を包囲し焼いた。しかし去来穂別は脱出しており、当麻径(現・大阪府南河内郡太子町山田と奈良県葛城市當麻を結ぶ道)を通り大和に入った。この時、仲皇子の側についた阿曇連浜子の命で後を追った淡路の野島の海人らは、かえって捕らえられた。また、仲皇子側であった倭直吾子籠も去来穂別に詰問され、妹の日之媛を献上して許された。
『古事記』履中天皇段では、上述の黒媛説話はないものの反乱伝承は記されている。これによると、難波宮での大嘗祭後に墨江中王は履中天皇を焼き殺そうと殿舎に火をつけたが、天皇は大和に逃れた。そして墨江中王は、天皇側に寝返った部下の曾婆訶理に厠で討たれたという。
丸山大明神 大阪市住吉区住吉二丁目
丸山大明神(丸山塚)には、仁徳天皇の御子「墨江中王」(「住吉仲皇子」)が祀られています。
『日本書紀』などには、仁徳天皇の崩御後、墨江中王が兄の去来穂別皇子(後の履中天皇)と対立、敗死したことが記されています。
墨江中王は住吉と関係が深い安曇連や淡路野島の海人などを味方に戦ったようで、難波(履中天皇)対住吉(墨江中王)という古代の二大勢力の衝突だったのかも知れません。
大王に叛いたので、公式の墓がありませんが、縁の深い住吉大社に程近い丸山塚に葬られ、地元の人たちに守られながら今も静かに眠っていると伝えられています。
椋橋総社略記
御祭神 素盞鳴之尊・神功皇后
御社紋 祇園木瓜
当杜は古来より東西椋橋荘の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で・椋橋総杜又は椋橋荘神崎松原の社とも称する。
遠き神代の御時、素盞鳴之尊が高天が原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門(ミナト)を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神七年椋橋部連の祖、伊香我色乎命(イカガシコヲノミコト)が斎い定め祀ったと伝えられている。
椋橘荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその曲民の住む土地であった。(東寺古文 新撰姓氏録)この荘の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橘荘が石連寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津
島、嶋田、今在家、州到止、荘本(庄本)、島江、以上十四カ村と西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、推堂、穴田、富田,額田、高畑、善法寺、法界寺、以上十ヵ村と東西合わせて二十四力村からなっていた。(地理志料)
また、当杜は昔、神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭に集め、幸をお祈りになったという霊験著しい古杜である。(摂津風土記・南郷春日旧記、豊島郡史、神杜明細帳)