月読神社、十五夜綱引、相撲、隼人

大隅には月読神社が二社あるが、薩摩半島(阿多隼人側)には見当たらなかった。
 けれども、「十五夜綱引」の風習は両地域に広く分布していて、この綱引きは月を祀る風習と密接につながっている。
 「十五夜綱引」について簡単に触れておくと、綱引きの後、その綱で円を作って相撲をとるのだが、
・ワラだけではなく、カヤでも綱をなう。
・綱引きの前に月を模したもの、あるいはお月さまそのものを拝む。
・綱引きは、いわゆる運動会でやった綱引きだけではなく、ぞろぞろと引きずって部落内を練り歩く。
・綱引きのあとはその綱で円をつくり相撲をとる。

京田辺市の大住には大隅隼人を起源とするという集落がある。大住という地名自体が大隅につながるが、その村にある月讀神社では、青年達が当時の踊り(隼人舞)を最近復元し、伝えている。

任那と月読
二つの月読神社
 京都にあるいくつかの月読神社のうち、二つについて。
 京都・松尾大社の南、約1kmのところに月読神社がある。(京都市西京区)創建については書紀に記事がある。
ケンソウテンノウ記
・三年の春二月の丁巳の朔に、阿閉臣事代、命をうけて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて謂曰はく、「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒樔田を以ちてす。(歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り)壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍へまつる。

西京区の月読神社は壱岐から、もうひとつの大住の月読神社は大隅半島からの勧請であり、社名こそ同じだが系統の異なる神社だと思っていたのだが、隼人について調べていくうちに、どうやら壱岐の月読神社もまた隼人の北上によって祀られたのではないか

景行朝の記述として、熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権は武力では押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した(ヤマトタケルが弟彦(オトヒコ)という武人を美濃国に求めた神話においても、敵を酔わせて殺害する戦法を取っている)。

古事記には、景行天皇の皇子であるヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐譚が記され、日本書紀においては、それに加え、ヤマトタケルに先立つ景行天皇自身の征討伝説が記される。特に前者は、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。

考古学的には、鹿児島県・宮崎県境周辺に地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある[14]。これを含み、考古学上、隼人の墓制は三種類あり、薩摩半島南部の「立石土壙墓」(阿多隼人の墓と推測される)と「地下式板石積石室」(薩摩半島より北域)、そして広域に分布する「地下式横穴墓」となる。また、南山城の男山丘陵の大住からも横穴が多く発見されている(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するものとみられる)。

日向隼人
日向国に居住した部族。『続日本紀』和銅三年(710年)に部族の首長である曾君細麻呂が服属し外従五位下(少納言や上国の守相当)に叙されたとの記事がある。ただし、これは、713年大隅国が分離される前の記事である。『宇佐神宮史』養老三年(719年)の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」の前哨か)が見られる。

服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置(713年)後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が征隼人将軍大伴旅人によって征討(721年)された後には完全に服従した。

『日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いである(これは柔道でも柔道の起源とされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。

『日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある